前回のシャロームの回復⑦で「全ての人を尊敬できていない者」は……神がイエスキリストの十字架の贖いによって「全てのことについて感謝して生きることができる祝福」を与えてくださっていることに『同意せずに否定して拒絶すること』を自分自身で選んでしまっているので……どんなに努力していても「全てのことについて感謝しなさい」と書いてある御言葉の実行者になることも所有者になることもできないことについて書かせていただいた。……📖"尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。"
ローマ人への手紙 12章 10節
📖"何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。"
ピリピ人への手紙 2章 3節
1️⃣『約2000年間』
キリストの体であるエクレシアの霊的リーダーや牧会者たちは礼拝メッセージの時間に講壇から「全てのことについて感謝しましょう」と語ってはいるものの……「全てのことについて心から感謝できるようになる鍵」である『全ての人にたいする心からの尊敬』をほとんど誰も持っていないという矛盾をずっと放置し続けたままにしていたので……ほとんど誰も「全てのことについて感謝すること」を実行できていないまま約2000年が過ぎ去ったのは……霊的リーダーや牧会者たちの努力が足りなかったからなのだろうか?……『絶対に』そんなことはありえない。
……私は「絶対に」という言葉は神だけにしかあてはまらないと思うように常々心がけるようにしているが……霊的リーダーや牧会者たちの努力が足りないから「全てのことについて感謝しなさい」と書いてある御言葉を実行できないまま2000年が過ぎた……などということは『絶対にありえない』と断言してしまってもさしつかえないと思っている。
……もしも……けた外れな努力をついやしさえすれば……「全てのことについて感謝しなさい」と書いてある御言葉の実行者になることができるのであれば……ほとんどの霊的リーダーや牧会者たちが全てのことについて感謝することの実行者になることができていたことだろう。
……何故なら……もしも、努力というオリンピック種目があれば霊的リーダーや牧会者の方々はほとんどの方々が出場できてしまうほどにすぐれているからだ。……もちろん努力だけではなくて……霊的リーダーや牧会者の方々は……主により頼むことも……主から聴くことも……主に従うことも……神を愛することも……人を愛することも……ほとんど誰にもできないほどに非常に高くて深くて広い。
……だから……霊的リーダーや牧会者の方々の愛と忠実と従順を大いに喜んでおられる主の喜びも非常に高く深く大きい……
……では何故……「全てのことについて感謝しなさい」と書いてある御言葉の実行者が2000年過ぎ去った今でもほとんどいないままになっているのだろうか……これまでの約2000年間は……『まだ神の時ではなかった』ので……「全てのことについて感謝しなさい」と書いてある聖書の御言葉の実行者になる鍵が「全ての人を尊敬することである事実」を神が隠し続けておられたからだ……
📖"事を隠すのは神の誉れ。"
箴言 25章 2節
📖"天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。"
伝道者の書 3章 1節
📖"神のなさることは、すべて時にかなって美しい。"
伝道者の書 3章 11節
2️⃣『隠す神』
神はキリストの体であるエクレシアの霊的リーダーや牧会者たちに「全てのことについて感謝しなさい」と書いてある御言葉の実行者となる鍵が「全ての人にたいする尊敬の実行」であることを約2000年間、隠し続けておられた。……どうして隠し続ける必要があったのだろうか?
……何故なら……「全てのことについて感謝できるようになる鍵」が『全ての人を尊敬すること』であることがキリストの体であるエクレシアに明らかにされ見えるようになると……霊的リーダーや牧会者たちが「愛しているからこそ怒ったり叱責する」といったことの正当性は失われ過ぎ去り取り去られてしまうからだ。……だから……異邦人のエクレシアが誕生してからの約2000年間は隠され続けている必要があった。
……何故なら……生まれて間もない幼子に与える必要があるのは……父母からの「尊敬」「尊重」よりも父母からの「警告」「忠告」「懲らしめ」「怒り」「叱責」「鞭」といった『保護』の方がはるかに優先順位が高いからだ。
……もし……無知な幼子を尊重して……無知な幼子に食べたい物だけを無制限に食べる自由を許可してしまうと無知な幼子は必ず死ぬ。
……だから……無知な幼子を死なせないために……無知な幼子には「尊敬」「尊重」することよりも無知な幼子にとって『命綱』となる「警告」「忠告」「懲らしめ」「怒り」「叱責」「鞭」といった『保護』の方が必要不可欠であるため……「尊敬」「尊重」を横に置いておくことになろうとも『保護』を最優先させる必要がある。
……だから……旧約時代から新約時代になる前までの期間は……「神の目から見れば、モーセですらも、民に石を投げるにふさわしいメモリに完全に足りている『罪のない者』ではなかったという事実」の啓示は神の民の目から隠され続けていなければならなかったように……新約の時代になって以降の約2000年間は……霊的リーダーたちや牧会者たちの目から……「どんな理由や目的があっても人間が怒ることを選択することを聖書が許可していない事実」「新約時代には霊的リーダーや牧会者や父母だけでなく全ての人を尊敬することを聖書が要求している事実」といったことは隠され続けていなければならなかった。
……何故なら……約2000年前に誕生した異邦人のエクレシアにおいて……霊的リーダーや牧会者たちが信徒たちにたいして怒り叱責することが約2000年前からすでに全くなくなってしまっていたとしたら……幼子が父母の「懲らしめ」「怒り」「叱責」という『保護』『命綱』『守り』を失うことのように非常に危険なことであるからだ。
……もし……約2000年前から霊的リーダーや牧会者たち全員が全ての信徒を尊敬し尊重し……全く怒らず叱責せず懲らしめることをしないまま……約2000年が過ぎてしまっていたら……"そのころ、イスラエルには王がなく、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行っていた。"……と旧約聖書に書いてあるようなことになってしまっていたことだろう……
……だから……幼子がまだ幼子である期間は『保護』が最優先であるから、旧約時代においては「律法に違反し父母が懲らしめても改めない者に石を投げる」といった非常に厳粛なことがイエスキリストの新約時代が来るまでの期間は許可されている必要があった。……📖"かたくなで、逆らう子がおり、父の言うことも、母の言うことも聞かず、父母に懲らしめられても、父母に従わないときは、
その父と母は、彼を捕らえ、町の門にいる町の長老たちのところへその子を連れて行き、
町の長老たちに、「私たちのこの息子は、かたくなで、逆らいます。私たちの言うことを聞きません。放蕩して、大酒飲みです」と言いなさい。
町の人はみな、彼を石で打ちなさい。彼は死ななければならない。あなたがたのうちから悪を除き去りなさい。イスラエルがみな、聞いて恐れるために。"
申命記 21章 18〜21節
📖"主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。"
箴言 1章 7節
……しかし……イエスキリストの新約時代に……神おひとりのほかに石を投げるにふさわしい者はひとりもいない事実がイエスキリストの教えによって明らかにされた。
旧約時代からイエスキリストの新約時代が来るまでの期間は幼子のように無知で放縦な民が全滅しないように『保護』するために父母に懲らしめられても改めない者には石を投げて殺し、民全体に神を恐れさせる必要があったように……
異邦人のエクレシアも約2000年の期間は幼子のように無知なクリスチャンを『保護』するために霊的リーダーや牧会者が旧約時代のような石ではなくて……怒りの思いを投げたり……叱責したり……懲らしめたりすることが許可されている必要があった。
……しかし……神の目にはイエスキリストおひとりの他に……モーセも誰も石を投げるにふさわしい「罪のない者」ではなかったように……新約時代の霊的リーダーや牧会者たちも誰ひとりとして誰かを懲らしめたり叱ったりするにふさわしい者はひとりもいない事実が明らかにされる『成人式後の新約時代』の時が動きはじめている。……懲らしめたり叱責したりするにふさわしい父は父なる神おひとりの他に誰ひとりとしていないことが明らかにされて……『父なる神おひとりだけ』がエクレシアの「父」となるために……📖"あなたがたは地上のだれかを、われらの父と呼んではいけません。あなたがたの父はただひとり、すなわち天にいます父だけだからです。"
マタイの福音書 23章 9節
📖"「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」"
ヨハネの福音書 8章 7節
📖"しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。"
マタイの福音書 5章 22節
📖"無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしりなどを、いっさいの悪意とともに、みな捨て去りなさい。"
エペソ人への手紙 4章 31節
3️⃣『神の時』
神はまだ幼い息子娘であった民には「保護」が必要なので石を投げるにふさわしくないモーセに石を投げることを許可しておられたように……神おひとりの他に誰も叱ったり懲らしめたりするにふさわしい「父」はひとりもいないのだが……神の息子娘が幼子であった約2000年間は……まだ幼い息子娘を「保護」する「保護者」がどうしても必要だったので……叱ったり懲らしめたりするにふさわしい「父」ではない霊的リーダーや牧会者たちがまるでふさわしい「父」のように息子娘を叱り懲らしめることを許可し続けておられただけでなく……まるで「父」であるかのような権威をも与えておられた。……だが「許可」とは一時的であり……「許可」されていた時は過ぎ去る時が来る。……息子娘たち彼ら彼女らが成長して幼子ではなくなると……幼子の時期には許可されていたことはもはや許可されなくなる。
父母や霊的リーダーや牧会者の方々の目には息子娘たち彼ら彼女らはいつまでも『叱責』と『保護』がどうしても必要な幼子に見えることだろう……
……しかし……エクレシアの息子娘たち彼ら彼女らが成長して……「保護者」の「保護」を必要とする無知な幼子ではなくて……「保護者」の「保護」を必要としない「大人」になったかどうかを判断することができるのは神だけだ。
……だから……息子娘彼ら彼女らが成長して幼子ではなくなった時が来たことに気がついていない全世界のエクレシアに告げ知らせることができるのも神だけだ。……神は息子娘たち彼ら彼女らが成長して幼子ではなくなった時が来たことを全世界のエクレシアに「いつ」どのように知らせたのだろうか?……全世界の霊的リーダーや牧会者の「保護の下」「家」「建物」「場所」「教会」から息子娘たち彼ら彼女らを強制的に数年間……引き離し続けることによって……神は息子娘たち彼ら彼女らが神の目から見て『保護者の保護を必要としない大人』になった時を告げ知らせた。……今……「成人式後の新約時代」の扉が開かれているので……これまでの約2000年間……「成人式前の新約時代」にはなかったこと……見えていなかったこと……隠されていたこと……が次々に現され……動きはじめている。……「成人式後の新約時代」がはじまると……これまでの約2000年間……「成人式前の新約時代」に着ていた服は徐々にサイズが合わなくなり……過ぎ去りはじめている……
……いったい誰が幼子にひとり暮しをさせるだろうか……神も幼子にひとり暮しはさせないし……神は幼子を親の家から何年も引き離したりはしない……神が父母から引き離すのは幼子ではなくなった者だ……📖"「それゆえ、人は父と母を離れ、"
"この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです。"
エペソ人への手紙 5章 32節