キリストの体の各器官である各教団教派、各グループ、個人個人は互いが互いに「自分の顔を覆い隠すへりくだり」=「花嫁の顔を覆い隠すベール」がないために……
……互いが互いに自分たちの聖書解釈と教え=自分たちの顔だけを高く上げ、キリストの体の「頭」「顔」「リーダー」のポジションに置こうとしていて、自分たちの教団教派の聖書解釈と教えに他の教団教派が従うことこそが神の御心であると信じている……といったことについて前回のブログで書かせていただいた。
キリストの体の各器官である各教団教派、各グループ、個人個人は自分たちの教えに同意できる者たちだけでしか共に集まることができず、自分たちの聖書解釈と教えこそが神の御心であるから、全ての教団教派の中で1番高く上げられるべき聖書解釈と教えであると堅く信じている。
……何故だろうか?
……みな互いに自分たちの聖書解釈と教えだけが神からのもので、自分たちの聖書解釈に同意しない他の教団教派、各グループ、個人個人が敵に惑わされてしまっていて、神の御心ではないことを神の御心であると勘違いして思い込んでしまっていて、神の御心ではないことを言い広めている偽預言者のような存在であると信じているからだ。
各教団教派、各グループ、個人個人は愛が大事であること、謙遜が大事であること、仕えることが大事であることは理解しているが……『しかし…だからと言って、にせ預言者に好き勝手なことをさせることだけは決して許容するべきではない!』…と誰もが思っている。
『…しかし…だからと言って、にせ預言者に好き勝手なことをさせることだけは決して許容するべきではない!』……これこそが各教団教派、各グループ、個人個人が……聖書が「さばいてはならない」と語っているにもかかわらず、互いにさばき合っても良いかのように信じたり、思えたりしている理由だ。
各教団教派、各グループ、個人個人は、他の教団教派、グループ、個人個人にたいして互いに偽預言者のレッテルを貼りつけ、
自分たち以外の他の教団教派、グループ、個人個人を互いに偽預言者のような存在と勝手に決めつけて断定し、
「敵の惑わしにすっかりだまされてしまっていて、神の御心ではないことを神の御心であるかのように信じ、しかも、神の御心ではないことを神の御心であるかのように人々に言い広め、間違った聖書解釈を信じ、間違った聖書解釈を人々に言い広めている者たちに……
……私たちは神の御心と『真の聖書解釈』を解き聴かせて悔い改めさせなければならない!
……もしそれでも相手が私たちのことばに聴く耳をもとうとしないなら、私たちは私たちの足のちりを払い落として遠く離れ去るだけのことだ!」…と堅く信じている。
各教団教派、各グループ、個人個人は「偽預言者を悔い改めさせる」ことと、「悔い改めようとしない偽預言者たちをガン細胞のように切り捨て除去する」ことこそが神の御心であると堅く信じている。
イエスキリストが十字架にかかる前の過越の食事の時に、イエスキリストの弟子たちが「この中にわたしを裏切る者がいる」…と聴いた時、
イエスキリストの弟子たちは「そんなガン細胞みたいなやつはいったい誰なのか」と思った。
「そんなガン細胞みたいなやつはいったい誰か?自分たちの中にいるガン細胞は誰か?にせ預言者は誰か?」…と思うと同時に必ず生じることがある。
「そんなガン細胞みたいなやつはいったい誰か?自分たちの中にいるガン細胞は誰か?にせ預言者は誰か?」…と思うと同時に必ず生じることとは……『誰が上で誰が下かという議論』だ。
「誰が裏切り者か、誰が偽預言者か、誰が間違っているか、誰が下か」…という思いに心を開き、家の門を開いた瞬間に、家の中に入って来るのは『分裂』だ。
「誰が裏切り者か、誰が偽預言者か、誰が間違っているか、誰が下か」…という思いに心を開き、家の門を開いているのであれば、『分裂』による崩壊を避けることはできない。必ず『分裂』という結果が生じて実を結ぶことになる。
『分裂』を回避したいのであれば、「誰が裏切り者か、誰が偽預言者か、誰が間違っているか、誰が下か」…という思いに心を開くことをやめて、門を閉じることだ。
「誰が裏切り者か、誰が偽預言者か、誰が間違っているか、誰が下か」…という思いに心を開き、家の門を開いているのであれば ➡️『誰が一番偉いか』…という思いと議論が必ず生じるようになり……
➡️「誰が上で誰が下か」という思いと議論が必ず生じるようになり ➡️ 分裂の崩壊が必ず生じ ➡️ 分裂という結果が必ず生じて実を結ぶようになる…ことについて、聖書に以下のように書いてある。
📖"そこで弟子たちは、そんなことをしようとしている者は、いったいこの中のだれなのかと、互いに議論をし始めた。
また、彼らの間には、この中でだれが一番偉いだろうかという論議も起こった。"
ルカの福音書 22章 23〜24節
📖"イエスは彼らの思いを知ってこう言われた。「どんな国でも、内輪もめして争えば荒れすたれ、どんな町でも家でも、内輪もめして争えば立ち行きません。"
マタイの福音書 12章 25節
キリストの体の各器官である各教団教派、各グループ、個人個人が互いに尊敬し合うことができずに、互いに拒絶し合い、互いに抗議し合い、『互いにプロテストし合って分裂している』のは、キリストの体の中に偽預言者がいると堅く信じていて、キリストの体の中から偽預言者を除去して追い出すために、目を光らせているからだ。
……しかし、見つけ出したり、追い出したりするまでもなく、本当に『聖書が偽預言者と定義している偽預言者』なのであれば、誰もキリストの体の中に入ることはできない。
『聖書が偽預言者と定義している偽預言者』は、最初からキリストの体の中に入ることはできず、キリストの体の外にしかいないから、各教団教派、各グループ、個人個人が偽預言者と断定して、キリストの体の中から除去している者たちは『聖書が偽預言者と定義している偽預言者』ではない。
……『聖書が偽預言者と定義している偽預言者』はキリストの体の中から見つけ出し追い出すまでもなく、はじめから、だれ1人としてキリストの体の中に入ることができないからだ。
……『聖書が偽預言者と定義している偽預言者』はキリストの体の内側に存在することができない…と聖書が語っているのに、各教団教派、各グループ、個人個人はキリストの体の中で偽預言者を見つけ出し、除去している……
『聖書が偽預言者と定義している偽預言者』はキリストの体の中に存在することができない…と聖書が語っているのであれば……各教団教派、各グループ、個人個人が「キリストの体の中の偽預言者」と断定し、キリストの体の中から除去しているものは何なのだろうか……?
……『聖書が偽預言者と定義している偽預言者』とはどのような存在だろうか?「主が言われる…今の仕事をやめなさい」…と言う者たちが、『聖書が偽預言者と定義している偽預言者』なのだろうか?
……「主が言われる…今の仕事をやめなさい」…と言う者たちをある程度警戒しておくことは『主から来ていない間違った預言』から守られるために必要なことであり、とても有益な知恵だ。
……しかし、「主が言われる…今の仕事をやめなさい」…と言う者たちが『聖書が偽預言者と定義している偽預言者』であると聖書は語っていない。
……聖書は偽預言者の定義についてはっきりと語っている。「聖書が語っている偽預言者の定義にあてはまっている偽預言者」はキリストの体の中には1人も存在しない。存在できない。
……だから、キリストの体の中に「聖書が語っている偽預言者の定義にあてはまっている偽預言者」は1人もいないのに……
……キリストの体の各器官である各教団教派、各グループ、個人個人はキリストの体の中に偽預言者がいると堅く信じていて、『聖書が偽預言者と定義している偽預言者』ではない者たちを偽預言者と断定し、除去してしまっている。
✴️『聖書が偽預言者と定義している偽預言者』は =「イエスは主です」…と信じ告白しない者だ。
『聖書が偽預言者と定義している偽預言者』とは「イエスは主です」…と信じ告白しない者である…ことについて聖書に以下のように書いてある。
📖"愛する者たち。霊だからといって、みな信じてはいけません。それらの霊が神からのものかどうかを、ためしなさい。なぜなら、にせ預言者がたくさん世に出て来たからです。
人となって来たイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。それによって神からの霊を知りなさい。
イエスを告白しない霊はどれ一つとして神から出たものではありません。それは反キリストの霊です。あなたがたはそれが来ることを聞いていたのですが、今それが世に来ているのです。"
ヨハネの手紙第一 4章 1〜3節
⬆️これが、『聖書が偽預言者と定義している偽預言者』であり、『聖書が偽預言者と定義している偽預言者』とそうでない者の見分け方だ。
『聖書が偽預言者と定義している偽預言者』は、だれ1人として「イエスは主です」と信じることができず、「イエスは主です」と告白することができない。
『聖書が偽預言者と定義している偽預言者』たちは「イエスは主です」と信じていない者たちであるから、クリスチャンの集いに参加しようとすら思わないだろう。
もし、『聖書が偽預言者と定義している偽預言者』たちが、「イエスは主です」と信じているふりをしてキリストの体の中に紛れ込もうとしても、「イエスは主です」と信じているふりをしている偽クリスチャンであることは隠し通すことはできない。
そのような偽クリスチャンにすらも恵み深い主は、しばらくの期間、キリストの体の中に潜伏させてくださることもあるだろう。しかし、偽クリスチャンであることを隠し通し続けることはできない。
『聖書が偽預言者と定義している偽預言者』がキリストの体の中に潜伏しようとしても、「イエスは主です」と心から信じることができず、「イエスは主です」と信じているふりをするために「イエスは主です」と口先だけで言うことしかできない。
……『聖書が偽預言者と定義している偽預言者』の内に聖霊様がおられないからだ。
「イエスは主です」と心から信じ告白できず、「イエスは主です」と信じているふりしかできない者がどうしてキリストの体の中に入り、キリストの体の一部分であるかのように、キリストの体の中に存在し続けることができるだろうか?
……『聖書が偽預言者と定義している偽預言者』はだれ1人として「イエスは主です」と心から信じ告白することができない。……何故なら、"聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です」と言うことはできません"…と聖書に書いてあるからだ。
📖"聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です」と言うことはできません。"
コリント人への手紙第一 12章 3節
……だから、「イエスは主です」と心から信じ告白できない者が偽預言者だ。
……にせ預言者には神からの油注ぎは全くない。神からの油注ぎである聖霊様が内におられないからだ。
「イエスは主です」と心から信じ告白する全ての者には神からの油注ぎが与えられていて聖霊様が内におられる。
「イエスは主です」と心から信じ告白する全ての者にはキリストの体に属する者としてのそれぞれの役割と、キリストの体に属する者としてのそれぞれの役割を果たすために必要な油注ぎ=「能力、知恵、願い、志し、賜物、信仰、愛、希望、喜んで仕える心」…等がそれぞれ与えられている。
癒しや奇跡等だけが『油注ぎ』なのではない。キリストの体がキリストの体としての働きをするために必要なそれぞれの働きとそれぞれの役割を果たすことができるために必要な「能力、知恵、願い、志し、賜物、信仰、愛、希望、喜んで仕える心」…等は=「イエスは主です」と心から信じ告白する全ての者に与えられる『油注ぎ』だ。
例えば牧師先生の牧会の働きを支えるために教会で掃除したり、洗い物をしたりするために必要な「能力、知恵、願い、志し、賜物、信仰、愛、希望、喜んで仕える心」…等は=『油注ぎ』だ。
「イエスは主です」と信じ告白する全ての者のために、キリストの体の中に場所=『良い行い』がそれぞれ備えられていて、それぞれの『良い行い』をするためにそれぞれ必要な「能力、知恵、願い、志し、賜物、信仰、愛、希望、喜んで仕える心」…等は=「油注ぎ」だ。
「イエスは主です」と信じ告白する全ての者のために、キリストの体の中にそれぞれの場所=それぞれの『良い行い』が備えられていることについて聖書に以下のように書いてある。
📖"私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。"
エペソ人への手紙 2章 10節
「イエスは主です」と心から信じて言うことができる全ての者の内に、神からの油注ぎである聖霊様がおられる。
……だから、「イエスは主です」と心から信じて告白している者たちは、キリストの体の中にそれぞれの場所=それぞれの「良い行い」が備えられていて……
……それぞれのために備えられている、それぞれの「良い行い」のために必要なそれぞれの『油注ぎ』=それぞれの「良い行い」のために必要な「能力、知恵、願い、志し、賜物、信仰、愛、希望、喜んで仕える心」…等を神から与えられている尊い器、神の民、キリストの体に属し、キリストの体を形成している一部分であるから……
……「イエスは主です」と心から信じて告白している者たちは、だれ1人として『聖書が偽預言者と定義している偽預言者』ではない。"聖霊によるのでなければ、だれ1人として、「イエスは主です」と言うことはできません。"…と聖書に書いてあるからだ。
📖"聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です」と言うことはできません。"
コリント人への手紙第一 12章 3節
📖"愛する者たち。霊だからといって、みな信じてはいけません。それらの霊が神からのものかどうかを、ためしなさい。なぜなら、にせ預言者がたくさん世に出て来たからです。
人となって来たイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。それによって神からの霊を知りなさい。"
ヨハネの手紙第一 4章 1〜2節
📖"聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です」と言うことはできません。"
コリント人への手紙第一 12章 3節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会