シャロームを所有する

私は預言の賜物の回復を願っている。しかし私は預言の賜物を否定する方々を心から尊敬し感謝している。私が預言の賜物を熱心に求めて聖書に従うためなら…私は預言の賜物を否定する方々を不満に思い…全て感謝せよと語る聖書に逆らってよいだろうか?預言を認める牧師先生だけ尊敬し…預言の賜物を否定する牧師先生含む5役者や教団教派の方々を尊敬せず…互いに尊敬しなさいと語る聖書に逆らってよいだろうか?自分が建てたい御言葉を建て上げるために他の御言葉を壊してできた砂の上に自分が建てたい御言葉を建て上げ…家を建ててよいのだろうか?

「②このブログはさばくなと言いながらさばいている矛盾したブログだろうか?②“神の国で人を教えるみことばの剣を扱う者に課せられるルールは盾を棄てること''

私はこう思う。自分の語っていることばに間違いなどあろうはずがないとよほど強く思い込むことができているから、ことばで相手をさばくことができるのだろう。

私はこのブログでさばくことはしていない。私がしていることは、さばくことではなく、多くのクリスチャンが無意識に、あるいは意図的に目をそらそうとしている事実について指摘し、

多くのクリスチャンが無意識に、あるいは意図的に目をそらそうとしている不都合な事実を目の前に突きつけているだけのこと。

愛がない?さばいてはいけない?

……そのことばは誰のためのことばですか?

神様のため?もちろん そうでしょう。神様のためになることを自分が語っていると信じているから、あなたは そのようにして「愛がない。さばいてはいけない」とあなたの教えを語ることができているのでしょう。

では、人を教えるために、ことばを語る者である あなたに私は質問します。

聖書には互いに教え合いなさいと書いてあります。だから聖書は互いに教えられ合いなさいと命令しています。

私は私を教える者から教えられるため、教えてもらうために質問させてもらいます。

「愛がない。さばいてはいけない」と語るのは、相手のためですか?それとも自分のためですか?

自分にとって耳が痛い不都合なことばを語られずに済むため、自分を守るためですか?

もし、そのようにして自分を守るためであるなら、私は私の聖書理解と聖書知識に基づいた私の論理であなたの盾を取り去らせてもらいます。

どのようにしてか……私は私の盾を捨て、あなたからの指摘を歓迎して聴くので…聞くだけではなく、じっ…と耳を傾けて聴くので、

あなたも、あなたの盾を捨てて、私からの指摘を歓迎して聴いてください。

あなたが自分を教師だと自認しているなら、あるいは、既存の教会の使徒預言者、伝道者、牧師、教師のいずれかであるなら…。

何故なら、あなたが人を教える者になりたいのであれば盾を棄てなさいと聖書は語っているからです。

ですから、互いに意見を交わし、互いに教え合い、互いに成長しましょう。

私をさばきたければさばいてくれて何の問題もありません。私はあなたからの意見を主からのことばかもしれないと思いながら歓迎して耳を傾けて聴き、私は私の意見を述べますから。

もし、あなたが私をさばいていたのだとしても、

私は互いに教え合ったことのゆえに祝福され、成長し、

あなたも、私をさばいたこらしめを受けることによって、成長の機会を得るでしょう。

あなたが自分に不都合なことを指摘されたくないなら、「愛がない。さばいてはいけないと聖書に書いてある」などと言っても私は黙りません。何故なら、それらは大義名分、偽善だからです。

しかし、もし、あなたが「その通りです。ですが、私は信仰の弱い者です。どうか暖かく見守って下さい」と言うなら、私は黙って暖かく見守ります。

見下しながら暖かく見守るのではなく、神の栄光であるあなたを心から尊敬しながら、あなたにたいすることば、追求することを控えさせてもらいます。

「そうですね。あなたは模範的であろうとして、自分のからだを打ちたたいて従わせて努力しておられ、信仰の弱い私なんて足下にも及ばないほどに、クリスチャンとして模範的な生き方を保っておられますから、私が実行しているこのみことばを実行することは、私が実行するより何十倍も困難ですよね。私が実行しているこのみことばは実行できなくても、数々のみことばを高いクオリティーで実行しておられ、私よりはるかに忠実で従順なあなたを尊敬します。ハレルヤ」と思いながらことばを控えさせてもらいます。

しかし、「愛がない。さばいてはいけないと聖書に書いてある」などと言うことばを語るなら、私は 「互いに教え合いなさいとも聖書に書いてある」とあなたに語ってそのような大義名分と偽善をくつがえします。

そして、あなたによって信仰の弱いクリスチャンたちがさばかれなくなること、あなたが信仰の弱いクリスチャンたちを暖かく見守るようになること、見下して暖かく見守るのではなく、尊敬しながら、「神の栄光、神に喜ばれているおひとりおひとり…ハレルヤ」と思いながら、暖かく見守るようになることを私は願っています。

そして、神の栄光であり、神に喜ばれているあなたの教える働き、奉仕が今以上に神に喜ばれ、祝福されるようになることを私は願っています。

"あなたがたは信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見をさばいてはいけません。"
ローマ人への手紙 14章 1節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会

あなたは一方的に教えたいだけの人ですか?「さばくだなんて愛がない」ということばで自分にとって不都合なことを指摘されないように自分を守りたい人ですか?

私はあなたに勝利するためにことばを語ってはいません。あなたが私に反論して私を敗北させてくれるなら、間違いを指摘してくれるなら、指摘してほしいと願っています。

私は私の間違いを指摘されることによって成長したいと願っているからです。

ですから私の間違いを指摘し、私を敗北させて、神のみこころをなし、神の御国、キリストの体を建て上げ、さらなる勝利へと導いて下さい。

神の御国、キリストの体の勝利は私の勝利であり、あなたの勝利だからです。

"もし、言い分があるならば、私に言い返せ。言ってみよ。あなたの正しいことを示してほしいからだ。"
ヨブ記 33章 32節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会

"愛する兄弟たち。あなたがたはそのことを知っているのです。しかし、だれでも、聞くには早く、語るにはおそく、怒るにはおそいようにしなさい。
人の怒りは、神の義を実現するものではありません。
ですから、すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけられたみことばを、すなおに受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。
また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。"
ヤコブの手紙 1章 19〜22節
"自分は宗教に熱心であると思っても、自分の舌にくつわをかけず、自分の心を欺いているなら、そのような人の宗教はむなしいものです。"
ヤコブの手紙 1章 26節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会

"あなたは、兄弟の目にあるちりが見えながら、どうして自分の目にある梁には気がつかないのですか。
自分の目にある梁が見えずに、どうして兄弟に、『兄弟。あなたの目のちりを取らせてください』と言えますか。偽善者たち。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうしてこそ、兄弟の目のちりがはっきり見えて、取りのけることができるのです。"
ルカの福音書 6章 41〜42節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会