日本の教会で弟子づくりが非常に強く強調され続けていたが、大宣教命令はみなをイエス様の弟子としなさいということであって、牧師の弟子とすることではない。
牧師の弟子となるなら、弟子はその師にまさらないと聖書に書いてあるとおりになる。
みなが互いに互いよりまさる者となれるように神様にデザインされているのに、
イエス様以外を師とするなら、師にまさらない者となってしまう。
だから、日本では使徒も、預言者も、伝道者もほとんど育っていない。
牧師の弟子はその牧師にまさるものとはならない。
牧師が弟子に「私のようになれ」と言い、弟子が「あなたのようになりたいです」と願うなら、
使徒、預言者、伝道者となる者に与えられていたはずのオリジナリティーは育たない。
何故か…基本中の基本である十戒に違反し、神の御国に逆らって歩んでいるからだ。その代償、刈り取りとして、自分自身に神が与えて下さっているオリジナリティーを失う。
"すべてあなたの隣人のものを、欲しがってはならない。」"
出エジプト記 20章 17節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会
途中で悔い改めれば問題ないだろうが、最後まで悔い改めなければ、使徒は使徒になれず、預言者は預言者になれず、伝道者は伝道者になれない。
その牧師の目には「忠実な者」と見てもらえるだろうか…。「私をよく尊敬してくれている」と喜んでもらえるだろうか…。
だが、この尊敬は聖書的な尊敬ではない。神が与えて下さっているオリジナリティーを失わせ、神ではない肉である牧師により頼ませ、依存させている。
牧師先生を頼りにすること、牧師先生がいてくれることに感謝することは健全だ。
牧師先生をないがしろにし、感謝しないよりはよほど健全だ。
しかし、それが依存になっているなら、神以外の者により頼んでいることになる。
「あなたがいてくれて感謝です」は健全だが、「あなたがいなければ私はどうにもできない」と言うなら、それは依存だ。
「神様。あの人がいてくれることは本当に感謝なことですが、もし私の前からあの人が取り去られても、神様さえいてくださったら、私はなんとかなります」と言えるだろうか?…冷たい?
もし、そう思うなら「依存」を望ましいものと思っている可能性が高い。
多くの霊的リーダー、牧師が言うだろう。「いいえ。相手に依存してほしいとは思っていません。自立してほしいと思っています」
もし、あなたが相手に願う自立とは「あなたが教えなくても、あなたが正しいと思うことをすること」であるなら、
あなたは相手があなたに「依存すること」を願っている。相手があなたの価値観に依存したままであることを願っているのだから。