シャロームを所有する

私は預言の賜物の回復を願っている。しかし私は預言の賜物を否定する方々を心から尊敬し感謝している。私が預言の賜物を熱心に求めて聖書に従うためなら…私は預言の賜物を否定する方々を不満に思い…全て感謝せよと語る聖書に逆らってよいだろうか?預言を認める牧師先生だけ尊敬し…預言の賜物を否定する牧師先生含む5役者や教団教派の方々を尊敬せず…互いに尊敬しなさいと語る聖書に逆らってよいだろうか?自分が建てたい御言葉を建て上げるために他の御言葉を壊してできた砂の上に自分が建てたい御言葉を建て上げ…家を建ててよいのだろうか?

1ー⑧「"殺してはならない"……と書いてある十戒のことばと、『剣をもとに納めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます』と言われたイエスキリストは1つであり矛盾した部分や一致しない点は存在しない」



旧約聖書の時代、神は、幼子のような神の民が「モーセ」や「エリヤ」や「その時代その時代に神から選ばれ油注がれた人」を神のように仰ぎ見るようにさせておられた。

まだ幼子である神の民を「目に見えない神を恐れる神の民」として整えるためには、「その時代その時代に神が選び油注いでおられる目に見える人を恐れる」という段階が必要であった。

キリストの体である現代のエクレシアが目に見えない神を愛する者として整えられるためには、目に見える人々を愛する段階が必要であるように、

旧約聖書の神の民が、「目に見えない神を恐れる民」として整えられるためには、「その時代その時代に神が選び油注いでおられる目に見える人を恐れる」という段階が必要であった。

"目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。
"
ヨハネの手紙第一 4章 20〜21節

……そして、神の民が、神を愛する者として整えられる前に、神を恐れる者として整えられることが必要だ。……聖書に以下のように書いてある。

"主を恐れることは知識の初めである。"
箴言 1章 7節

……だから、旧約聖書の神の民が目に見えない神を恐れる民として整えられるためには、「その時代その時代に神が選び油注いでおられる目に見える人を恐れる」という段階が必要であったので、旧約聖書の時代には「石打ち」=「石を投げて打ち殺すこと」があった。「石打ち」は神を恐れずに「律法」に違反した者に下される「さばき」だ……

……そして、旧約聖書の時代には「石打ち」だけでなく「聖絶」=「剣で殺すこと」があった。「聖絶」「剣で殺すこと」は旧約聖書の時代に「姦淫」「自分の子を殺していけにえにすること」等をしていた異邦人に下された「さばき」だ。

「石を投げて打ち殺すこと」「剣で殺すこと」等によって、まだ幼子のような神の民に「神を恐れること」を先祖代々のDNAと心の板に深く深く刻みつけることが旧約聖書の時代には優先されていた。

……それでも、新約聖書の時代になるまでの非常に長い期間、神の民が神を恐れずに律法を軽んじたり、偶像である神々を拝んだりすることがずっと頻繁にくりかえされていた。

旧約聖書の時代から新約聖書の時代まで、「律法」や「石打ち」や「聖絶」「バビロン捕囚」等によって……十戒という石の板ではなく、神の民の先祖代々のDNAと心に『神を恐れること』をあまりに深く刻みつけられ続けた結果、新約聖書の時代には「偶像である神々を拝む罪」とは全く反対方向に目盛りがふりきれてしまうかのように「律法主義者」たちが多く現れていた。

旧約聖書の時代には神の民の中に多くの偶像礼拝者たちがいたが、「聖絶」「石打ち」「バビロン捕囚」等により、神の民の心に「神を恐れること」があまりにも満ちるようになった結果、新約聖書の時代には偶像礼拝はしなくなっていたが、多くの「律法主義者」たちが現れるようになっていた。

天からイエスキリストが送られたのは、神の民が「神を恐れて」偶像礼拝をすることがなくなり、偶像礼拝とは真反対の「律法主義」におちいり、多くの偶像礼拝者たちではなくて、多くの律法主義者たちがいた時代だった。

旧約聖書の時代は「神を恐れること」を優先的に建て上げ続ける時代であったが、「神を恐れること」があまりに増加していて多くの「律法主義者」たちがいた時代、「神を恐れることが極端に満ちていた時代」になってから、次の新しい時代を建て上げるために神はイエスキリストを天から送ってくださった。

天から送られたイエスキリストは、旧約聖書の時代から新約聖書の時代まで継続していた「石を投げて打ち殺すこと」「剣で殺すこと」「人を神のように仰ぎ見ること」等の「神を恐れさせるためにあった数々のこと」を終わらせ過去のものとして過ぎ去らせた。

天から送られたイエスキリストは、それまでの時代にあった「石を投げて打ち殺すこと」「剣で殺すこと」「人を神のように仰ぎ見ること」等の数々のことをどのようにして「過去のもの」とならせ、「過ぎ去ったもの」とならせただろうか?

旧約聖書の時代の時に神が神の民にはじめから語っておられたことばをイエスキリストが『解き明かし』啓示することによってだ。

エスキリストは……今までは「石打ち」も「剣で殺すこと」も何の問題もなかったが、今後は「石打ち」も「剣で殺すこと」もしてはならない……と教えたのではない。

エスキリストは旧約聖書の時代のはじめから神は神の民に "殺してはならない"……と語っておられたことを明らかに見せ、解き明かし、啓示した。

旧約聖書十戒には、はじめから "殺してはならない"……と書いてある。十戒に、「このような者は殺してもいい」とかは書かれていない。神が旧約聖書の時代に与えた十戒のことばは "殺してはならない" だ。十戒とは「神のことば」であり、「神のことば」はイエスキリストだ。

エスキリストは「神のことば」だ。「神のことば」であるイエスキリストも十戒も矛盾するところ、一致しないところは全く存在しない。神のことばと十戒は1つであり、神のことばとイエスキリストは1つであり、十戒に書かれていることばとイエスキリストは1つだ。

旧約聖書の時代に神が神の民に与えた十戒のことばは "殺してはならない" であって、イエスキリストは、旧約聖書の時代に神が神の民に与えた十戒の "殺してはならない" をはっきりと明確に現しながら地上を歩いた生ける神のことばだ。

旧約聖書の時代、多くの神の民たちが「十戒に "殺してはならない"……と書いてあるが、それは「姦淫」等の律法に違反していない同族である神の民は殺してはならない」……という意味なのだろう……と、間違った解釈をしていたことだろう。

……そして、神は旧約聖書の時代には、多くの神の民たちが「十戒に "殺してはならない"……と書いてあるが、それは姦淫等の律法に違反していない同族の神の民は殺してはならない……という意味なのだろう」……と、間違った解釈をしている間違いについて、訂正するために何も語られることなく黙って、イエスキリストの時代が来るまでずっと見過ごし続けておられた。……黙って見過ごし続けておられたどころか、神は旧約聖書の時代を生きたダビデ等の神に選ばれた者たちに、イスラエル人を支配しようとする非常に多くの異邦人たちを剣で殺すことができる「力」「油注ぎ」を大いに与え非常に多くの勝利を与えさえしておられた。

……しかし、ダビデが主の御名のために宮を建てたいと願った時、神はダビデに告げた……"『あなたはわたしの名のために家を建ててはならない。あなたは戦士であって、血を流してきたからである。』"……

……これが十戒の "殺してはならない" に違反し続けていたダビデに与えられた避けようのない『刈り取り』だ。

確かに神は剣によって勝利する力と油注ぎをダビデに与え、ダビデは主の御名のために勝利し続けた。主の御名のために勝利し続けたダビデのことを主は大いに喜ばれ、ダビデは主の御名によって大いに祝福されていた。

……しかし、神はそのダビデに……"『あなたはわたしの名のために家を建ててはならない。あなたは戦士であって、血を流してきたからである。』"……と告げられた。

……これが神の『聖さ』だ……

神の『聖さ』は行いに応じて『刈り取り』を必ず与える。

「罪」だと知っている者にも、まだ知らない者にも『聖い』神は『刈り取り』を与える。

聖書には……"知らずにいたために、むち打たれるようなことをしたしもべは、打たれても、少しで済みます"……と書いてある。……知らなくても少しはむち打たれる……ということであり、『聖い』神の御前では、ダビデですらも回避しようのない「刈り取り」という「少し」のむち打ちがあった。『聖い』神はダビデのことをどんなに喜んでいて愛していても、 "殺してはならない" という神のルールに違反し続けたダビデに "『あなたはわたしの名のために家を建ててはならない。あなたは戦士であって、血を流してきたからである。』"……とはっきりと明確に告げられた。

"主人の心を知りながら、その思いどおりに用意もせず、働きもしなかったしもべは、ひどくむち打たれます。
しかし、知らずにいたために、むち打たれるようなことをしたしもべは、打たれても、少しで済みます。"
ルカの福音書 12章 47〜48節

しかし、ダビデが剣を持って戦いに出て血を流す前に、「剣で殺して血を流すことは十戒の "殺してはならない" に違反することであり、十戒の "殺してはならない" に違反して、剣で殺して血を流せば、あなたはわたしの名のために家を建てることはできなくなる。しかし、あなたはわたしの名のために戦士として大いに戦い勝利しなければならない」……とはっきり明確に告げられていたらダビデは数々の戦いに勝利し続けることができていただろうか?……ダビデは大いに混乱し、戦いの時にダビデの心と剣の動きに迷いが生じてしまい、ダビデは簡単に敗北していたことだろう。このように神は「その時」になるまで、現実や事実を隠す。……聖書に以下のように書いてある。

"さて、パロがこの民を行かせたとき、神は、彼らを近道であるペリシテ人の国の道には導かれなかった。神はこう言われた。「民が戦いを見て、心が変わり、エジプトに引き返すといけない。」
それで神はこの民を葦の海に沿う荒野の道に回らせた。"
出エジプト記 13章 17〜18節

"ダビデはソロモンに言った。「わが子よ。私は、わが神、主の御名のために宮を建てようとする志を持ち続けてきた。
ある時、私に次のような主のことばがあった。『あなたは多くの血を流し、大きな戦いをしてきた。あなたはわたしの名のために家を建ててはならない。あなたは、わたしの前に多くの血を地に流してきたからである。"
歴代誌第一 22章 7〜8節

"ダビデ王は立ち上がって、こう言った。「私の兄弟たち、私の民よ。私の言うことを聞きなさい。私は主の契約の箱のため、私たちの神の足台のために、安息の家を建てる志を持っていた。私は建築の用意をした。
しかし、神は私に仰せられた。『あなたはわたしの名のために家を建ててはならない。あなたは戦士であって、血を流してきたからである。』"
歴代誌第一 28章 2〜3節

エスキリストが地上に来て、「殺してはならない」ことを教える前から、神は旧約聖書の時代のはじめから、殺してはならないことを告げておられた。

エスキリストは、神が旧約聖書の時代のはじめから殺してはならないことを告げておられたことを新約聖書の時代に、この地上に来て、ことばと行いによって解き明かし啓示しておられる。聖書には "わたしはたとえ話をもって口を開き、世の初めから隠されていることどもを物語ろう"……と書いてある。イエスキリストがこの地上で語り行ったことは、世の初めから、旧約聖書の時代から、神が明らかに語っておられたこと、旧約聖書に明らかに書かれていたのに神の民から隠され続けていたはじめからあった真理の『解き明かし』だ。

エスキリストは昨日も今日も同じであるのだから、父なる神も昨日も今日も同じであり、父なる神は旧約聖書の時代も新約聖書の時代も同じだ。 "父には移り変わりや、移り行く影" はない。……だから聖書に以下のように書いてある。

"イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。"
ヘブル人への手紙 13章 8節

"父には移り変わりや、移り行く影はありません。"
ヤコブの手紙 1章 17節

"イエスは、これらのことをみな、たとえで群衆に話され、たとえを使わずには何もお話しにならなかった。
それは、預言者を通して言われた事が成就するためであった。「わたしはたとえ話をもって口を開き、世の初めから隠されていることどもを物語ろう。」"
マタイの福音書 13章 34〜35節

エスキリストは父なる神がはじめから明らかに告げておられた "殺してはならない" ということをはっきりと明らかに解き明かして啓示した。

エスキリストが人々に捕らえられる前に、イエスキリストの弟子たちに「剣」を持たせたのは、父なる神がはじめから明らかに告げておられた "殺してはならない" ということをはっきりと明らかに解き明かし、ことばと行いによって啓示するためだ。

エスキリストは弟子たちに「剣」を持たせた。イエスキリストがイエスキリストを見捨てて逃げる弟子たちに「剣」を持たせたのは、イエスキリストから離れる者はみな「神の助け」「神の恵み」から離れてしまっているので、自分の力で生きなければならなくなることをあらわしているが、イエスキリストが弟子たちに剣を持たせたことの意味は他にもある。

"それから、弟子たちに言われた。「わたしがあなたがたを、財布も旅行袋もくつも持たせずに旅に出したとき、何か足りない物がありましたか。」彼らは言った。「いいえ。何もありませんでした。」
そこで言われた。「しかし、今は、財布のある者は財布を持ち、同じく袋を持ち、剣のない者は着物を売って剣を買いなさい。"
ルカの福音書 22章 35〜36節

エスキリストを捕らえようとして来た者たちから、イエスキリストを守ろうとしてイエスキリストの弟子の1人であるペテロが「剣」で耳を切り落とした時、イエスキリストはイエスキリストの弟子の1人であるペテロに剣で耳を切り落とされた者の耳を癒し、「剣」の使用を禁止し、「剣を取る者はみな剣で滅びる」……と告げられた。

"そしてそのうちのある者が、大祭司のしもべに撃ってかかり、その右の耳を切り落とした。
するとイエスは、「やめなさい。それまで」と言われた。そして、耳にさわって彼をいやされた。"
ルカの福音書 22章 50〜51節

"そのとき、群衆が来て、イエスに手をかけて捕らえた。
すると、イエスといっしょにいた者のひとりが、手を伸ばして剣を抜き、大祭司のしもべに撃ってかかり、その耳を切り落とした。
そのとき、イエスは彼に言われた。「剣をもとに納めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。"
マタイの福音書 26章 50〜52節

ダビデは剣で人を殺して血を流し、 "殺してはならない" に違反し続けてしまっていた「刈り取り」として主の御名のためにダビデが宮を建てることは禁止されたが、ダビデは剣で滅びてはいない。

しかし、イエスキリストが「剣を取る者はみな剣で滅びる」と告げられた時、ルールは大きく変化した。旧約聖書の時代には、神の御名のために剣を取る者、ヨシュアダビデに神からの油注ぎが与えられていたが……イエスキリストが十字架にかかる前に「剣を取る者はみな剣で滅びる」と告げた時以降……神の御名のためであろうとも、剣を取る者に与えられるのは「油注ぎ」ではなく「滅び」が与えられる……何故なら……イエスキリストの十字架の贖いによって全てが新しくされるからだ。

"するとイエスは、「やめなさい。それまで」と言われた。"
ルカの福音書 22章 51節

"そのとき、イエスは彼に言われた。「剣をもとに納めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。"
マタイの福音書 26章 52節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会