シャロームを所有する

私は預言の賜物の回復を願っている。しかし私は預言の賜物を否定する方々を心から尊敬し感謝している。私が預言の賜物を熱心に求めて聖書に従うためなら…私は預言の賜物を否定する方々を不満に思い…全て感謝せよと語る聖書に逆らってよいだろうか?預言を認める牧師先生だけ尊敬し…預言の賜物を否定する牧師先生含む5役者や教団教派の方々を尊敬せず…互いに尊敬しなさいと語る聖書に逆らってよいだろうか?自分が建てたい御言葉を建て上げるために他の御言葉を壊してできた砂の上に自分が建てたい御言葉を建て上げ…家を建ててよいのだろうか?

「③いつでもどこにいても信仰の手で主の臨在に触れて主の臨在に浸りシャロームを所有する③」

主の臨在に浸るために必要なことは…

①主の臨在はどこにでもあると信じること。

教会の礼拝の中の臨在は、空気が清んだ場所のように特に格別ではあるが、もし、主の臨在が教会の礼拝の中にしかないと信じているなら、信じている通りに教会でしか臨在に浸ることができない可能性が高い。

②いつでも、どこでも主の臨在に浸りたいと願えば、主は、いつでも、どこでも主御自身の臨在に浸らせてくださると信じること。

私は主の臨在に浸らせていただけるような資格はないと信じているなら、主の臨在に浸ることは難しいかもしれない。

主の契約の箱がある至聖所(主の臨在)に入るためには2つの道、2つの信仰がある。

1つはモーセの幕屋、もう1つはダビデの幕屋。

モーセの幕屋のように至聖所(臨在)に入らせていただくためには手順を1つ1つ終えてからでないと至聖所(臨在)に入らせていただけないと信じる信仰か、

それとも、仕切りがなくて、ど真ん中に契約の箱があり、至聖所しかないダビデの幕屋のように、イエスキリストの十字架の血で贖われた神の子は常に主の臨在の中にいることができると信じる信仰か。

あなたが主に賛美を歌うことによって、モーセの幕屋の大庭に入ることができると信じる信仰か、

それとも、契約の箱がど真ん中にあるダビデの幕屋、至聖所(主の臨在)の中にいると信じる信仰か。

契約の箱の贖いのふたの上、2つのケルビムの間から聞こえる神の御声は至聖所(臨在)の中にある。

"わたしはそこであなたと会見し、その『贖いのふた』の上から、すなわちあかしの箱の上の二つのケルビムの間から、イスラエル人について、あなたに命じることをことごとくあなたに語ろう。"
出エジプト記 25章 22節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会

悔い改め、祈り、みことば等といった信仰生活の基礎は確かに重要で有益なこと。

しかし、それらがなければ神様と親密な関係になることができないのではない。

それらがありながら神様との親密な関係を持っていない人がいる。

「神を求める者は、それらの行いをせよ」と言い、それらの行いを強調するあまり、自分も他者も神の臨在(至聖所)から遠ざけている。

それらの行いをしてから神の臨在(至聖所)の中に入る必要はない。神の臨在の中に、それら全てがある。悔い改め、祈り、みことば等…全てがある。

神を愛しているなら、神に愛されたいなら、悔い改めなさい。祈りなさい。聖書を読みなさい。奉仕をしなさい…といったことばが心に満ちている人々のことば、雰囲気に反発している者たちも、

神の臨在に入れば、悔い改めるようになり、祈るようになり、みことばを得るようになるだろう。

だから主は聖書でこのように語っておられる。

"『この後、わたしは帰って来て、倒れたダビデの幕屋を建て直す。すなわち、廃墟と化した幕屋を建て直し、それを元どおりにする。
それは、残った人々、すなわち、わたしの名で呼ばれる異邦人がみな、主を求めるようになるためである。"
使徒の働き 15章 16〜17節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会

③いつでもどこでも主の臨在に浸ることができると信じ、主の臨在を感じようとすること

主の臨在を心で霊で感じようとすること。

④イメージすること
主の臨在を感じることができている実感をなかなか持てない人もいるかもしれない。

リラックスすると主の臨在を感じやすい。リラックスした時の肉体の心地よさを感じながら、このような心地よい臨在の中にいるとイメージして、信仰によって信じる…そのように主の臨在があると信じ、主の臨在をイメージすることは、主の臨在を感じることができる感覚を成長させる。

聖霊様の臨在をもっと実感できるようにならせてくださいと主に祈り求める

ただし、ただ求め続けて祈るのではない。

聖霊様の臨在をもっと実感できるようにならせてくださいと願った願いが叶えられることを期待しながら祈り求める。

この祈りによって、願い求めたことによって、どのような変化があらわれてくるだろうかと期待しながら、期待し続けながら、求め続ける。

聖書に書いてある通り、求め続けて祈ることは大切なこと。

しかし、ただ求め続けて祈ることではなく、失望せずに、求め続けて祈るようにと主は聖書の中で語っておられる。

"いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えるために、イエスは彼らにたとえを話された。"
ルカの福音書 18章 1節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会

失望せずに、求め続けて祈るとは、
希望を失わずに、求め続けて祈ること、
希望を持って、求め続けて祈ること、

期待して、求め続けて祈ること。

求め続けることも大事だが、期待し続けることはさらに重要。

何故なら「あなたがたの信仰のとおりになれ」、「あなたがたの期待し続けているとおりになれ」と昨日も今日も変わることのない主は現代においても語っておられるから。

"そこで、イエスは彼らの目にさわって、「あなたがたの信仰のとおりになれ」と言われた。"
マタイの福音書 9章 29節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会

主への期待は主への賛美。主は賛美の中に住まわれる。主への期待の中に、期待を実現させてくださる主の臨在、主御自身が住まわれる。

"だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。"
マルコの福音書 11章 24節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会

"けれども、あなたは聖であられ、イスラエルの賛美を住まいとしておられます。"
詩篇 22篇 3節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会