シャロームを所有する

私は預言の賜物の回復を願っている。しかし私は預言の賜物を否定する方々を心から尊敬し感謝している。私が預言の賜物を熱心に求めて聖書に従うためなら…私は預言の賜物を否定する方々を不満に思い…全て感謝せよと語る聖書に逆らってよいだろうか?預言を認める牧師先生だけ尊敬し…預言の賜物を否定する牧師先生含む5役者や教団教派の方々を尊敬せず…互いに尊敬しなさいと語る聖書に逆らってよいだろうか?自分が建てたい御言葉を建て上げるために他の御言葉を壊してできた砂の上に自分が建てたい御言葉を建て上げ…家を建ててよいのだろうか?

「⑥神の主権により神が開き神が閉じる⑥私たちの役割は何も思い煩わずに全てのことについて感謝しながら求め捜したたくこと⑤成熟した幼子として生きる①≪恐れ≫により≪放縦≫から守られる」

「いつも全てのことについて神に感謝すること」が土台であり、この土台がなければ「ズレ」が生じるのであれば…神は何故、この土台をまず最初に築き上げることをしなかったのだろうか?…それは愛に満ちているだけではなくて、知恵に満ちておられる神の知恵と計画と戦略によってなされたことだ。

「いつも全てのことについて神に感謝する生き方」は全ての≪恐れ≫が締め出されてしまうほどに神の全き愛を深く理解した結果として結ばれる実だ。(ヨハネの手紙第一 4章 18節)

全ての≪恐れ≫が締め出されることは良いことだが、全ての≪恐れ≫が締め出されることが誰にとってでも良いことになるとは限らない。

例えば…私が歩いている道の前方に、幼い子を叱りつけている母親がいたとする。

その母親は自分の幼い子供を心の底から深く愛している母親で、自分の子に「そんなことは絶対にしてはダメ!そんなことをしたら家に入らせないからね!」と言っていることばを私が偶然耳にして…母親にそんなことを言われて恐れ萎縮している幼い子をかわいそうに思って、その幼い子に近づいて、私がもしも以下のようなことばをその幼い子に語ったとしたらどうだろうか?

「キミのお母さんは家に入らせないみたいなことをくちでは言っているけど…絶対にそんなことはないから安心していいよ。キミのお母さんはキミのことを心の底から深く愛していて、すごく大切に思っているから…だから、キミのお母さんはキミを家から追い出すふりをするだけだよ。もしキミが家の外に追い出されて、家から閉め出されるようなことがあったら…どこかに隠れて見ててごらん…しばらくしたらキミの様子を見に来たお母さんの方がキミが家の前からいなくなっていて大慌てしている様子を見ることができるよ」…この語っている内容は確かに全て事実、全て真実である場合…全て事実であり、全て真実であるからこそ、あまりにも幼い子にこのような事実、真実を明らかにしてはならない。

もし幼い子にこのような入れ知恵をしようものならほぼ確実に神からのお叱りを受けることになるだろう。何故なら、聖書は事実、真実を知っているだけの者を知恵のある者とは言っていないからだ。

幼い子は母親の言うことを聞かないと母親に追い出されるかもしれないと思い、その事実ではない間違った思い込みにより≪恐れる≫ことによって家の外にある本当の危険から守られている。

実際には自分の子を心の底から深く愛している母親は自分の子を本当に家から追い出すなんて危険なことは決してしない、追い出すとしても一時的に閉め出すだけだ。今の時代は、幼かった私が一時的に家の外に閉め出されたような頃と違って、一時的に閉め出すことすらも危険な時代なので自分の子を一時的に閉め出すことすらしないだろう。

しかし、母親の言うことを聞かず母親から禁止されていることをすると家から追い出されるかもしれないと幼い子が≪恐れる≫ことによって、幼い子にとって本当に有害で危険なことの数々から幼い子は守られている。

だから…どれが危険かそうでないかがわからない幼い子に入れ知恵をして母親の言うことを聞かないと恐ろしいことになると思い込んでいる幼い子の≪恐れ≫を取り去ってしまうことは…「赤信号は止まれ」、「車にあたったら死ぬ」…等のことですらも知らない程にあまりに幼い子に町を自由に1人で散歩できるようにさせてしまうようなものだ。

だから、親に逆らったらどんなひどい仕打ちを受けるかわからないと事実ではないことを事実と信じ、事実だと思い込んでいる≪恐れ≫は幼い子が数々の危険から守られるためのストッパーや柵としての役割をしている。分別ができない程にあまりに幼い子には≪恐れ≫、ストッパー、柵が必要だ。だから、分別ができないようなあまりに幼い子から≪恐れ≫を取り去ってしまう入れ知恵する者にはほぼ確実に神からのお叱りがあることだろう。"神を敬わない者はその口によって隣人を滅ぼそうとするが、正しい者は知識によって彼らを救おうとする。"(箴言 11章 9節)

"悪者のあわれみは、残忍である。"(箴言 12章 10節)

それと同じように…教会、キリストの体がまだ幼子、幼い乳飲み子のようであった時代においては『牧師先生に絶対服従しなければならない』と教会に、キリストの体に強固に思い込ませておく必要があった。

実際には『牧師先生に絶対服従という生き方』は聖書的な生き方ではない。だが、≪放縦≫という非常に危険な生き方よりははるかに良く安全な生き方だ。(ユダの手紙 1章 4節)

≪放縦≫にならないため…このことこそが『牧師先生に絶対服従という生き方』がクリスチャンとしての最も正しい生き方、常識、スタンダードとして多くのクリスチャンの共通認識となってしまうほどにまで神が長い教会の歴史の中で徹底的に強調して教え込み続ける必要があった理由だ。

以下に書いたような聖書的な生き方を神は最初から教えることもできた。

『【牧師】(霊的リーダー)を自分よりまさっていると思いなさいと聖書に書いてありますか?…いいえ「尊敬をもって互いに【人】を自分よりまさっていると思いなさい。」と聖書には書いてあります。(ローマ人への手紙 12章 10節)

…ですから信徒たちは牧師たちを尊敬し、牧師たちも信徒たちを尊敬し、信徒たちは他の信徒たちを尊敬しなさい。

次に…【牧師】(霊的リーダー)が一方的に教え、牧師(霊的リーダー)から一方的に教えられなさいと聖書に書いてありますか?…いいえ「キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして【互いに】教えなさい」と聖書は言っています。(コロサイ人への手紙 3章 16節)

ですから信徒たちは牧師たちから神のことばについて教えられ、牧師たちも信徒たちから神のことばについて教えられ、信徒たちは他の信徒たちに神のことばについて教えられ合いなさい。

次に…"こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。
それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、"(エペソ人への手紙 4章 11〜12節)…と聖書に書いてありますが、聖書には以下のようにも書いてあります。"しかし、あなたがたは先生と呼ばれてはいけません。あなたがたの教師はただひとりしかなく、あなたがたはみな兄弟だからです。"(マタイの福音書 23章 8節)』

…このようにどちらか一方に偏っていない聖書的な教えを牧師たち、霊的リーダーたちに最初から語らせて、全てのクリスチャンに共通認識されている土台として置いてから教会、キリストの体を築き上げることもできた…が…神はそうはされなかった。何故なら、人の内にあるもの、人の性質を神はよく知っておられるからだ。人は≪放縦≫に流れやすく、≪放縦≫を好む。神が立てた権威に従うよりも、逆らうことを好む。牧師先生に従うことよりも、牧師先生に逆らうことを好む。

信仰によってとか、神の国ということを横に置いて、ただ人間的に、ただ社会的に見るなら、牧師先生は血のつながっていない他人だ。人間的、社会的に見るなら、牧師先生の言うことに逆らっても法律違反ではないし、罰金も刑罰もない。牧師先生の言うことに従ったところで給料はもらえない…このように、人間的、社会的に見るなら牧師先生に従うべき理由は全くないに等しい。

≪放縦≫を好み≪放縦≫に流されやすい人間が「牧師先生はあなたと対等の存在であり、あなたは牧師先生に自由に反論し自由に意見を語ることができると聖書は告げています…でも…牧師先生に従うことも大切だと聖書は告げています」…このような事実、真実を最初から知らされていたとしたら何人の人が人間的、社会的に見るなら従うべき理由は全くないに等しい牧師先生の言うことに自主的に従う選択を保とうとするだろうか?…そうであれば何人の人が≪放縦≫に流されてしまい、牧師先生を通して与えられる神の国の祝福、恵み、霊的養い、整えられる機会を受け損なうことになっていただろうか…?

…幼い子に自由と権利について教え、幼い子に自由と権利を与えることは無知で分別のない幼い子にとって避けようのない滅びを選択する自由を与えてしまうことと同じだ。

だから、愛に満ちているだけでなく、知恵に満ちておられる神は教会、キリストの体がまだ乳飲み子のように幼かった時代、良い物と悪い物とを見分ける感覚が備わっていないため堅い食物を摂取することができなかった時代、牧師先生、霊的リーダーが一方的に語るみことばを乳飲み子が乳を慕い求めるように慕い求め続け、養われ続け、整えられ続ける必要があった時代には神は牧師先生たち、霊的リーダーたちに『牧師先生に絶対服従せよ』と極端なまでに強調しすぎなぼどに強調させて語らせ続け、やや聖書的でない生き方を最も聖書的な生き方であると思い込ませ続け、信じ込ませ続ける必要があった。

牧師先生から律法的に一方的に教えられることは聖書的ではない…しかし、牧師先生から「こうしなければならない」と律法的に一方的に教えられることによって守られ養われ整えられ成長するべき時代、時期がある。もちろん、神の国は牧師先生、霊的リーダーの柵の中、囲いの中の外にもある。しかし、牧師先生、霊的リーダーの柵の中、囲いの中にいるべき時代、時期がある。

しかし、幼い子はやがて青年となる。

良い物と悪い物とを見分ける感覚がほとんどないため、親自身の良い物と悪い物とを見分ける感覚によって親自身が良いものであると判断したものを一方的に与えられていた幼い子とは違って、青年には良い物と悪い物とを見分ける感覚がある。彼ら彼女らは事実を知り、真実を知り、自由と権利を得ることができる。

だがその自由と権利は良い物と悪い物とを見分ける感覚のある青年である彼ら彼女らが自分で選んだ責任を伴う。幼い子には自由と権利はほとんど隠されているが責任はほとんどない。

"私は、いのちと死、祝福とのろいを、あなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい。"(申命記 30章 19節)

神は教会に、キリストの体に、「いつも全てのことについて神に感謝して生きる生き方」を得させる前に、まずは「牧師先生、霊的リーダーに絶対服従して生きる生き方」を得させる必要があった。いつも全てのことについて神に感謝して生きる生き方は牧師先生、霊的リーダーに従わない≪恐れ≫すらも締め出すことができる。だから、(牧師先生、霊的リーダーに従うことが絶対ではないが、)牧師先生、霊的リーダーに従うことも神の国において大切であることを知ろうとしたがらない≪放縦≫を好む無知で分別のない奔放な幼子である者には、牧師先生、霊的リーダーに従わない≪恐れ≫すらも締め出してしまう「いつも全てのことについて神に感謝して生きる生き方について」はまだ奥義として隠されていなければならなかった。しかし、この奥義は開かれる。「牧師先生、霊的リーダーに絶対服従すること」によって幼子から≪成熟した大人≫となった教会、キリストの体がさらに、神の全き愛と神の国と神の完全な主権について深く理解して「いつも全てのことについて神に感謝して生きる生き方」を得て≪成熟した幼子≫となるために。≪成熟した幼子≫となることによって、聖書の中でイエスキリストが幼子に与えると約束しておられる約束を得るため、所有するためだ。

≪成熟した幼子≫として生きる生き方…「いつも全てのことについて神に感謝して生きる生き方」から「ズレ」た生き方、聖書的な生き方から「ズレ」た生き方は≪放縦≫よりははるかに損失は少ないが、確かに多くの「ズレ」と損失が存在する。だから次回はそのことについて書かせていただく予定だ。

"愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。"
ヨハネの手紙第一 4章 18節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会

"というのは、ある人々が、ひそかに忍び込んで来たからです。彼らは、このようなさばきに会うと昔から前もってしるされている人々で、不敬虔な者であり、私たちの神の恵みを放縦に変えて、私たちの唯一の支配者であり主であるイエス・キリストを否定する人たちです。"
ユダの手紙 1章 4節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会

"生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。"
ペテロの手紙第一 2章 2節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会

"しかし、堅い食物はおとなの物であって、経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練された人たちの物です。"
ヘブル人への手紙 5章 14節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会