前回のブログの投稿で、キリストの体がキリストのために整えられた花嫁となるためには、「花嫁の顔を覆い隠すベールを着ける」ことが必要であることについて書かせていただいた。
📖"イサクは夕暮れ近く、野に散歩に出かけた。彼がふと目を上げ、見ると、らくだが近づいて来た。
リベカも目を上げ、イサクを見ると、らくだから降り、
そして、しもべに尋ねた。「野を歩いてこちらのほうに、私たちを迎えに来るあの人はだれですか。」しもべは答えた。「あの方が私の主人です。」そこでリベカはベールを取って身をおおった。"
創世記 24章 63〜65節
キリストの花嫁であるキリストの体が、イサクの花嫁として全て整えられたリベカのようになるためには、「花嫁の顔を覆い隠すベールを着ける」ことが必要だ。
キリストの花嫁であるキリストの体がリベカのように「花嫁の顔を覆い隠すベールを着ける」ためにはどうすればいいのだろうか?
キリストの花嫁であるキリストの体が、リベカのように「花嫁の顔を覆い隠すベールを着ける」とはどういうことだろうか?
キリストの花嫁であるキリストの体が、リベカのように「花嫁の顔を覆い隠すベールを着る」とは=『子どものように、自分を低くする』ということだ。
「花嫁の顔を覆い隠すベール」でキリストの体であるキリストの花嫁の顔が全て覆われるとは=『子どものように、自分を低くするへりくだり』が完全に満ちるということだ。
「花嫁の顔を覆い隠すベール」で顔が全て覆い隠されている花嫁を花婿が迎えに来るように、
キリストの花嫁であるキリストの体に『子どものように、自分を低くする』へりくだりが完全に満ちるようになった時に、花婿イエスキリストは迎えに来て下さる。
キリストの花嫁であるキリストの体が『子どものように、自分を最も低くする』時、キリストの体は最も高く上げられ……
……初代教会の時代に現されていたイエスキリストの栄光にすらもまさる偉大な栄光が『子どものように、自分を低くする』ことによって、「花嫁の顔を覆い隠すベール」を着けたキリストの体によって、この地上に現されるようになる。
キリストの体が『子どものように、自分を最も低くする』時、キリストの体は最も高く上げられることについて聖書に以下⬇️のように書いてある。
📖"だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です。"
マタイの福音書 18章 4節
「子どものように、自分を低くする」とはどういうことだろうか?
「子どものように、自分を低くする」とは=預言者イザヤが見たセラフィムのように自分の『顔』と『足』を覆い隠すことだ。
セラフィムが自分の『顔』と『足』を覆い隠していたことについて聖書に以下⬇️のように書いてある。
📖"私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。そのすそは神殿に満ち、
セラフィムがその上に立っていた。彼らはそれぞれ六つの翼があり、おのおのその二つで顔をおおい、二つで両足をおおい、二つで飛んでおり、"
イザヤ書 6章 1〜2節
「子どものように、自分を低くする」とは=イザヤが見たセラフィムのように、自分の『顔』と『足』を覆い隠すことだ。
イザヤが見たセラフィムのように、自分の『足』を覆い隠すとは、どういうことであろうか?
イザヤが見たセラフィムのように、自分の「足」を覆い隠すとは=自分の『過去』を覆い隠すことだ。
イエスキリストは弟子たちの「足」を洗ってくださった。
イエスキリストが弟子たちの「足」を洗ってくださったことは、弟子たちの『過去』の歩み、弟子たちの『過去』の全ての罪を洗ってくださったことを意味している。
だから、「足」とは=『過去』のことであり、イザヤが見たセラフィムのように、自分の「足」を覆い隠すとは=自分の『過去』を覆い隠すということであり、
イザヤが見たセラフィムのように、自分の「足」だけでなくて、「顔」と「足」を覆い隠すとは=自分が「過去」にした全ての良いことを覆い隠すということであり、「過去」の『功績』、「過去」にした全ての良いことを1つも数えないことであり、「過去」に何1つ良いことをしたことがない者と自分を全く同列に置いてへりくだることを意味している。
だから、自分の過去の『功績』を全て覆い隠し、1つも『功績』がない子どもと自分を同列に置いて、へりくだることが=「この子どものように、自分を低くする」ということだ。
『この』子どもとはどのような子どもだっただろうか?
イエスキリストは「子どものように」…と言われたのではなくて、『この』子どものように…と言われた。「この」子どもとは、ただの子どもではなくて『小さい』子どもだ。
この子どもが『小さい』子どもであることについて聖書に以下⬇️のように書いてある。
📖"そこで、イエスは小さい子どもを呼び寄せ、彼らの真ん中に立たせて、
言われた。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、入れません。
だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です。"
マタイの福音書 18章 2〜4節
📖"あなたがたすべての中で一番小さい者が一番偉いのです。」"
ルカの福音書 9章 48節
子どもの中で『一番小さい』子どもとはどのような子どもだろうか?
子どもの中で「一番小さい」子どもとは=自分に良くしてくれている父親と母親のために良い働きを1つもすることができない子どもであり、お父さんや、お母さんや、周囲の人々の愛をただ一方的に受けることしかできない完全に無力な赤子に等しい『幼子』のことだ。
キリストの体である各器官、各教団教派、個人個人は、主のために、主に喜ばれる働きをしてきた過去を持っているし、現在進行形で主のために、主に喜ばれる働きをしていて、主に喜ばれ、主に祝福されているが……
……いつも自分の「足」と「顔」を覆い隠し=いつも自分の「過去の功績」を覆い隠し=いつも、自分自身を過去に1つも良いことをしたことがない全く無力な赤子に等しい幼子と同列に置いて、全く無力な幼子のように自分を低くしてへりくだらなければならないことについて聖書に以下⬇️のように書いてある。
📖"自分に言いつけられたことをみな、してしまったら、『私たちは役に立たないしもべです。なすべきことをしただけです』と言いなさい。」"
ルカの福音書 17章 10節
イザヤが見たセラフィムのように、自分の顔と足を覆い隠し、まだ何の功績もない赤子に等しい「幼子と自分を同列に置いてへりくだる」ことが=『花嫁の顔を覆い隠すベールを着る』ことだ。
📖"そこでリベカはベールを取って身をおおった。"
創世記 24章 65節
「花嫁の顔を覆い隠すベール」がなければ、互いに教え合いなさいと聖書に書いてあることばを実行することはできない。
花嫁の顔を覆い隠すベールがなければ、どちらも相手のことばに耳を傾けないか、どちらも一方的に相手に教えようとして互いに衝突するか、どちらかが一方的に教え続け、どちらかが一方的に教えられ続けるかになる。
📖"キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。"
コロサイ人への手紙 3章 16節
「花嫁の顔を覆い隠すベール」=「へりくだりの油注ぎ」がキリストの体に臨む時、互いに教えることと、互いに教えられることが交代交代で交互になされるようになり……
……どちらか一方が一方的に教え、どちらか一方が一方的に教えられるのではなくて、互いに交互に語り合い、互いに交互に黙って耳を傾けて聴き合い、互いに交互に花嫁のベールで顔と足を覆い隠し、自分を最も幼い子どものように低くして、相手が自分よりまさっていることを認め尊敬して、相手のことばに耳を傾け合うことができるようになる。
互いに相手を「大人である自分が教えるべき幼子」と見なしていたその視界が「花嫁の顔を覆い隠すベール」で覆われ、
互いに相手を『幼子である自分を教えてくれる大人』であることを互いに認め合い、互いに尊敬し合い、互いに『互いの教え』に耳を傾け合うことができるようになるからだ。
📖"あなたがたは、みながかわるがわる預言できるのであって、すべての人が学ぶことができ、すべての人が勧めを受けることができるのです。"
コリント人への手紙第一 14章 31節
📖"キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。"
コロサイ人への手紙 3章 16節
キリストの体の各器官である各教団教派、各グループ、個人個人が互いに『花嫁の顔を覆い隠すベール』=自分の顔と足を覆い隠すへりくだりを身に着けることができるようになる時、キリストの体の各器官である各教団教派、各グループ、個人個人は1つのキリストの体として互いに組み合わされるようになり、初代教会の時にすらまさる偉大な栄光がとどまり住むようになる。
"この方にあって、組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる宮となるのであり、
このキリストにあって、あなたがたもともに建てられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。"
エペソ人への手紙 2章 21〜22節
📖"この宮のこれから後の栄光は、先のものよりまさろう。万軍の主は仰せられる。わたしはまた、この所に平和を与える。--万軍の主の御告げ--」"
ハガイ書 2章 9節
📖"何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。
自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。
あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。
キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、
ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、
自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。
それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。"
ピリピ人への手紙 2章 3〜9節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会