シャロームを所有する

私は預言の賜物の回復を願っている。しかし私は預言の賜物を否定する方々を心から尊敬し感謝している。私が預言の賜物を熱心に求めて聖書に従うためなら…私は預言の賜物を否定する方々を不満に思い…全て感謝せよと語る聖書に逆らってよいだろうか?預言を認める牧師先生だけ尊敬し…預言の賜物を否定する牧師先生含む5役者や教団教派の方々を尊敬せず…互いに尊敬しなさいと語る聖書に逆らってよいだろうか?自分が建てたい御言葉を建て上げるために他の御言葉を壊してできた砂の上に自分が建てたい御言葉を建て上げ…家を建ててよいのだろうか?

短めのメッセージ「今の地が過ぎ去った時、復活した私たちが、新しい天と新しい地で互いに交わす最初のことばは何であろうか……『おはよう』だ。何故なら、復活したイエスキリストが復活した人として人に向かって最初に語られたことばが『おはよう』であるからだ。その日、私たち兄弟姉妹は今の地上の仮庵を脱ぎ去って『おはよう』と互いに言い交わす」


復活した私たちが、新しい天と新しい地で互いに交わす最初のことばは何であろうか?

「ハレルヤ」だろうか?

新しい天と新しい地で「アブラハムやイサクやダビデ…いのちの書だけでなく、聖書にもその名が書き記されている神の民たち」や「この地上にうまれ、この地上を歩んだ全ての神の民たち」と私たちが互いに交わし合う最初のことばは何であろうか?

エスキリストは復活した時、最初に何と言われただろうか?

エスキリストは復活した時、最初に「おはよう」と言われた。

📖"すると、イエスが彼女たちに出会って、「おはよう」と言われた。"
マタイの福音書 28章 9節

「おはよう」これが復活した私たちが、新しい天と新しい地で最初に互いに交わすことばとして最もふさわしいのではないだろうか?

聖書は言っている。"夕があり朝があった"…と。

📖"夕があり、朝があった。第一日。"
創世記 1章 5節

私たちはこの地上で、夕が必ず朝になる1日1日をくりかえしながら、「新しい天と新しい地」という『本当の朝』に向かっている。

この地上にも、夕だけでなく、朝があり、神の栄光と輝きと勝利がある。

しかし、新しい天と新しい地の時間軸に立って、地上の歴史を見るなら、それらは全て「夕の時間」「仮庵の時間」だ。

「新しい天と新しい地」と「地上の歴史」を見比べると、新しい天と新しい地は『本当の朝』であり、地上の全ての歴史は「夕が必ず朝になることをくりかえす仮庵の時間」「本当の朝から見た夕」ということになる。

だから、私たちの地上でいうところの「新しい天と新しい地1年1月1日」となる「本当の朝」「本当の新年」に私たちが最初に互いに交わすことばとして「おはよう」が最もふさわしいのではないだろうか?

何故なら今、私たちが地上で生きている時間は「仮庵の中にある時間」「夕の中にある時間」であるからだ。

私たちが「この地上」「仮庵」「夕の時間」を出て、『新しい天と新しい地』『本当の朝』の中に入ると、「夕の時間」は完全に終わる。

エスキリストが十字架で『完了した』と言ってくださったことばは、ギリシャ語では『テテレスタイ』であり、ヘブル語では『アサー』と言うことばである…という説明を神の器から聴かせてもらったことがある。

だから、私たちは「終わりの時代の終わり」=「夕の時間の終わり」=「仮庵の時間の終わり」=「完了の完了」=「アサーのアサー」=「本当の朝である新しい天と新しい地」に向かって進み続けている。

「シャロームとは別に『おはよう』という意味のヘブル語がある」…と神の器から聴かせてもらったことがある。

……私はその時に思った。「おはようと言う時も、こんにちはと言う時も、こんばんはと言う時も…シャロームと言う…との情報を聴いたことがあったが…なるほど…ヘブル語にもシャロームとは別に『おはよう』があるのか……

……なるほど…確かに、日本語の聖書に、イエスキリストが『おはよう』とお語りになっているところがある…もしも、イエスキリストが『おはよう』と言っておられる箇所の原語が『シャローム』になっていたら『おはよう』とは訳されずに『平安があなたがたにあるように』…と訳されていたのだろう」……といったことを思っている内に『おはよう』ということばが神の民にとって特別な意味を持っていることばであることについて、次々にことばが思い浮かぶようになった。

エスキリストが復活した時、最初に「おはよう」と言われたのは……イエスキリストが『復活した人として』「兄弟姉妹」に「おはよう」と言われたように……復活した私たちが、新しい天と新しい地で、兄弟姉妹と互いに『おはよう』と言い交わすようになるからであると私は信じている。

そして、新しい天と新しい天で、「地上で産まれ地上で生きた全ての兄弟姉妹たち」と会う前に……誰に会うよりも前に……

……最初に顔と顔とを合わせてイエスキリストに会う時は『おはようございます』と言ってもいいだろうし、『おはようございます』以外のそれぞれのことばで自由にことばを交わすことができる…と私は信じている。

"すると、イエスが彼女たちに出会って、「おはよう」と言われた。彼女たちは近寄って御足を抱いてイエスを拝んだ。"
マタイの福音書 28章 9節

"死んだのではない。眠っているのです。"
マタイの福音書 9章 24節

"さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方、マグダラのマリヤと、ほかのマリヤが墓を見に来た。
すると、大きな地震が起こった。それは、主の使いが天から降りて来て、石をわきへころがして、その上にすわったからである。
その顔は、いなずまのように輝き、その衣は雪のように白かった。
番兵たちは、御使いを見て恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。
すると、御使いは女たちに言った。「恐れてはいけません。あなたがたが十字架につけられたイエスを捜しているのを、私は知っています。
ここにはおられません。前から言っておられたように、よみがえられたからです。来て、納めてあった場所を見てごらんなさい。
ですから急いで行って、お弟子たちにこのことを知らせなさい。イエスが死人の中からよみがえられたこと、そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれ、あなたがたは、そこで、お会いできるということです。では、これだけはお伝えしました。」
そこで、彼女たちは、恐ろしくはあったが大喜びで、急いで墓を離れ、弟子たちに知らせに走って行った。
すると、イエスが彼女たちに出会って、「おはよう」と言われた。彼女たちは近寄って御足を抱いてイエスを拝んだ。"
マタイの福音書 28章 1〜9節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会