シャロームを所有する

私は預言の賜物の回復を願っている。しかし私は預言の賜物を否定する方々を心から尊敬し感謝している。私が預言の賜物を熱心に求めて聖書に従うためなら…私は預言の賜物を否定する方々を不満に思い…全て感謝せよと語る聖書に逆らってよいだろうか?預言を認める牧師先生だけ尊敬し…預言の賜物を否定する牧師先生含む5役者や教団教派の方々を尊敬せず…互いに尊敬しなさいと語る聖書に逆らってよいだろうか?自分が建てたい御言葉を建て上げるために他の御言葉を壊してできた砂の上に自分が建てたい御言葉を建て上げ…家を建ててよいのだろうか?

「③神の主権により神が開き神が閉じる③私たちの役割は何も思い煩わずに全てのことについて感謝しながら求め捜したたくこと②」

「すべての事について、感謝しなさい」この後のことばを暗記して覚えている方はどれくらいおられるだろうか…?

「すべての事について、感謝しなさい」…この後に続くことばは…「これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです」"(テサロニケ人への手紙第一 5章 18節) …神がこれほどのことばを聖書の中で告げておられる意味と理由と重要性と優先順位の高さはいったいどれほどであるかについて考えたことはあるだろうか…?

「これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです」…このことばは非常に重要なことばではないだろうか…

これほどまでに重要なことばが重要なことばとして扱われていないのであれば…それは、このことばの前に「すべての事について、感謝しなさい」と書いてあるからではないだろうか…?

「すべての事について、感謝しなさい」…このことばを見聞きする時、多くの人が瞬時に「不可能だ…」と思う。

それはまるで、イエスキリストが弟子のピリポに、どこからパンを買って来て、5千人の倍か、それ以上の人々の群れに食べさせようか…と質問した時、ピリポが人間の計測により瞬時に「不可能だ…」と判断した時のように、「すべての事について、感謝しなさい」だなんて「不可能だ…」と瞬時に計算して判断しているようなことになるのではないだろうか。

「すべての事について、感謝しなさい」…このことばを見聞きする時、多くの人は瞬時に計測し「不可能だ…」と思い、そして、すべての事について、感謝なんてできない自分には、その続きにどんな祝福と恵みと力に満ちたことばが書いてあっても自分とは無関係なことばと見なし、切り離し、見ていても見ていない。聞いていても聞いていない。閉ざされた心には見えず聞こえていない。

何故、神は「これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです」…これほどのことばを告げられたのだろうか?

聖書が薄っぺらい本で文字数も少なかったなら…あるいは、神の命令、戒め、教えが少なかったなら…納得しやすかっただろうか…

しかし、聖書には神の数多くの様々な命令、戒め、教えが書かれている。

そしてイエスキリストが数々のことばによってはっきりと語っておられるとおり、神は聖書の命令、戒め、教えをどれ1つとして軽視してはおられない。

では…「これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです」と神がこれほどのことばを告げられた理由は…?その理由については1つのみことばともう1つのみことばを1つとなるように結び合わせることによって知ることができる。聖書に以下のように書いてあるからだ。 "主の書物を調べて読め。これらのもののうちどれも失われていない。それぞれ自分の連れ合いを欠くものはいない。それは、主の口がこれを命じ、主の御霊が、これらを集めたからである。"(イザヤ書 34章 16節)

まず第一に「これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです」と語られた神は聖書の命令、戒め、教えをどれ1つとして軽視してはおられない神であること…

次に、そのように、聖書の命令、戒め、教えをどれ1つとして軽視してはおられない神が「これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです」と語られたのであれば…

聖書の命令、戒め、教えをどれ1つとして軽視してはおられない神であることが真理であり、

聖書の命令、戒め、教えをどれ1つとして軽視してはおられない神が「これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです」と語られたことが真理であるなら…これらの真理はどのように矛盾することなく結び合わされるだろうか…?

聖書に書いてある これらの真理のみことばは…「良い木」ということばによって矛盾のない1つのみことばとして互いに結び合わせることができる。

…イエスキリストを信じ贖われた神の子となった者は良い木だ。

良い木とは何か?良い木とは良い実を自然に1つ1つ結ぶようになる力が最初から備わっている木…それが良い木だ。

聖書には多くの命令と教えが書いてある…イエスキリストを信じ贖われた神の子となった者は…自然に成長し続け、聖書に書かれている多くの命令と教えを自然に1つ1つ「実行できるようになっている」という「実」を自然に1つ1つ結ぶようになることができる力が最初から備わっている良い木…それがイエスキリストを信じ贖われた神の子だ。イエスキリストを信じ贖われた神の子はそのような良い木だ。

しかし、そんな自然に良い実を結ぶ力が最初から備わっているはずの良い木である贖われた神の子たちにも、実を結ぶために1つだけしなければならないことがある。…水路のそばに植わることをしなければならない。

水路のそばに植わることさえすれば、後は自然に成長し自然に1つ1つ実を結ぶようになる。自然に1つ1つのみことばを実行できるように成長し続ける力が最初から備わっている良い木であるからだ。

しかし、水路のそばに植わっていないなら、自然に良い実を結ぶ良い木のはずなのに、まるで良い木ではなくて悪い木であるかのように1つ1つのみことばを実行できるように自然にすくすくと成長し続けることができず、みことばの実を1つ1つ結ぶためには大いに努力し続け額に汗し続け産みの苦しみをし続けなければならない。もし、1つの実を結ぶために天からの特別な助け、雨を何回も求め、天からの雨を何回も降らせていただいて長い年月をかけてようやく実行できていなかったみことばが1つ実行できるようになる…そうであるなら、それは水路のそばに植わっていないからである可能性が高いかもしれない。

では…どうすれば水路のそばに植わることができるだろうか。…全てのことについて神に感謝することによって水路のそばに植わることができる。

何故なら聖書に以下のように書いてあるからだ。"すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。"(テサロニケ人への手紙第一 5章 18節)

すべての事について、感謝することこそ神がキリストイエスにある贖われた神の子たちに望んでおられることであるなら…聖書に書かれている他の多くの命令と教えについて実行することを神は望んではおられないのだろうか?すべての事について、感謝さえしていれば、聖書に書かれている他の多くの命令と教えについては無視したり軽視して良いのか?そうではない。

エスキリストが"わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。
まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。"(マタイの福音書 5章 17〜18節)と言われたように、キリストイエスにある者がすべての事について、感謝するなら、その他の命令、教えを軽視したり無視したりしてもよくなるのではなく、キリストイエスにある者がすべての事について、感謝するなら、その他の命令、教えが1つ1つ実行できるようになり1つ1つ成就させることができるようになる。

もし、神様とこのようなことについて以下のような会話を交わしたとすれば…と仮定してみればさらにわかりやすく理解できるのではないだろうか…以下は聖書の真理を説明するために私が創作した人と神との会話だ。

人「神様?聖書に書いてある神様の命令、教えは全部大切なんですよね?あなたが語ってくださったことばは全部大切で、イエス様もそのように弟子たちに語っておられますし、だからこそ聖書のことばは保たれ続けているんですよね?」

神様「そうだよ」

人「じゃあ…どうして、すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることですと聖書によって告げておられるんですか?」

神様「すべての事について、感謝しなさい…このことばを実行していれば、聖書に書いてある他の命令、教えを実行できるようになるからだよ」

他の命令、教えを軽視してはいけないとイエスキリストのことばによってはっきりと語っておられる神が「これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです」と聖書によって告げておられるのは…キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられる『これ』さえすれば他の命令、教えも実行できるようになり成就できるようになるからだ。

しかし、今の既存の教会、クリスチャンは反対のことをして、遠回りをしている…神が『これ』さえすれば時が来ると良い木が実を結ぶようになるのと同じで、1つ1つのみことばを自然に実行できるようになると聖書によって告げてくださっているのに…『これ』だけはできませんが他のことはできるように一生懸命努力します…そのようなクリスチャンとしてのあり方、生き方、歩み方を続けている。そのように人間の計測により、人間の目に近道に見える道を歩み、遠回りをしている。

今までに多くの牧師先生が以下のような内容のメッセージを会衆に向かって語っているのを私は私の耳で何回も聴いたことがある…「いつもすべてのことに感謝できている人がいるなら手を上げてください…そうですよね…誰も手を上げれませんよね…私もそうです…もし誰かが手を上げたとしたら、その人は偽っているだけです」…このようなメッセージを多くの牧師先生方、教役者の方々は語っており、そのようなあり方、生き方、歩み方に多くのクリスチャンたちがならい歩いている。

すべての事について、感謝することなんてできるわけがないと計測しているため、「これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです」と神が聖書によって告げておられることにどれほどに重要な意味があるかに気づかず、気づいていても目をそらし続けている。

エスキリストにある贖われた神の子たちはすべての事について、感謝するという水路に植わりさえすれば、水路のそばに植わった木のように自然に成長し続け、聖書に書いてあるとおりに時が来れば自然に1つ…また1つと…「みことばを実行できるようになっている」という「実」を1つ1つ実らせ続ける力が備わっている良い木だ。

エスキリストにある贖われた神の子たちは良い木だが、すべての事について、感謝するという水路に植わっていないなら…すべての事について、感謝するというみことばを実行していないなら…自然に成長し続け実を結び続ける良い木でありながら、まるで実を結ばない悪い木であるかのように1つ1つの実を結ぶため実を増やすため実を保つために額に汗し続けて産みの苦しみをし続けなければならない。良い木でありながら植わるべき水路に植わっていないからだ。

「すべての事について、感謝しなさい」と書かれているみことばを実行不可能なみことばと人間の見積もりと計算で決めつけ、できるはずがないと考え、「すべての事について、感謝しなさい」と書かれているみことばから目をそらし、自分の努力で実行可能に思えるみことばを実行することに心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くしている。

だから、「これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです」と聖書に書いてあることがどれほど重要な意味を持っているかを知ろうとせず…他の命令や教えよりもどれほど優先順位が高いのかを知ろうとせず…それほどまでに優先順位が高い理由についても知ろうとしていないのだろうか…?

「すべての事について、感謝しなさい」と書かれているみことばを
実行できるようになるために心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くし、心、思い、知性、祈り、信仰を尽くし神にたずね求め、捜し、たたき続ける者のために神は神の御国のドアを開いてくださる。

…ではどうすれば すべてのことについて感謝できるようになるかについて次回は書かせていただく予定だ。

"すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。"
テサロニケ人への手紙第一 5章 18節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会

"幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。
まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。
その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。"
詩篇 1篇 1〜3節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会