シャロームを所有する

私は預言の賜物の回復を願っている。しかし私は預言の賜物を否定する方々を心から尊敬し感謝している。私が預言の賜物を熱心に求めて聖書に従うためなら…私は預言の賜物を否定する方々を不満に思い…全て感謝せよと語る聖書に逆らってよいだろうか?預言を認める牧師先生だけ尊敬し…預言の賜物を否定する牧師先生含む5役者や教団教派の方々を尊敬せず…互いに尊敬しなさいと語る聖書に逆らってよいだろうか?自分が建てたい御言葉を建て上げるために他の御言葉を壊してできた砂の上に自分が建てたい御言葉を建て上げ…家を建ててよいのだろうか?

「④神の主権により神が開き神が閉じる④私たちの役割は何も思い煩わずに全てのことについて感謝しながら求め捜したたくこと③」

神はエデンの園で人に語られた…「あなたは、どこにいるのか?」

そして、神は今も神の民、キリストの体、聖徒に向かって語り続けておられる…「あなたは、どこにいるのか?」

「あなたは、どこにいるのか」…このことばに正しい返答ができる者を神は求め続け捜し続け、ドアをたたき続けておられる。

何故なら「あなたは、どこにいるのか」…このことばに正しい返答ができる者に神は神が与えたいと願っておられるどんな良いものでも与えることができるからだ。

何故なら「あなたは、どこにいるのか」…このことばに正しい返答ができる者によって神は この地上に神の御国を来たらせることができるからだ。

何故なら「あなたは、どこにいるのか」…このことばに正しく返答できる者は 神が その人自身のために計画してくださっている全ての祝福、全ての約束を所有する者となることができるからだ。

だから…「あなたは、どこにいるのか」…このことばに正しい返答ができる者を 神は今も求め続け捜し続け、1人1人のドアをたたき続けておられる。

ヨシュアは「あなた(ヨシュア)は、どこにいるのか」…このことを知ることによって、ヨシュア自身と自分と共にいるイスラエルの民のために神が計画してくださっている全ての祝福、全ての約束を所有する者となることができた。

ヨシュアは神がヨシュアに与えると約束してくださっていた全ての約束の地を所有地として所有しはじめる前…エリコの城壁に向かう前に…「あなた(ヨシュア)は、どこにいるのか」をヨシュアは知らなければならなかった。聖書に以下のように書いてある。

"さて、ヨシュアがエリコの近くにいたとき、彼が目を上げて見ると、見よ、ひとりの人が抜き身の剣を手に持って、彼の前方に立っていた。ヨシュアはその人のところへ行って、言った。「あなたは、私たちの味方ですか。それとも私たちの敵なのですか。」
すると彼は言った。「いや、わたしは主の軍の将として、今、来たのだ。」そこで、ヨシュアは顔を地につけて伏し拝み、彼に言った。「わが主は、何をそのしもべに告げられるのですか。」
すると、主の軍の将はヨシュアに言った。「あなたの足のはきものを脱げ。あなたの立っている場所は聖なる所である。」そこで、ヨシュアはそのようにした。"
ヨシュア記 5章 13〜15節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会

…「あなたの足のはきものを脱げ。あなたの立っている場所は聖なる所である。」…聖なる…とは少しも汚れていないという意味ではない。聖なるとは=主のものという意味だ。あなた(ヨシュア)の立っている地はすでに主のものであることをヨシュアはエリコの城壁に向かう前に知る必要があった。

(ヨシュア)の立っている地が主のものであることをヨシュアが知ったことにより、エリコの城壁、その他、神がヨシュアの手に渡しておられるものをヨシュアはことごとく所有することができた。

ヨシュアは自分が神にあってどのような者であるか…、神が語ったとおりにヨシュア自身が神にあってどのような存在であるか…、ヨシュアが何者であるか…を知るだけでなく、ヨシュアが立っている地について神が語っておられることを信じ、ヨシュアが立っている地はどのような場所であるのか…聖なる所…神のものであることを知った時から…ヨシュアは約束の地を1つ1つ所有しはじめることができ、神が御心のとおりにヨシュアの手に渡してくださった全ての領域を所有することができた。

私たちも同じだ。私たち自身が神にあってどのような存在であるかを知るだけでなく、「あなた(私)は、どこにいるのか」(創世記 3章 9節)…を知ること、私が何者であると神が語っておられるのかを知るだけでなく、私たちが立っている全地(全世界)はどこであるのか…、全地(全世界)は神にとってどのような場所であるのか…、私たちが立っている全地(全世界)の全ては神の主権の下にあること…を私たちが深く知ることによって、ヨシュアのように所有しはじめることができるようになる。

だから「あなたは、どこにいるのか」…このことばにたいする正しい返答は…「全地は神の主権の下にあり、私は神の主権の下にいます」と語ることだ…このことを本当に深く理解している者は神と共に所有者となることができる。

この地、全世界、この社会、この地の全ての集団、グループ、全ての人々…全地の全ては神にとってどのようなものであるかを深く理解している者を神は神がその人に与えると語っておられるすべての約束の所有者とならせることができる。

私たちの立っている場所、全地(全世界)は主の主権の下にあることを私たちが薄く理解しているだけではなくて深く理解できるようになる時、神が私たちの手に渡すと約束してくださっている全てを私たちの所有とすることができるようになる。

私たちの立っている場所、全地(全世界)は主のものであること=全地は神の主権の下にあることを薄く理解しているだけではなくて深く理解する者、所有者となることができる者とは誰か…?

…ただ知識的に返答として正しいことばを言えばいいということではない。…「全地は神の主権の下にある」と信じていて口先で言うだけでは理解が薄い。

もしかしたら口先だけではなく確信に満ちて心の底から言っていると思っている人もいるかもしれない。しかし、全地が神の主権の下にあることについての理解が薄いか薄くないか、口先だけか口先だけでないかは…語っていることばではなくて実によって見分けられる。

「全地は神の主権の下にある」と深く理解し、深く信じている者が結ぶ実とは何か?いつもすべてのことについて感謝しながら生きることだ。

「あなたは、どこにいるのか」と語っておられる神に「全地は神の主権の下にあり、私は神の主権の下にいます」と返答すれば、神は「そのとおりだ」と言われるだろう。

しかし、そのように心の底から信じていて そう語っていたとしても「いつもすべてのことについて神に感謝して生きる」「実」が結ばれていないなら…神は「そのとおりだ」と言われてから、次に神は以下のようなことばを語られることについて理解しておく必要がある。「全地はわたしの主権の下にあり、あなたがわたしの主権の下にいるなら、あなたは何故、あのことや、このことについて怒り続け、思い煩い続けているのか?

全地はわたしの主権の下にあり、起こり得た全ての出来事はわたしが許可したことであるのに、あなたは何故、怒り続け、思い煩い続けているのか?あなたはわたしが許可したこと、決定したことについて不平、不満、不服があるのか?」

…神が座るべき王座に自分自身が着いていながら、「全地は神の主権の下にあり、私は神の主権の下にいます」と口先だけで言うだけでは神に王座に着いていただくことはできない。

「全地は神の主権の下にあり、私は神の主権の下にいます」と口先だけで言うだけで、あのこと、このことについて怒り続け、思い煩い続けているなら、生き方では否定している。

自分自身が神に座わっていただくべき王座に座ったままで「我が神 、我が主よ 王座に座ってください」と言っていても…王座は1人しか座れないので、神に王座に着いていただくことはできない。

神に王座に着いていただきたいと願うのであれば…「全地は神の主権の下にあり、私は神の主権の下にいます」と深く理解し心の底から深く信じ、心の底からいつもすべてのことについて神に感謝を捧げることによって王座を降りるのであれば、神が王座に着いてくださる。

「いつもすべてのことについて神に感謝しなさい」と聖書が語っている「いつも」とはどういう意味だろうか?…怒り、思い煩いを一瞬すらも感じないという意味ではない。神は私たちをそんな感情を持たないロボットのような存在として創ってはおられない。

一時的に神の怒りを自分の怒りとし、神の悲しみを自分の悲しみとして思い煩うことは良いこと、神を愛することだ。

神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださる。(ローマ人への手紙 8章 28節)と聖書に書いてあることばは真実だ。神の怒りを自分の怒りとして怒り続け、神の悲しみを自分の悲しみとして思い煩い続けているために自分自身が神に着いていただくべき王座に着いているせいで、神に王座に着いていただけていないために敵に支配され敵に敗北していることさえも全て益となっているし、敵に支配され敵に敗北している時でさえも神を愛する者は神の愛とあわれみと恵みと栄光と真実をこの地上で現し続け輝かせることができている。

…だが、神の御名のために約束の地の所有者となることを願うのであれば…いつまでも怒り続け、いつまでも思い煩い続けて自分自身が神に座っていただくべき王座に座り続けることをやめて、神が全地の主権者であることを認めなければならない。神が全地の主権者であることを深く理解し深く信じ認めている者は以下のように語ることができる。「主よ。全地は神の主権の下にあります。だから、過去に起こり得た全てのことも、現在、起こり得ている全てのことも、これから起こり得る全てのことも、あなたが許可されたことです。全ては あなたが私の益のために…私だけでなく神を愛する私たちの益のためにあなたが許可されたことです。益とならないことは何1つとして起こり得ません。益とならないことが起こり得ることを主権者であられる神が許可されることはないからです。何故なら…あなたの愛は完全だからです。何故なら…全地は完全な愛に満ちた神の完全な主権の下にあるからです。だから、神を愛する私たちの益のために完全な主権者であり、完全な愛と完全な知恵に満ちた神が許可されたゆえに起こり得た過去、現在、未来含む全てのことについて私は神に感謝します。」

全地が神の主権の下にあることを深く理解し、深く信じているか…認めているか認めていないかは、「全地は神の主権の下にある」と言うか言わないかではない。

「全地が神の主権の下にあること」を認めているか認めていないかは「いつも全てのことについて感謝」しているかしていないかで見分けることができる。

口先で「全てのことについて感謝します」と言っているか言っていないかではない。

「全地が神の主権の下にあること」を深く理解し深く信じ認めているなら「いつも全てのことについて感謝して生きている」という「実」が結ばれる。だから言っているか言っていないかではなく「実」によって見分けることができる。

あなたは誰ですか?「さばかれるべき罪人」ですと答えても間違いではない…そうであるとも神は聖書によって語っているから。しかし、神は聖書によって以下のようにも語っている。あなたは誰ですか?…あなたは神の子です。

あなたはどこにいるのですか?「敵の陣地にいます」と答えても間違いではない…そうであるとも神は聖書によって語っているから。しかし、神は聖書によって以下のようにも語っている。あなたはどこにいるのですか?…あなたは完全な愛と完全な知恵に満ちた神の完全な主権の下に置かれている敵の陣地にいます。

「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」このことばは…私たちが失敗した時だけのためのことばだろうか?すべてのこととはすべてのことであり、過去、現在の起こり得たことすべてとこれから起こり得るすべてのことだ。

完全な愛と完全な知恵に満ちた完全な主権者である神は過去、現在の起こり得たことすべてのことだけでなく これから起こり得るすべてのことを益となし続けてくださっている。そして益とならないことは何1つ起こり得ない。益とならないことが起こることすらも神は許可されることはない。神の完全な主権、完全なセキュリティーは益とならないことを何1つとして通過させることはない。

だからこそ神は「いつでも、すべてのことについて神に感謝しなさい」と語り、要求する権利、資格を持っておられる。

「いつでも、すべてのことについて神に感謝すること」こそ神が受けるにふさわしい賛美であり、礼拝であり、祈りだ。

しかし、誤解のないように このことを言っておきたい。いつでも、すべてのことについて神に感謝していなくても、怒り続け、思い煩い続けていることがあっても、神を愛しているあなたは確かに神をあなたの王として歓迎しているし、確かに神は あなたの王として歓迎され王座に着いておられる。

しかし、このことも言っておこう。あなたはたくさんの領地を持っている。あなたがたくさん持っている領地の中にあなたの過去という領地がある。

あなたはあなたの過去という領地をたくさん持っている。その中に神に感謝できていない過去があるなら、その神に感謝できていない過去という領地では神ではなくて、あなたが王座に着いている…次回はこういったことについて色々と書かせていただく予定だ。

"すると、主の軍の将はヨシュアに言った。「あなたの足のはきものを脱げ。あなたの立っている場所は聖なる所である。」そこで、ヨシュアはそのようにした。"
ヨシュア記 5章 15節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会

"神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。"
ローマ人への手紙 8章 28節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会

"いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝しなさい。"
エペソ人への手紙 5章 20節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会

"すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。"
テサロニケ人への手紙第一 5章 18節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会