シャロームを所有する

私は預言の賜物の回復を願っている。しかし私は預言の賜物を否定する方々を心から尊敬し感謝している。私が預言の賜物を熱心に求めて聖書に従うためなら…私は預言の賜物を否定する方々を不満に思い…全て感謝せよと語る聖書に逆らってよいだろうか?預言を認める牧師先生だけ尊敬し…預言の賜物を否定する牧師先生含む5役者や教団教派の方々を尊敬せず…互いに尊敬しなさいと語る聖書に逆らってよいだろうか?自分が建てたい御言葉を建て上げるために他の御言葉を壊してできた砂の上に自分が建てたい御言葉を建て上げ…家を建ててよいのだろうか?

「霊的な親である牧師先生と子である信徒との間に対等な関係を回復させることをせつに求めうえ渇いている者にとっての落とし穴となることは、霊的な親である使徒、預言者、伝道者、牧師、教師、霊的リーダーたちを尊敬することをやめてしまうことだ。霊的な親である使徒、預言者、伝道者、牧師、教師、霊的リーダーたちを尊敬することをやめてはならない。霊的な親を子が尊敬することを継続しながら、霊的な親も子を尊敬するようになるという相互関係を築き上げることによって、神の御国のシャロームはキリストの体において回復し建て上げられる」

無知な幼子に自由を与えることは無知な幼子にとって非常に危険なことであるため、無知な幼子に自由を与えることは無知な幼子にとって益とはならない……

……神の御国であるキリストの体においても、神の民である子たちがまだ無知な幼子である期間においては、霊的な親である使徒預言者、伝道者、牧師、教師、霊的リーダーたちは子たちよりも高く上げられていなければならなかった。

「子たちに分け与えさせるために神が霊的な親たちに預けておられる御言葉の教え」を、未成熟で放縦でわがままで身勝手で無知な幼い子たちに霊的な親たちからやや強制的にでも受け取らせるための環境として……

……「霊的な親である使徒預言者、伝道者、牧師、教師、霊的リーダーたちに、子たちは絶対服従すること」が神の御心であるという共通理解が霊的な親たちにとっても子たちにとっても土台、ベース、基準、常識となっている必要があった。

だから、子たちがまだ無知な幼子である期間においては、「霊的な親と子は対等な関係であること」は神の御国の奥義として隠され続けている必要があった……といったことについて前回のブログで書かせていただいた。

「霊的な親と子の対等な関係を回復させる」ということばを聞くと……「聖書が語っている霊的な親と子の対等な関係を回復させることの必要性を非常に強く強調していて、霊的な親である使徒預言者、伝道者、牧師、教師、霊的リーダーたちを尊敬しようとせず軽んじたり非難している人たちのこと」を思い浮かべる方々がおられるかもしれない。

聖書が語っている「霊的な親と子の対等な関係」の回復を求めて激しくうえ渇き、「霊的な親と子の対等な関係」を回復させる必要を非常に強く強調しようとしていて、牧師先生を下に引きずり下ろし、クリスチャン1人1人を高く引き上げる必要を非常に強く強調している方々やグループがキリストの体の中に存在している。

聖書が語っている「霊的な親と子の対等な関係」を否定してしまうほどに、牧師先生を高く高く引き上げ、信徒にとっては、ほぼ神と同じであり、「牧師先生に反論することや従わないことは神に逆らい神の御心にそむくことと同じである」…と強調している方々やグループがキリストの体の大多数となっているので、牧師先生を尊敬することを強調しない人々やグループもキリストの体の中に必要な存在だ。

キリストの体の中には「牧師先生を尊敬すること」を強調する人々やグループも必要だし、「牧師先生を尊敬すること」を強調しない人々やグループも必要だ。何故なら……「牧師先生を尊敬すべきであること」も、「神にあって牧師も信徒も対等で上下がないこと」も、どちらも聖書に書かれている真理であり、キリストの体にとって有益で必要なメッセージであるからだ。

キリストの体には右側があり、左側がある。キリストの体には右手があり、左手がある。

キリストの体の大多数が「牧師先生を尊敬すること」を強調する人々やグループの教えに耳を傾け、極端に片側に傾き進もうとしているなら、非常に極端に反対側に引っ張る必要がある。右に進もうとしている人を、その人が右に進む力と同じ力で引っ張るのであれば、それ以上右に進むのを止めることはできるが、左に傾けることはできない。

キリストの体が極端に「牧師先生を尊敬すること」に傾き過ぎてしまっているなら、その何倍もの極端さと過激さを持って「神にあって牧師先生と信徒は対等であること」を高くかかげて強調し語る人々、グループの存在が必要だ。

人間の体の血糖値が上がり過ぎたら血糖値を下げることが必要だし、血糖値が下がり過ぎたら血糖値を上げることが必要だ。


キリストの体に属している霊的な親に神が預けている教えを、キリストの体に属している無知な幼子たちにやや強制的にでも聞かせ学ばせ実行させるためには、「霊的な親である牧師先生と子である信徒は対等な関係である」ということは奥義として霊的な親たちの目からも子たちの目からも隠されていなければならなかった。霊的な親の教えによって無知な幼い子が守られ養われ神の御言葉の知識をたくわえ成長するためだ。

しかし、無知な幼い子は、いつまでも無知な幼い子のままではない。霊的な親の教えによって守られ養われ御言葉の知識をたくわえて子は成長する。

昔であれば牧師先生たちしか知らなかったであろう御言葉に関する数々の知識を現代は牧師先生ではなくてもクリスチャンであればほとんど誰でも知っている。

牧師先生たちと牧師先生ではない信徒の中にある御言葉についての知識における量や質の差は昔であれば100と0のような違いがあったかもしれないが、現代ではその差はますます少なくなっている。

世界中の教会の礼拝やメッセージがインターネットで視聴できるようになっている現代においては、その差はさらに急速に減少する傾向にあることだろう。

親に守られ養われ続けて成長して、無知な幼子ではなくなった子は親に反抗するようになる時が来る。

霊的な親である牧師先生の教えによって守られ、養われ、御言葉の知識をたくわえ成長した子である信徒たちの中に「霊的な親である牧師先生と子である信徒は対等な関係である」と語る人々やグループが出現していることは、霊的な親である牧師先生の教えによって守られ、養われ、御言葉の知識をたくわえ成長した子である信徒たちが無知な幼子ではなくて、青年となっているしるしだ。

親は青年となった子たち、息子たち、娘たちを無知な幼子のように見なし、無知な幼子のように扱ってはならない。そうでないと息子たち、娘たちの反抗期の火に油を注いでしまうことになり、牧師先生を尊敬しない人々やグループをさらに激しく燃え上がらせることになる。

……と言っても……
キリストの体において、無知な幼子であった信徒たちが無知な幼子ではなくて、御言葉の基礎的な知識を身につけた青年となっているので、今後は、霊的な親である使徒預言者、伝道者、牧師、教師、霊的リーダーを尊敬しなくてもよいということになるだろうか?

……今後も、霊的な親である使徒預言者、伝道者、牧師、教師、霊的リーダーを尊敬しなくてはならない。

何故なら……霊的な親である使徒預言者、伝道者、牧師、教師、霊的リーダーを尊敬することは聖書が要求していることであり、旧約聖書の時代から神が要求し続けておられることであるからだ。

"あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が命じられたとおりに。"
申命記 5章 16節

旧約聖書の時代から新約聖書の時代以降もずっと神が要求し続けておられることは、今後も、一点一画も決してすたれることも廃棄されることもない。

旧約聖書の時代から新約聖書の時代以降も現代も神がずっと建て上げ続けておられる『霊的な親である使徒預言者、伝道者、牧師、教師、霊的リーダーたちを尊敬すること』は現代のキリストの体が相続し継承している尊い遺産であるから、軽視せず、捨てず、廃棄せず、崩さず、今後も保ち続け、建て上げることを継続しなければならない。


まずはじめに、「子が親を尊敬する」という土台を築き上げてから、はじめに築き上げた「子が親を尊敬する」という土台の上に「親も子を尊敬しなければならない」という建物を築き上げることができる。

「子が親を尊敬する」という土台がまだ十分に築き上げられていないなら、「親も子を尊敬しなければならない」とか「親と子が互いに尊敬し合わなければならない」ということを築き上げはじめることはできない。何故なら……「親から子が尊敬してもらえる権利」を与えられた子たちのほとんどは「親の教えや親の言うことを聞かなくてもよい理由」にしてしまうからだ。


旧約聖書の時代から新約聖書の時代以降も現代も神がずっと建て上げ続けておられる『霊的な親である使徒預言者、伝道者、牧師、教師、霊的リーダーたちを尊敬すること』は現代のキリストの体にとって、揺るがし難い常識となっている。

ルーテル派にとって、揺るがし難い常識となっていたことをバプテスト派が揺るがし、ルーテル派が築き上げ続けてくれていたその揺るがし難い土台の上に新しい揺るがし難い常識が築き上げられた。

バプテスト派にとって、揺るがし難い常識となっていたことをホーリネス派が揺るがし、バプテスト派が築き上げ続けてくれていたその揺るがし難い土台の上に新しい揺るがし難い常識が築き上げられた。

ホーリネス派にとって、揺るがし難い常識となっていたことを聖霊派が揺るがし、ホーリネス派が築き上げ続けてくれていたその揺るがし難い土台の上に新しい揺るがし難い常識が築き上げられた。

『霊的な親である霊的リーダーたちに反論せずに服従することが神の御心であるという理解』はカトリックにとっても、プロテスタントのルーテル派にとっても、バプテスト派にとっても、ホーリネス派にとっても、聖霊派にとっても揺るがし難い常識となっている……

……この旧約聖書の時代から新約聖書の時代以降も現代も、神がずっと建て上げ続けてくださっている『霊的な親である使徒預言者、伝道者、牧師、教師、霊的リーダーたちを尊敬すること』は現代のキリストの体に与えられている尊い遺産であり、今後も継続して建て上げ続けられるべきことであると聖書が語っていることにアーメンと言って同意しながら……

……霊的な親が子から一方的に尊敬されるだけでなく、霊的な親も子を尊敬するという相互関係を回復させ、霊的な親も子も互いに尊敬し合わなければならないと語っている聖書の御言葉を回復させ実現させ、神の御国のシャロームを回復し建て上げることができる時代をキリストの体は歩くことができる時代の扉がすでに開かれはじめている。

キリストの体において、「霊的な親たち、牧師先生たちを尊敬すること」を拒否し否定する人々やグループが声を上げるようなっているのは、無知な幼子が青年となっているしるしだ。

無知な幼子であった子が親に反抗できるのは、無知な幼子が成長して無知な幼子ではなくなっているからだ。

無知な幼子に反抗期はない。反抗期は子が無知な幼子ではなくなったことを告げ知らせているしるしだ。

キリストの体の中で、無知な幼子が成長して青年となり息子、娘となった時、霊的な親と子は共に、『霊的な親と子が互いに尊敬し合うことができる時代』を開くことができる。

……イエスキリストの御名によって……シャローム……

"尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。"
ローマ人への手紙 12章 10節

"互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。"
ピリピ人への手紙 2章 3節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会