シャロームを所有する

私は預言の賜物の回復を願っている。しかし私は預言の賜物を否定する方々を心から尊敬し感謝している。私が預言の賜物を熱心に求めて聖書に従うためなら…私は預言の賜物を否定する方々を不満に思い…全て感謝せよと語る聖書に逆らってよいだろうか?預言を認める牧師先生だけ尊敬し…預言の賜物を否定する牧師先生含む5役者や教団教派の方々を尊敬せず…互いに尊敬しなさいと語る聖書に逆らってよいだろうか?自分が建てたい御言葉を建て上げるために他の御言葉を壊してできた砂の上に自分が建てたい御言葉を建て上げ…家を建ててよいのだろうか?

2️⃣私は預言の賜物の回復を願っている。しかし私は預言の賜物を否定する方々を心から尊敬し感謝している。私が預言の賜物を熱心に求めて聖書に従うためなら私は預言の賜物を否定する方々を不満に思い…全て感謝せよと語る聖書に逆らってよいだろうか?預言を認める牧師先生だけ尊敬し…預言の賜物を否定する牧師先生含む5役者や教団教派の方々を尊敬せず…互いに尊敬しなさいと語る聖書に逆らってよいだろうか?自分が建てたい御言葉を建て上げるために他の御言葉を壊してできた砂の上に自分が建てたい御言葉を建てて…家を建ててよいだろうか?

 

 

2️⃣【①「ダビデの幕屋」によって預言の賜物は大いに活性化されるので…ダビデの幕屋が建て直される前に…『預言の賜物を活性化すること』だけではなくて『預言の賜物に否定的な方々を非難せず心から尊敬し感謝すること』ができる『神のシャロームの所有者たち』が備えられていなければ…ダビデの幕屋が建て直されても…砂の上の家のように崩れてしまう】

私が2019年1月から、このブログ「シャロームを所有する」を書き投稿し続けていた道の途中で……私が2000年頃から求め続けている「イザヤ書の賛美の外套」と……2009年から求め続けている「ダビデの幕屋」と……2019年頃から求め続けている「神のシャロームの回復」が……1本の線で繋がった道であったことを理解することができてから……私が さらにいくつもの投稿を続けながら歩き続けていた時……「賛美の外套」と「ダビデの幕屋」の回復の前に……「神のシャロームの回復」を備えることがどれほどに重要であるか……どうして重要であるか……といったことが……さらに鮮明に深く広く見えるようになってきた……

私が神に何年間も求め続けた「ダビデの幕屋」は……主が住まわれる  新しい歌=テヒーラの預言の賛美の中に主の臨在が満ちていて預言の賜物が泉のようになり川のように流れる「ダビデの幕屋」だ……だから……「ダビデの幕屋」の回復の前に……預言の賜物が川のように豊かに流れることができるための道備えが必要だ……

預言の賜物が川のように流れることができるための道備えとはどのようなことだろうか?  ……預言の賜物を活性化するための方法やノウハウだろうか?……預言の賜物を活性化するための方法やノウハウも確かに非常に重要だ。……預言の賜物を活性化するための方法やノウハウを日本の聖徒たちに伝達するために主に用いられておられる方々がいなければ……私は「預言の賜物の活性化」ということばを聞いたことすらないままになっていたことだろう。……主は預言の賜物を活性化するための方法やノウハウを伝達し建て上げてくださっている方々やグループを今後ますます大いに建て上げてくださる……と私は信じ期待している。

……しかし……預言の賜物が川のように流れる「ダビデの幕屋」が建て上げられる前の備えとして……預言の賜物を活性化するための方法やノウハウの伝達を受け取っている者たちが備えられているだけでは……「ダビデの幕屋」を保ち続けることはできずに……砂の上に建てられた家のように崩れてしまうことだろう……

……「ダビデの幕屋」が……しばらくの間だけ建て直されるだけで……やがて崩れてしまう砂の上に建てられた家……ではなくて……岩の上に建てられた家として築き上げられるためには……預言の賜物が川のように流れる「ダビデの幕屋」が建て上げられる前に……預言の賜物の活性化を願う者たちが……預言の賜物を活性化し続けるだけではなくて……キリストの体である他の方々……他の教団・教派・グループの方々……特に……預言の賜物を活性化させることを否定したり非難する方々のことを……見下したり……非難せずに……「直ぐな心」で心から尊敬し……「直ぐな心」で心から感謝できるために必要不可欠な神のシャロームを所有するための方法とノウハウを備えている者たちが……預言の賜物が川のように流れる「ダビデの幕屋」が回復される前に……整えられ備えられている必要がある。

預言の賜物の活性化を願う者たちが……お互いに お互いを見下し合うことをしないだけではなくて……

預言の賜物の活性化を願う者たちが……預言の賜物の活性化に協力的な牧師先生含む5役者の方々を尊敬するだけではなくて……「預言の賜物を活性化させようとする者たちを心の中で見下していて非難する牧師先生含む5役者や教団・教派・グループの方々」を……心の中で見下したりせずに……直ぐな心で心から尊敬して へりくだり耳を傾けることができ……直ぐな心で心から感謝することができ……かといって……牧師先生含む5役者の方々の中で預言の賜物を否定することに熱心な方々の意見の言いなりになって、預言の賜物を活性化させる願いとビジョンを手ばなして土の中に埋めることもせずに……預言の賜物を活性化させる願いとビジョンをキープし続けながら保ち育て建て上げ続ける者たちが備えられていなければ……「ダビデの幕屋」は砂の上に建てられた家のように崩れてしまうことになるだろう……

……預言の賜物を活性化させることを熱心に求めてはいても……「預言の賜物を活性化させることを否定し心の中で非難する方々」のことを……見下さず、非難せず、直ぐな心で心から尊敬し、直ぐな心で心から感謝できるようになるために必要不可欠な神のシャロームを所有するための方法とノウハウが……預言の賜物を活性化させることに熱心な方々に備わっていなければ……預言の賜物を活性化させることに否定的な方々を熱心に非難し見下してしまうことになりかねない……

列王記第二 3章 15節には……"しかし、今、立琴をひく者をここに連れて来てください。」立琴をひく者が立琴をひき鳴らすと、主の手がエリシャの上に下り、"……と書いてある。……これは小さなダビデの幕屋のようなものだ……「ダビデの幕屋」はさらに偉大だが……「ダビデの幕屋」には「"立琴をひく者が立琴をひき鳴らすと、主の手がエリシャの上に下り"」……と書いてある預言の活性化がある。「ダビデの幕屋」の「一致」と「賛美」と「臨在」と「油注ぎ」によって預言の賜物は大いに活性化される……「ダビデの幕屋」には預言したことがない者たちも預言できるようになるほどの預言の活性化がある……大いなる偉大な預言の活性化をもたらす「ダビデの幕屋」が預言の賜物の活性化を熱心に求めるあまり……その熱心さが預言の賜物の活性化を否定する者たちを非難し見下す熱心さにもなってしまう方々に与えられたらどうなるだろうか……

預言の賜物の活性化を熱心に求める方々に……預言の賜物に否定的な方々を心から尊敬し感謝できる神のシャロームがまだ備わっていないにもかかわらず……預言の賜物を大いに活性化させ川のように流れさせる「ダビデの幕屋」が回復されてしまうと……預言の賜物を大いに活性化する「ダビデの幕屋」は……「ダビデの幕屋」によって預言の賜物が大いに活性化された者たちが……「預言の賜物を否定する牧師先生含む5役者や教団・教派・グループの方々」をますます一致団結して大いに見下し非難の矢をとばす本拠地とか……大雪合戦大会の会場……投げているのは雪のかたまりではなくて……目に見えない雪のかたまり……心の中に満ちている……見下し非難するさばきの思い……というようなことになってしまいかねない……

……預言の賜物を活性化する人は預言の賜物を活性化しない人を侮ってはいけないし、預言の賜物を活性化しない人も預言の賜物を活性化する人をさばいてはいけない……"食べる人は食べない人を侮ってはいけないし、食べない人も食べる人をさばいてはいけません。"
ローマ人への手紙 14章 3〜4節
"食べる人は、主のために食べています。なぜなら、神に感謝しているからです。食べない人も、主のために食べないのであって、神に感謝しているのです。"
ローマ人への手紙 14章 6節
"ですから、私たちは、もはや互いにさばき合うことのないようにしましょう。"
ローマ人への手紙 14章 13節
"なぜなら、神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです。
このようにキリストに仕える人は、神に喜ばれ、また人々にも認められるのです。
そういうわけですから、私たちは、平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役立つこととを追い求めましょう。"
ローマ人への手紙 14章 17〜19節

"家が内輪もめをしたら、家は立ち行きません。"
マルコの福音書 3章 25節


シャローム


私は預言の賜物の回復を願っている。しかし私は預言の賜物の活性化に協力的な牧師先生含む5役者の方々を尊敬しているだけでなく……「預言の賜物を否定する牧師先生含む5役者の方々や預言の賜物を否定する教団教派の方々」も心から尊敬し感謝している。「預言の賜物を熱心に求めよ」と語っている聖書の御言葉に私が従順し……預言の賜物を建て上げるためなのであれば……「全て感謝しなさい」と語っている聖書の御言葉に私は不従順していてもよい…ということになるだろうか?

「預言の賜物を熱心に求めよ」と語る聖書の御言葉を建て上げるためであれば……私は預言の賜物を否定する方々のことを不満に思って感謝せずに……「全て感謝しなさい」と語っている聖書の御言葉に私は不従順していてもよい……ということになるだろうか?

「預言の賜物を熱心に求めよ」と語る聖書の御言葉を建て上げるためであれば……預言の賜物を否定する牧師先生含む5役者や教団教派の方々を尊敬することをせずに……「互いに尊敬しなさい」と語る聖書の御言葉に私は不従順していてもよい……ということになるだろうか?

聖書の中で私が特に好む御言葉に従順するためであれば……聖書に書いてある他の御言葉を否定していてもよい……ということになるだろうか?

聖書の御言葉に従順する聖徒息子娘たちとならせるために整え教えるためであれば……聖書の御言葉に従順するように教え整えている牧師先生含む5役者父母は……誰かの聖書の御言葉に不従順な言動を見聞きした場合には……不満に思ったり怒ったりして……「全て感謝しなさい」と語っている聖書の御言葉を実行せずに不従順を続けながら……聖書の御言葉に従順するように聖徒息子娘たちを教えていてもよい……ということになるのだろうか……?……矛盾していないだろうか?……ゆがんでいないだろうか?現代のキリストの体の背骨は……曲がっていないだろうか?

自分が建て上げたいと願う御言葉を建て上げるためであれば……他の御言葉を否定し壊してもよい……ということになるのだろうか?

自分が建て上げたい御言葉を建て上げるためであれば……他の御言葉を否定して破壊したことによってつくられてしまった……『砂』……岩との一致つながりを失ってしまい分離して独立してしまっている不安定な『砂』……の上に「自分が建て上げたい御言葉を建て上げる働き」と書かれた表札のついた家を建ててもよい……ということになるのだろうか?……"また、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行わない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます。"
マタイの福音書 7章 26節