シャロームを所有する

私は預言の賜物の回復を願っている。しかし私は預言の賜物を否定する方々を心から尊敬し感謝している。私が預言の賜物を熱心に求めて聖書に従うためなら…私は預言の賜物を否定する方々を不満に思い…全て感謝せよと語る聖書に逆らってよいだろうか?預言を認める牧師先生だけ尊敬し…預言の賜物を否定する牧師先生含む5役者や教団教派の方々を尊敬せず…互いに尊敬しなさいと語る聖書に逆らってよいだろうか?自分が建てたい御言葉を建て上げるために他の御言葉を壊してできた砂の上に自分が建てたい御言葉を建て上げ…家を建ててよいのだろうか?

「"これは、預言者ヨエルによって語られた事です"」


旧約聖書の時代は神に選ばれた少数の者たちにだけ神からの油注ぎが与えられていた。

神は語り、聖書は語っている。『神から油注がれた者の油注がれたことばに聴き従え』

油注がれた者のすべてのことばに従えと聖書は言っていない。油注がれた者に従えとも聖書は言っていない。油注がれた者が油注ぎによって語った油注がれたことば[預言]に聞き従え……と聖書は語っている。

旧約聖書の時代はモーセヨシュア…といったように…神に選ばれた1人か2人くらいの霊的リーダによって導かれていた。

その後、神御自身が神の民の王であるのに、神の民が他国のように王を求めたので、神の油注ぎと神のことばは、「神に選ばれた預言者」と「神に選ばれた王」とに分け与えられるようになった。

しかし、神の油注ぎと神のことばは、「神に選ばれた預言者」と「神に選ばれた王」とに分け与えられるようになっていたが…神からの油注ぎがいつまでもとどまり続けていた王はダビデだけかもしれない……

……神からの油注ぎがとどまり続けていたダビデでさえも、バテシェバとウリヤにしたことについて預言者ナタンによって神からの叱責を受けている。

……しかし、ダビデの時代にはダビデを通して語られる預言と、預言者を通して語られる預言があり、預言のラインは1本ではなかった。

だが、旧約聖書の時代はほとんどの場合は、その時代時代に神からのことばを預かれる油注がれた者は1人しかおらずに1つの点、また次の時代にも1人しかおらずに1つの点…といったようにそのひとつの点とその後のひとつの点はほとんどの時代においてひとつの点しかなく1本の線上にあった。

その後のイザヤ、エレミヤといった預言者たちも、その時代その時代のひとつの点であり1本の線上にあった。

新約聖書の時代のバプテスマのヨハネも、この1本の線上に存在していた。

そして、アブラハムの子孫、ダビデの子孫として神の民の系図の中に人の子となっておりて来てくださったイエスキリストは、バプテスマのヨハネまで続いていたこの1本の線の上にも人の子として、おりて来てくださった。

そして、このバプテスマのヨハネの時代までどの時代でもほとんどその時代その時代に1人しかおらずひとつの点とひとつの点が1本の線によって結ばれて1本の線になっていたラインは「使徒たちの数」だけ枝分かれした……のではない……『聖霊が臨んだ者の数』だけ枝分かれするようになった。

しかし、このことは、今のキリストの体の中で、あまりスポットライトはあてられておらず、ほとんどの神の民たちは、以下のような理解と解釈を持っている。→「モーセヨシュアやイザヤやエレミヤといったその時代その時代に神に選ばれた1人とか2人とかだけが神から預かったことばを語っていた旧約聖書の時代から、世界中の使徒預言者、伝道者、牧師、教師たちが神から預かったメッセージを語ることができる時代になった」……と、ほとんどの神の民たちは、このような理解と解釈を持っている……だが……このような解釈はやがて衰え、過ぎ去っていく解釈だ。何故なら……人の私的解釈であるからだ。人の私的解釈は聖書全体のことば[ロゴス]と矛盾するため、聖書全体のことば[ロゴス]と矛盾なく調和する解釈=明けの明星[奥義の解き明かし]が上る時、聖書全体のロゴスと矛盾する人の私的解釈は衰え過ぎ去っていく。

キリストの体が使徒預言者、伝道者、牧師、教師から聖書のことばを教えられ、聖書のことばをたくわえ成長すればするほど、人間の私的な解釈はこども服のようにサイズが合わなくなってキリストの体を圧迫し続ける。

体が成長して大きくなったために小さくなりすぎているこども服のようになってしまっている人の私的な聖書解釈の殻は聖書全体のことば[ロゴス]と矛盾なく調和する解釈=明けの明星[奥義の解き明かし]が上る啓示の光によって打ち破られ、成長したキリストの体にふさわしい聖書についての新しい解釈と理解を着ることができるようになる。

聖書について、まだ解き明かされていなかった奥義が解き明かされることによって、キリストの体が聖書についての新しい解釈と理解を着ることによって、キリストの体は新しい力と油注ぎを着ることができる。……これがレストレーションであり、キリストの体に新しいレストレーションが着せられるということだ。

……新しいレストレーションを来たらせる啓示の光が上る時……それまでキリストの体が悟っていなかった、読めてはいても読めていなかった。見てはいても見えていなかった聖書のことばが啓示の光に照らされ、見えるようになり、読めるようになり、それまで見えていなかった読めていなかった聖書箇所が約束し続けていた神の王国の力と油注ぎを引き出すことができるようになる通路が開かれるようになる。

しかし、キリストの体がまだ聖書のことばを十分にたくわえて成長していない時期には人間の私的な解釈という子ども服がキリストの体が死ぬことなく守られ生きるためには必要だった。

キリストの体が聖書全体を十分に理解できていない幼子のような時代には、揺れ動く水の上のように非常に不安定で不確かで吟味が必要な堅い食物である預言のことばよりも、使徒預言者、伝道者、牧師、教師のくちを通してロゴスについて、純粋にまっすぐに教えてもらう必要があった。

"生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。"
ペテロの手紙第一 2章 2節

だから、そのような時代においては、使徒預言者、伝道者、牧師、教師ではない信徒たちであっても預言を語ったりすることができる神の王国の事実は奥義として隠され続けている必要があった。

……しかし、現代においてはどうだろうか…?

"あなたがたは年数からすれば教師になっていなければならないにもかかわらず、"……と聖書に書いてあるが、この聖書のことば[ロゴス]は現代のキリストの体に向かって主が語っておられる聖書のことば[レイマ]なのではないだろうか?

キリストの体は2020歳以上になっているにも関わらず、使徒預言者、伝道者、牧師、教師だけが神から預かったことばを語っているのですか?

何故……使徒預言者、伝道者、牧師、教師ではない信徒たちも預言を語ることができると語っている聖書の御言葉を信じ期待しないのですか?

……何故……「その時はまだ来ていません」……「主よ。その時をはやく来させてください」……と言うのですか?

……聖書はなんと言っていますか?

聖書には……"これは、預言者ヨエルによって語られた事です。"……と書いてあります。

"これは、預言者ヨエルによって語られた事です。
『神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。
その日、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。"
使徒の働き 2章 16〜18節

……これが預言者ヨエルが語っていたペンテコステです。しかし、「使徒預言者、伝道者、牧師、教師だけが神から預かったことばを語ることしか期待していない信仰」のとおりに、神が預言者ヨエルによって語った約束は大いに縮小され人の私的な聖書解釈の箱に封じられています。

現代において、社会的に富んだ者たちも貧しい者たちも、ありとあらゆる者たちも、使徒たちも、預言者たちも、伝道者たちも、牧師たちも、教師たちもマスクによってそのくちがふさがれている。

……まるで、それは神からの預言的なメッセージのようだ……

……使徒預言者、伝道者、牧師、教師たち……一方的に語り続け、一方的に教え続け、一方的に敬われ続けることが聖書的に正しいことであると信じ続けることをストップして、使徒預言者、伝道者、牧師、教師ではない信徒の前でくちにマスクをして、くちを閉じて座り、彼ら、彼女らから預言のことばが語られることを期待する信仰の耳を開きなさい。

それとも……あなたがたは心の中でこのように言い続け、ヨエルが預言した神の約束を今後も遠ざけ続けますか……?「使徒預言者、伝道者、牧師、教師ではない信徒たち彼ら彼女らは、黙って、使徒預言者、伝道者、牧師、教師である我らのメッセージに耳を傾け従っているだけでいい。

……使徒預言者、伝道者、牧師、教師である我らが彼ら彼女らの足もとに座って耳を傾けて聴くに価するメッセージなんて彼ら彼女らの中にはあろうはずがない。」……心の中でこのようなことばを語り続けるのですか……?預言者ヨエルが語っていた預言の約束を否定することばをキリストの体の中に建て上げ続けるのですか?

彼ら彼女らに……"「あなたは、そこで立っていなさい。でなければ、私の足もとにすわりなさい」"……と心の中で言い続けるのですか?

"「ここに少年が大麦のパンを五つと小さい魚を二匹持っています。しかし、こんなに大ぜいの人々では、それが何になりましょう。」"……イエスの弟子たち、大人たち、リーダーたちは少年が持っていた五つのパンと二匹の魚を見て、心の中で……"それが何になりましょう"……と語っていた。

……しかし、その時、イエスキリストは言われた。"「人々をすわらせなさい。」"……

……預言者ヨエルが預言した栄光を見たいなら、彼ら彼女らの足もとにすわりなさい。……

……彼ら彼女らが使徒預言者、伝道者、牧師、教師の足もとにすわってメッセージを聴くことはキリストの体にとって、今後も必要なことです。

……しかし、彼ら彼女らを足もとにすわらせて、彼ら彼女らにメッセージを語り聞かせて彼ら彼女らを祝福するだけでなく、彼ら彼女らの足もとにすわる使徒預言者、伝道者、牧師、教師たちはいないのですか……?

預言者ヨエルが預言した栄光が現されるために……彼ら彼女らの足もとにすわりながら……「主よ。お語りください。あなたは彼ら彼女らが預言する…と聖書の中で語っておられます。彼ら彼女らを通してどうかお語りください……彼ら彼女らから聴きたいのです。あなたからのメッセージ、あなたからの預言を……"息子や娘は預言し、"……と預言者ヨエルによって語られた栄光を見させてください」……そのような祈りと信仰を彼ら彼女らの足もとにすわることによって神の御前に捧げる使徒預言者、伝道者、牧師、教師……はどこかにいるだろうか……?

そのように彼ら彼女らの足もとに期待しながら何度すわっても、いつまでたっても彼ら彼女らが預言を語らなかったとしても、それでも、彼ら彼女らの足もとにいくらかの時間すわることをやめない使徒預言者、伝道者、牧師、教師……はどこかにいるだろうか……?

"私の兄弟たち。あなたがたは私たちの栄光の主イエス・キリストを信じる信仰を持っているのですから、人をえこひいきしてはいけません。
あなたがたの会堂に、金の指輪をはめ、りっぱな服装をした人が入って来、またみすぼらしい服装をした貧しい人も入って来たとします。
あなたがたが、りっぱな服装をした人に目を留めて、「あなたは、こちらの良い席におすわりなさい」と言い、貧しい人には、「あなたは、そこで立っていなさい。でなければ、私の足もとにすわりなさい」と言うとすれば、
あなたがたは、自分たちの間で差別を設け、悪い考え方で人をさばく者になったのではありませんか。"
ヤコブの手紙 2章 1〜4節

"「ここに少年が大麦のパンを五つと小さい魚を二匹持っています。しかし、こんなに大ぜいの人々では、それが何になりましょう。」
エスは言われた。「人々をすわらせなさい。」"
ヨハネ福音書 6章 9〜10節

"これは、預言者ヨエルによって語られた事です。
『神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。
その日、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。"
使徒の働き 2章 16〜18節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会

"あなたがたは年数からすれば教師になっていなければならないにもかかわらず、神のことばの初歩をもう一度だれかに教えてもらう必要があるのです。あなたがたは堅い食物ではなく、乳を必要とするようになっています。
まだ乳ばかり飲んでいるような者はみな、義の教えに通じてはいません。幼子なのです。
しかし、堅い食物はおとなの物であって、経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練された人たちの物です。"
ヘブル人への手紙 5章 12〜14節
"ですから、私たちは、キリストについての初歩の教えをあとにして、成熟を目ざして進もうではありませんか。死んだ行いからの回心、神に対する信仰、
きよめの洗いについての教え、手を置く儀式、死者の復活、とこしえのさばきなど基礎的なことを再びやり直したりしないようにしましょう。
神がお許しになるならば、私たちはそうすべきです。"
ヘブル人への手紙 6章 1〜3節

"また、私たちは、さらに確かな預言のみことばを持っています。夜明けとなって、明けの明星があなたがたの心の中に上るまでは、暗い所を照らすともしびとして、それに目を留めているとよいのです。
それには何よりも次のことを知っていなければいけません。すなわち、聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない、ということです。"
ペテロの手紙第二 1章 19〜20節

"「呼ばわれ」と言う者の声がする。私は、「何と呼ばわりましょう」と答えた。「すべての人は草、その栄光は、みな野の花のようだ。
主のいぶきがその上に吹くと、草は枯れ、花はしぼむ。まことに、民は草だ。
草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。」"
イザヤ書 40章 6〜8節

"あの方は盛んになり私は衰えなければなりません。」
上から来る方は、すべてのものの上におられ、地から出る者は地に属し、地のことばを話す。天から来る方は、すべてのものの上におられる。
この方は見たこと、また聞いたことをあかしされるが、だれもそのあかしを受け入れない。
そのあかしを受け入れた者は、神は真実であるということに確認の印を押したのである。"
ヨハネ福音書 3章 30〜33節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会