シャロームを所有する

私は預言の賜物の回復を願っている。しかし私は預言の賜物を否定する方々を心から尊敬し感謝している。私が預言の賜物を熱心に求めて聖書に従うためなら…私は預言の賜物を否定する方々を不満に思い…全て感謝せよと語る聖書に逆らってよいだろうか?預言を認める牧師先生だけ尊敬し…預言の賜物を否定する牧師先生含む5役者や教団教派の方々を尊敬せず…互いに尊敬しなさいと語る聖書に逆らってよいだろうか?自分が建てたい御言葉を建て上げるために他の御言葉を壊してできた砂の上に自分が建てたい御言葉を建て上げ…家を建ててよいのだろうか?

「④成熟した幼子は神の全きシャロームの中で生きる④あなたを責めたてるどんな舌でも、あなたはそれを罪に定めることができるが、そうした場合には あなたの舌も罪に定められる」

1️⃣
誰かにたいするさばきのことばを声に出して語ることはしていなくても、誰かにたいするさばきのことばを心の中で語っているなら…誰かをさばいたことになるだろうか?ならないだろうか?

エスキリストは以下のように語られた…"わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。"(マタイの福音書 5章 27〜28節)…姦淫の罪がそのようであるなら…だれでも誰かを心の中でさばいているなら、すでに心の中でさばく罪を犯したのです…ということにならないだろうか…。

「心の中で誰かをさばくことすら罪であるなら、誰がそんな戒めを守ることができようか…?」…と思うだろうか…?

…しかし、私は「できる」と返答させていただこう。何故なら誰かを「ジャッジ」しなければいいだけのことなのだから。心の中で「ジャッジ」さえしてしまっていなければさばいたことにはならない。

さばくとは=ジャッジすることであり…ジャッジするとは=判定を下すこと、判決を下すことだ。

スポーツの審判は「あなたは反則をした」とそのスポーツの選手に判定を下す。

スポーツの審判が「あなたは反則をした」と判定を下すように、私たちが「あの人は神を悲しませることをして罪を犯している」と心の中で判定し断定してしまっているなら…さばいてしまっていることになる。

しかし、私たちが「あの人は神を悲しませることをしてしまっているのではないだろうか…?」と心の中で予想するだけであるならば、さばいたことにはならない。「あの人は神を悲しませることをしたのではないだろうか…?」と心の中で予想することは…スポーツの審判に例えるなら、判定を下す前の段階で…審議している段階のようなものだから さばいたことにはならない。

2️⃣
誰かが何らかのことをしたことについて私たちが見聞きする時、私たちの五感や思いや聖書知識や御霊の賜物による識別力といった「神を悲しませる罪を探知するセンサー」が反応して警報を鳴らすことはある。無分別になっていて分別のセキュリティーセンサーが全く反応しなくなっているのでなければ、不快感や「それは聖書的ではない」といった思い等の警報が鳴ることは避けられない。

しかし、そのようにして分別のセキュリティーセンサーが反応して色々な警報が鳴ることは≪誰かをさばいてしまう罪≫ではない。

もしも、分別のセキュリティーセンサーが反応して警報が鳴ってしまうことすら、≪誰かをさばいてしまう罪≫として判定されてしまうのであれば…「誰がそんな戒めを守ることができようか?」…という意見に私も同意しよう。しかし、神は無分別になれとは言っておられない。分別を持つようにせよと神は聖書の中で語っておられるからだ。

分別を持っているなら分別のセキュリティーセンサーが反応して警報が鳴ることは避けられない。もし、分別のセキュリティーセンサーが反応して警報を鳴らしてはいけないのであれば、無分別になる以外に方法はないだろう。しかし、神は無分別にならずに分別を持つようにせよと聖書の中で語っておられる。

分別のセキュリティーセンサーが反応して警報を鳴らすことは分別を持っている以上避けることはできないことだ。…しかし、≪さばく≫か≪さばかない≫かはそれぞれが自由に選択することができる。

3️⃣
分別のセキュリティーセンサーが反応して警報が鳴った時…今、私の分別のセキュリティーセンサーが「聖書的ではないこと」「聖書の教えに反すること」「神を悲しませること」「罪」を感知しました。だから「あなた(その人)のしたそのことは神を悲しませること」です。「罪」です。…と声に出して言ってはいなくても、心の中でそのようなことをなんの疑いもなく完全に確信して信じ込んでしまっているなら…心の中ですでに判定を下し、判決を下し、心の中では《すでにジャッジが完了してしまっている》

声に出して言っていなくても心の中では《すでにジャッジが完了してしまっている》のであれば…すでに≪誰かをさばいてしまう罪≫に触れてしまっていて その手を≪誰かをさばいてしまう罪≫で染めてしまっている…と主によって判定されることになるだろう。判定するのは私ではない。そのような人にたいして私が判定を下すのではない。私ではなくて主がそのような人に判定を下される。誰かがしたなんらかのことが罪か罪ではないかの判定を下すなどということは人間である私には許されていないことであるからだ。

4️⃣
罪か罪でないかの判定を下し、判決を下しても罪にならないお方は唯一の主ただおひとりだけだ。何故なら唯一の主ただおひとりだけが善と悪を完全に区別し分けることができるからだ。神ではない誰かが善と悪を完全に区別して分けようとしたところで必ず善の振り分けの中には善であるかのように見える悪が混じり、悪の振り分けの中には悪であるかのように見える善が混じる。たとえそれが神の油注ぎに満ちていて世界的に認められている有名な使徒預言者、伝道者、牧師、教師であろうとも…神おひとりの他には1人の例外もなく誰であろうと善と悪を完全に区別し分けることができる者はいない。何故なら主ただおひとりだけが「神」であるからだ。≪さばくこと≫は主ただおひとりの他には誰1人として立ち入ってはならない神の≪神聖なる領域≫だ。

だから…神の油注ぎに満ちていて世界的に認められている有名な使徒預言者、伝道者、牧師、教師であろうと…もし、私に「あなたがしているこのことによってあなたは神を悲しませてしまっている」と言うなら…本当にその人が私の罪を完全に正確に過不足なく言い当てていたとしても…神がその舌を罪に定められるだろう。しかし、常に例外はある。神が私の罪についての啓示をその人に与えるだけでなく、「あなたがしているこのことによってあなたは神を悲しませてしまっている」と言いなさい、あるいは相手を責めるようなことばで語りなさいと神から命じられているとか、そのように神によって導かれている場合はその舌が罪に定められることはないだろう。

しかし、そのような特殊な例外を除いた場合…"あなたを責めたてるどんな舌でも、あなたはそれを罪に定める。これが、主のしもべたちの受け継ぐ分、わたしから受ける彼らの義である。--主の御告げ--」"(イザヤ書 54章 17節)…と聖書に書いてあるので、神の油注ぎに満ちていて世界的に認められている使徒預言者、伝道者、牧師、教師であろうとも、もし、私に「あなたがしているこのことによってあなたは神を悲しませてしまっている」と言うなら、本当に私の罪を完全に正確に過不足なく言い当てていたとしても…私は その舌を罪に定めることができる。何故なら私は、私を責めたてるどんな舌でも、それを罪に定めることができる者とされているからだ。…しかし、私を責めたてるどんな舌でも罪に定めることができるからといって、私は私を責めたてるどんな舌であっても罪に定めることはしない。もし、私が…私を責めたてる誰かのその舌を罪に定めれば、その舌を罪に定めて責めたてた私の舌を他の誰かが罪に定めることになる。たとえ他の誰かが私の舌を罪に定めることをしなくとも神が私の舌を罪にお定めになる。

エスキリストは言われた。…"剣を取る者はみな剣で滅びます。"
(マタイの福音書 26章 52節)"あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。"(マタイの福音書 7章 2節)"ご承知のように、私たち教師は、格別きびしいさばきを受けるのです。"(ヤコブの手紙 3章 1節)

5️⃣
私は誰かをさばいてしまうことによって、誰かからさばきを刈り取ることになりたくないからさばかない選択をしているのではない。

私は私のことをさばき見下し蔑みののしりながらであろうとも私に助言、教え、指図を与えてくれる人のことばを尊び耳を傾ける。主がこの人を通して私に何かを語ってくださっているのかもしれないと思いながら耳を傾ける。そのようにしていると…"だから、聞き方に注意しなさい。というのは、持っている人は、さらに与えられ、"(ルカの福音書 8章 18節)…と聖書に書いてあるとおりに、持っている者にますます豊かに与えてくださる主がますます豊かに与えてくださる。だから私は私をさばく人、さばこうとする人、そのような人たちを「さばくことは罪だ」と言って遠ざけてしまうようなもったいないことはしない。私をさばく人、さばこうとする人、そのような人たちと出会わせ、そのような人たちからなんらかのことばを聴く機会を下さった主に感謝し、そのように人をさばかずにはいられないほど苦労してこられたのであろう方々を敬い尊敬し尊び耳を傾ける。そうすると…持っている者にますます豊かに与えてくださる主がますます豊かに与えてくださることを私は何度も何度も見させていただき、体験させていただき、今もそのような体験の中を歩ませていただいている。

だから私がさばかない選択をしている理由は私が誰かからさばきを刈り取りたくないからではない。

私の分別のセキュリティーセンサー全てが「それは罪だ」と告げて警報を鳴らしていようとも、私はそれに全面的に同意することはせずに「いや…私には罪であるかのように見えているだけで、主はこの人がしているこのことを喜んでおられるかもしれない」と思いめぐらし考えることによって私が心の中においてもさばかないようにしている最大の理由は…不完全な知識しか持っていないない人間である私は不完全な分別しか持っていない者であって、さばく資格のない者であることをわきまえ知っているからだ。

だからといって私の分別のセキュリティーの数々が警報を鳴らしているのに、相手に何も伝えないという選択をするつもりはない。相手にシェアして伝えることができるのであれば「あなたがこのようにすれば、あなたにとってもっと良いことになるのではないでしょうか?もしかすると、主は、あなたがそのようにすることを願っておられるのではないでしょうか?」とシェアして伝え…「あなたはどう思われますか?」とたずね、相手の返答、ことば、反論、感想等に耳を傾ける。相手も私のことばに耳を傾けてくれる場合は互いの意見を交わし、審議を交わす。そうして「この人を行き詰まらせているのはこの人のどんな罪だろうか…」と相手を心の中でさばきながら相手のことばに耳を傾けるのではなくて「主はこの方のことを喜んでおられるにちがいない。主はこの方にどのような良い報酬、さらに豊かな祝福を与えようとしておられるのだろうか…」という前提で相手のことば、意見に耳を傾け続けているうちに、主が互いのくちのことばを導いてくださるようになり、私の中にはついさっきまでなかった知恵が思い浮かび…行き詰まっていた方が神の祝福の中へとさらに大きく前進するようになる…そのようなことを私は何度も何度も見させていただき、体験させていただき、今もそのような体験の中を歩ませていただいている。

"しかし、もしあなたがたの心の中に、苦いねたみと敵対心があるならば、誇ってはいけません。真理に逆らって偽ることになります。
そのような知恵は、上から来たものではなく、地に属し、肉に属し、悪霊に属するものです。"
ヤコブの手紙 3章 14〜15節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会

"あなたを攻めるために作られる武器は、どれも役に立たなくなる。また、さばきの時、あなたを責めたてるどんな舌でも、あなたはそれを罪に定める。これが、主のしもべたちの受け継ぐ分、わたしから受ける彼らの義である。--主の御告げ--」"
イザヤ書 54章 17節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会

"聞き方に注意しなさい。というのは、持っている人は、さらに与えられ、持たない人は、持っていると思っているものまでも取り上げられるからです。」"
ルカの福音書 8章 18節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会