シャロームを所有する

私は預言の賜物の回復を願っている。しかし私は預言の賜物を否定する方々を心から尊敬し感謝している。私が預言の賜物を熱心に求めて聖書に従うためなら…私は預言の賜物を否定する方々を不満に思い…全て感謝せよと語る聖書に逆らってよいだろうか?預言を認める牧師先生だけ尊敬し…預言の賜物を否定する牧師先生含む5役者や教団教派の方々を尊敬せず…互いに尊敬しなさいと語る聖書に逆らってよいだろうか?自分が建てたい御言葉を建て上げるために他の御言葉を壊してできた砂の上に自分が建てたい御言葉を建て上げ…家を建ててよいのだろうか?

「ルーテルは1500年代にスタートした。バプテストは1600年代に スタートした。メソジストは1700年代にスタートした。ホーリネスは1800年代にスタートした。聖霊派は1900年代にスタートした。賢い建築家よりもはるかに賢い全知全能の主権者であられる神は、1つの新しいレストレーションを新しいぶどう酒のように流れさせて、その新しい1つのレストレーションが約100年の期間で十分に建て上げられて十分に熟成した古いぶどう酒になった頃に、次の新しいレストレーションを新しいぶどう酒のように流れさせておられる」

キリスト教の教団教派グループの歴史は、「前の教団教派グループがタブーとしていたことを、次の教団教派グループが破ること」がくりかえされている歴史であったことについて前回のブログで書かせていただいた。

バプテスト派が回復した「水のバプテスマ」もホーリネス派が回復した「良い行い」も聖霊派が回復した「異言」も……聖書は現代においてもどれ1つとして廃止してはいない。

……しかし……もしも、「行いや努力ではなくて、ただイエスキリストを信じる信仰によって救われる」…と聖書が語っている「信仰義認」を回復させ建て上げようとしている時代に「水のバプテスマも必要だ」という真理が同時に語られていたとしたらどうなっていただろうか?

……「信仰義認」という真理を回復させて建て上げようとしている時代に、「水のバプテスマも重要であること」とか、「良い行いも重要であること」…といった聖書に書かれている真理の啓示が同時に語られることは……

……セメントが乾いて固まってから上に置くべきものを、まだセメントが乾いていないのに置くようなものだ。

「信仰義認」という聖書に書かれている真理を回復させ、建て上げようとしている途中で、「信仰義認の回復」というセメントがまだ乾いて十分に固まっていないのに、その上に「水のバプテスマの回復」を積み重ねて置くことは、不適切で、時にかなってはいない。

……まして、「努力や行いによってではなく信仰によって救われると聖書に書いてある信仰義認の回復」のセメントがまだ十分に固まっていないのに、「聖い行いの回復」を上に積み重ねて置くことは、「信仰義認の回復の」の上に「水のバプテスマの回復」を積み重ねてしまうこと以上に不適切で時にかなっていない。

📖"神のなさることは、すべて時にかなって美しい。"
伝道者の書 3章 11節

パウロは賢い建築家のように土台を据えた…と聖書は語っているが、神は賢い建築家よりもはるかにすぐれた知恵に満ちておられる。

📖"賢い建築家のように、土台を据えました。"
コリント人への手紙第一 3章 10節

賢い建築家よりもはるかに賢い全知全能の主権者であられる神は、約100年の期間の間隔を置いてから、1つ1つの ※ レストレーション ( ※ 聖書に書かれているのにそれまで失われていた真理を再び回復させる働き ) をスタートさせておられることが、それぞれのレストレーションのはじまりの時期をネットで検索して調べることによって見ることができる。

ルーテルは1500年代
(1517年)にスタートした。

バプテストは1600年代
(1612年)にスタートした。

メソジストは1700年代
(1728年)にスタートした。

ホーリネスは1800年
(1867年)にスタートした。

聖霊派は1900年代
(1906年)にスタートした。

……このように、新しいレストレーションがスタートしてから約100年後に、毎回毎回、次の新しいレストレーションがスタートしている。

……このように賢い建築家よりもはるかに賢い全知全能の主権者であられる神は、毎回毎回、前のレストレーションから約100年の期間の間隔を置いてから、次のレストレーションをスタートさせておられる。

……神が100年ごとに、毎回毎回、新しいレストレーションをスタートさせることができているのは、神と敵の戦力差があまりにも圧倒的であるからだ。

神が100年ごとに、毎回毎回、新しいレストレーションをスタートさせておられることは、サッカーの試合で言えば…100分とか10分ごとに必ずゴールにシュートして点を取っているようなものだ。

……10分たったらゴールにシュートして点を取って、また10分たったらゴールにシュートして必ず毎回毎回、点を取る。

サッカーの試合であれば、普通は10分ごとにではなくて、点を取れる時に取れるだけ取ろうとするだろう。

10分以内に1点だけでなく2点でも3点でも取ることができるのであれば、2点でも3点でも点を取ろうとするだろう。

……しかし、いつでもゴールにシュートして必ず点を取れるほどに戦力差があまりにも圧倒的である場合においては……「点を取れる時に点を取る」のではなくて、『点を取りたいタイミングで点を取る』ことができる。

全知全能の主権者である神は、敵が神の民から盗み取って隠しているものを100年に1度1つしか取り戻せないなどということはない。全知全能の主権者である神にとっては、敵が盗み取ったものを1つ残らず取り戻すことくらい数秒あれば十分過ぎることだ。

神と敵の戦力差は「手にストップウォッチを持っているプロサッカー選手」と、子供との戦力差よりもはるかにかけはなれている。

プロサッカー選手はその手の中にストップウォッチを持っていて、10分ごとにゴールにシュートする。プロサッカー選手はゴールにシュートしてから、次の数秒で、もう1度ゴールにシュートすることができるが、手の中にあるストップウォッチが10分過ぎてからでないとゴールにシュートしない。

……プロサッカー選手は、手の中にあるストップウォッチが10分過ぎてからでないとゴールにシュートできないのではなくて、手の中にあるストップウォッチが10分過ぎてからでないとゴールにシュートしないことにしている。

……プロサッカー選手は10分以内に何回でもゴールにシュートすることができるが、手の中にあるストップウォッチが10分過ぎた時に1回しかゴールにシュートしないことにしている。

……神と敵の戦力差は、「手の中にストップウォッチを持っているプロサッカー選手」と、子供との戦力差よりもはるかに大きい。

……だったら何故、神は神の御手の中にある時計が100年の期間を刻むまで待っておられるのだろうか?

……もし、プロサッカー選手が子供と対戦するとしたら、プロサッカー選手は「10分間はゴールにシュートしない」といったようなハンデをつけてくれたりして、手加減してくれることだろう。

……では、神は何のために、その御手の中に時を刻む時計を持っておられ、「100年の時」を刻む時期まで待っておられるのだろうか?

……子供にハンデを与えるプロサッカー選手のように、神は敵にハンデを与え手加減しておられるのだろうか?

……神は敵にハンデを与えることをせず、敵にたいして手加減をすることもしない。

……神は敵にたいして手加減したり、敵にハンデを与えるためではなくて、神御自身が選んだチームのメンバーである神の民たちがついて来ることができるペースで神御自身の働きを進めるために、100年の時を数えておられる。

📖"ヤコブは彼に言った。「あなたもご存じのように、子どもたちは弱く、乳を飲ませている羊や牛は私が世話をしています。一日でも、ひどく追い立てると、この群れは全部、死んでしまいます。
あなたは、しもべよりずっと先に進んで行ってください。私は、私の前に行く家畜や子どもたちの歩みに合わせて、ゆっくり旅を続け、」"
創世記 33章 13〜14節

神の御手の中には神の時を刻む時計がある。神にとっては100年の期間の間隔なんてものはなくても、敵が神の民から盗んだものを1つ残らず数秒で取り戻すことができる。

……100年の期間の間隔は神御自身のためではなくて、神の民のためだ。神の民の手には100年の間に2つ以上の新しいレストレーションを与えられることは手に余ってしまう。

1つ1つのレストレーションは全て非常に重要な土台、柱、エッセンスであるから、新しい1つのレストレーションが新しいぶどう酒のように流れ出してから、その新しい1つのレストレーションを100年の期間をかけて十分に行き渡らせ、深く染み込ませ、熟成させる必要がある。

新しいレストレーションを100年の期間をかけて十分に行き渡らせ、深く染み込ませ、熟成させてから、

新しいぶどう酒として流れていた新しいレストレーションが100年の期間をかけて十分に行き渡り、深く染み込み、熟成して、古いぶどう酒になった時点でようやく、その次の新しいぶどう酒である次の新しいレストレーションを流れさせることをスタートさせることができる。

新しい1つのレストレーションが十分に行き渡り、深く染み込み、十分に建て上げられ、十分に熟成するためには100年の期間が必要であることを賢い建築家よりもはるかに賢い全知全能の主権者である神は知っておられる。

📖"賢い建築家のように、土台を据えました。"
コリント人への手紙第一 3章 10節

📖"神のなさることは、すべて時にかなって美しい。"
伝道者の書 3章 11節