霊的なリーダーのことを霊の父、霊的な父と言っていることを耳にすることがある。
しかし、「霊の父」ということばはヘブル人への手紙 12章 9〜10節にしか書いていない。
そして、ヘブル人への手紙 12章 10節には、「霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、」と書いてある。
霊の父はご自分の聖さにあずからせる存在。そんな存在は神おひとりのほか誰もいない。
ヘブル人への手紙 の著者は「霊の父」を、神だけでなく、使徒、預言者、伝道者、牧師、教師、その他の霊的リーダーとも解釈できる余地は残していない。
では、何故、今日、霊的なリーダーは霊の父、霊的な父であると言っていることを耳にするのだろうか…?
私の予想だが、コリント人への手紙第一 4章 15節を根拠としているのだろう。
"たといあなたがたに、キリストにある養育係が一万人あろうとも、父は多くあるはずがありません。この私が福音によって、キリスト・イエスにあって、あなたがたを生んだのです。"
コリント人への手紙第一 4章 15節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会
しかし、コリント人への手紙第一 の著者であるパウロは、自分のことを霊の父とは言っていない。
肉体の血のつながりがなくても、イエスキリストにあって父となることができる。
肉体の血のつながりがなくても、イエスキリストによって父となり、手紙に「私の子どもたち」とパウロは書いている。
ヨハネも手紙に「私の子どもたち」と書いている。
しかし、パウロとヨハネですらも、肉の父でしかない。何故なら、ご自分の聖さにあずからせる存在である霊の父は神おひとりのほかには誰もいないからだ。
ヘブル人への著者は「私たちには肉の父がいて、」「私たちは彼らを敬った」と書いている。
ここで書かれている「肉の父」は肉体における血のつながりがある父だけのことなのだろうか?
ヘブル人への著者は「私たちには肉の父がいて、」「私たちは彼らを敬った」と書いている。「私たちは彼らを敬った」とあり「彼ら」と書いてある。
これは、「私たちはそれぞれ自分と肉体における血のつながりがある肉の父を敬った」という意味なのだろうか?日本語においてはそのように解釈できる余地があることも否定はしない。
否定はしないが、不自然ではないだろうか?
「私たち皆から敬われている彼ら」と解釈する方が自然ではないだろうか?
この「彼ら」が「私たち皆から敬われている彼ら」であるなら、私たち皆から敬われている彼らとは、肉体における血のつながりがあるそれぞれの父だけでなく、
キリストの体において、父の役割を担っている使徒、預言者、伝道者、牧師、教師、その他の霊的リーダーと解釈することができる。
「彼ら」は父の役割を担っている敬われるべき存在だ。
しかし、「彼ら」は「肉の父親」だ。何故なら「肉の父」は解釈の可能性に幅があるが、「霊の父」は神おひとりしかいないことが明らかであるからだ。
神の御国においては、唯一の霊の父である神おひとりの他は皆、肉であり、使徒、預言者、伝道者、牧師、教師、5役者も肉であり、霊の父ではなく、肉の父であるということだ。
もっと細かく言うなら、5役者たちは「私たち皆が尊敬するべき肉の父」ではなく、「私たち皆が尊敬するべき父の役割を担ってくれている兄弟」がより聖書的と言えるだろう。何故ならイエス様はこう言われた。
"しかし、あなたがたは先生と呼ばれてはいけません。あなたがたの教師はただひとりしかなく、あなたがたはみな兄弟だからです。
あなたがたは地上のだれかを、われらの父と呼んではいけません。あなたがたの父はただひとり、すなわち天にいます父だけだからです。"
マタイの福音書 23章 8〜9節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会
では「~牧師先生」と呼ぶことはどうなのか?
私は「~牧師先生」と呼ぶ。何故か?
「愛は礼儀に反することをせず」と聖書に書いてあるからだ。
愛は礼儀に反することをせず(コリント人への手紙第一 13章 4〜5節)
"しかし、彼らにつまずきを与えないために、湖に行って釣りをして、最初に釣れた魚を取りなさい。その口をあけるとスタテル一枚が見つかるから、それを取って、わたしとあなたとの分として納めなさい。」"
マタイの福音書 17章 27節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会
神の御国の真理は重要な知識だが、神の御国の知識を得て愛を見失うことほどの本末転倒があるだろうか?
神の御国の真理を得たり、主張するために神の御国そのものを失うほどの本末転倒があるだろうか?
そんな知識はどれほど優れていようと、その人にとって何の役にも立たないどころかマイナスではないだろうか?
"また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。"
コリント人への手紙第一 13章 2節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会
私は、愛と尊敬にとどまりながら、同時に、神の御国の真理にふたをすることもしない。
それは、御名があがめられるため、御国が来て、みこころが天で行われるように地でも行われるようになるため、
"今、天にある支配と権威とに対して、教会を通して、神の豊かな知恵が示されるため"
エペソ人への手紙 3章 10節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会
"『天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。
御国が来ますように。みこころが天で行われるように地でも行われますように。"
マタイの福音書 6章 9〜10節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会
神の御国の真理において、5役者は肉であり、兄弟だが、敬うべき存在だ。全ての人が敬うべき存在だが、5役者は特に敬うようにと聖書は強調している。
しかし、神の御国の真理においては、5役者であろうと、肉の父親であり、「短い期間、自分が良いと思うままに私たちを懲らしめる」存在でしかない。
「私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめる」存在は神おひとりのほか誰もいない。
私たちの益のためになることを常に必ずしてくださる霊の父は神おひとりだけ。
5役者ですらも、「自分が良いと思うままに」与えるだけで、必ずしも相手にとって有益なものを与えることができているとは限らない。
もしかしたら、神の目には、その人にたいする神の計画を妨げたり、その人の賜物をふさいでしまう石やヘビを与えてしまっているかもしれない。
だが、肉の父が間違って与えてしまった石さえも、唯一の霊の父である神により、その人の手がパンに届きやすくなるための踏み台となり、有益なものとなる。
さらに神の御国が教会に満ちて、教会が神の御国となっていくために、『5役者たちですら神の御心、計画を妨げる石やヘビを私たちに与えてしまう肉の父親でしかないこと』を知っておく必要がある。
私が今までブログに書いたことば、今後ブログに書くことばも誰かにとっては石やヘビとなる肉にすぎない。
しかし、この肉にすぎないことばを通して聖霊様が誰かに働きかけ、神の御国における理解を深めたり、その人にとって有益な「日ごとの糧」としてくださる唯一の霊の父がおられる。
肉の父は「短い期間」だけであり、限定されている。範囲が決められている。
もし、この「教え」は絶対に正しいと信じていることを受け入れないクリスチャン、聖徒に会った時、相手が間違っていると決めつけるのか?
神の御国の真理において、5役者ですら肉の父、兄弟姉妹であるのに?
相手が間違っている可能性もあるだろう。しかし、自分が間違っている可能性もある。どちらも正しいかもしれない。どちらも間違っているかもしれない。相手が数%正しく、数%間違っているかもしれない。自分が数%正しく、数%間違っているかもしれない。
「全ての人」に聖書、ロゴスが与えられている。「それぞれ」に与えられているレイマがある。
多くの人と共有できるレイマがあり、わずかな人としか共有できないレイマがある。
あなたにとって有益なレイマも、相手にとっては相手を殺す文字になることがある。
父の役割である5役者から父の姿が失われ、会社のオーナー、社長のようになっている時代に父の姿が回復されるために、やや聖書的ではない「5役者は霊の父である」という理解を主が教会の中に浸透させておられるのかもしれない。
"さらにまた、私たちには肉の父がいて、私たちを懲らしめたのですが、しかも私たちは彼らを敬ったのであれば、なおさらのこと、私たちはすべての霊の父に服従して生きるべきではないでしょうか。
なぜなら、肉の父親は、短い期間、自分が良いと思うままに私たちを懲らしめるのですが、霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。"
ヘブル人への手紙 12章 9〜10節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会
"しかし、あなたがたは先生と呼ばれてはいけません。あなたがたの教師はただひとりしかなく、あなたがたはみな兄弟だからです。
あなたがたは地上のだれかを、われらの父と呼んではいけません。あなたがたの父はただひとり、すなわち天にいます父だけだからです。"
マタイの福音書 23章 8〜9節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会