シャロームを所有する

私は預言の賜物の回復を願っている。しかし私は預言の賜物を否定する方々を心から尊敬し感謝している。私が預言の賜物を熱心に求めて聖書に従うためなら…私は預言の賜物を否定する方々を不満に思い…全て感謝せよと語る聖書に逆らってよいだろうか?預言を認める牧師先生だけ尊敬し…預言の賜物を否定する牧師先生含む5役者や教団教派の方々を尊敬せず…互いに尊敬しなさいと語る聖書に逆らってよいだろうか?自分が建てたい御言葉を建て上げるために他の御言葉を壊してできた砂の上に自分が建てたい御言葉を建て上げ…家を建ててよいのだろうか?

ショートメッセージ・マタイ1章6節「ダビデに、ウリヤの妻によってソロモンが生まれた」…主はウリヤの妻バテシェバのことを「ソロモンの母バテシェバ」と心におぼえてくださっている

エスキリストの系図が書いてあるマタイの1章の6節には「ダビデに、バテシェバによって」とは書かれてはおらず「ダビデに、ウリヤの妻によって」と書かれている。イエスキリストの系図においてそんな書き方をされている女性はバテシェバだけだ。マタイ1章の3節では「タマルによって」5節では「ラハブによって」「ルツによって」と書いてあるが、6節では「バテシェバによって」ではなく「ウリヤの妻によって」と書かれている。

おそらく、私を含めてかなり多くのクリスチャンが「バテシェバ」という名を耳にする時…瞬時に「ダビデの罪」といったことが自動的に連想されるのではないだろうか。

マタイ1章の「アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエスキリストの系図」において「バテシェバ」とは書かずに、「ウリヤの妻」と書いてあることを見る時、ダビデにたいする主のあわれみと配慮を見ることができる。

マタイの1章に書いてある系図の中で「バテシェバ」のことを「ウリヤの妻」と書くことによって、神はダビデの罪を覆ってくださっている。

しかし、聖書の中で「バテシェバ」のことを「ウリヤの妻」と書くことはダビデにとっては大いに感謝なことではあるだろうけれども、バテシェバにとってはどうなのだろうか…?主は「バテシェバ」を「ウリヤの妻」…としか記憶しておられないのだろうか…?主は「バテシェバ」の名を忘れてしまわれたのだろうか…?そんなことはない。主は「バテシェバ」のことを心におぼえておられる。ではどのようにおぼえておられるのだろうか…?「ウリヤの妻バテシェバ」だろうか?「ダビデの妻バテシェバ」だろうか?…そうではない。主はバテシェバのことを「ソロモンの母バテシェバ」と心におぼえておられる。

聖書の登場人物のセリフ以外のナレーションは誰のことばだろうか?預言者?聖書を書いた人?…そのとおり。聖書を書いた主のことばだ。聖書のナレーター(語り手)は主であり、聖書のナレーションは聖書のナレーター(語り手)である主が語っておられることばだ。

だから、主がバテシェバのことを「ソロモンの母バテシェバ」と心におぼえておられることについて、以下の聖書箇所において聖書のナレーター(語り手)である主のことばを見ることによって確認することができる。

"それで、ナタンはソロモンの母バテ・シェバにこう言った。"
列王記第一 1章 11節

"あるとき、ハギテの子アドニヤがソロモンの母バテ・シェバのところにやって来た。"
列王記第一 2章 13節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会