シャロームを所有する

私は預言の賜物の回復を願っている。しかし私は預言の賜物を否定する方々を心から尊敬し感謝している。私が預言の賜物を熱心に求めて聖書に従うためなら…私は預言の賜物を否定する方々を不満に思い…全て感謝せよと語る聖書に逆らってよいだろうか?預言を認める牧師先生だけ尊敬し…預言の賜物を否定する牧師先生含む5役者や教団教派の方々を尊敬せず…互いに尊敬しなさいと語る聖書に逆らってよいだろうか?自分が建てたい御言葉を建て上げるために他の御言葉を壊してできた砂の上に自分が建てたい御言葉を建て上げ…家を建ててよいのだろうか?

3️⃣神の『御心』は「石打ち」ではない。だが旧約時代には神の民が偶像礼拝や他の罪で滅びないために「石打ち」が『許可』されていた…新約以降の約2000年間…まだ幼くて御言葉に不従順な聖徒息子娘に牧師先生含む5役者父母が「怒ること」は抑止力としてまだ必要であるから『許可』されている…幼子は野菜を拒絶する…父母の「怒り」により幼子に野菜を食べさせる必要がある…幼子が死なないため…幼子が成長して成人になるまでの期間…神の『御心』ではない抑止力は『許可』される

 

 

【①『神の御心』と『神の許可』は同じではない。『神の御心』は永遠に続く……しかし神は『神の御心』ではないことであっても『神の御心』が実現するためにどうしても必要なことは期間限定で『許可』する……旧約聖書の時代の「石打ち」は『神の御心』ではなかったが……神の民全体が滅びないために守り保護するためにはどうしても必要だったので……イエスキリストの新約聖書の時代が来るまでの期間……神は『神の御心』ではない「石打ち」を『許可』しておられた】

前回のブログで……聖書は「全て感謝し互いに尊敬しなさい」と語っているのだから……御言葉に従わない者たちの言動を見聞きして……御言葉に従っていない者たちのことを尊敬せず、感謝せず、不満に思い怒りながら「御言葉に従え」と言っていることは……矛盾していて……砂の上の家のようだ……といったことについて書かせていただいた……

……しかし……私は「聖書の御言葉に不従順な誰かの言動を見聞きして腹を立て続けながら聖書の御言葉に従順するように聖徒息子娘たちを教え続けておられる方々」を心から尊敬し感謝している。

……もし……聖書の御言葉に不従順な誰かの言動を見聞きして腹を立てる人がいなければどうなるだろうか?  ……牧師先生含む5役者父母が御言葉に不従順な聖徒息子娘に腹を立てずに常に優しく接し続けていたら……御言葉に逆らい不従順な生き方を好む幼い聖徒息子娘たちは御言葉に不従順な生き方にとどまり続けてしまうことにならないだろうか?

【②「神の主権」の中にある『神の御心』と『神の許可』】

旧約聖書の時代には「石打ち」があった。「石打ち」は『神の御心』だろうか?「石打ち」は『神の御心』ではない。『神の御心』は永遠に続く。……もしも「石打ち」が『神の御心』であるなら、今でも「石打ち」は続いていただろうし……新しい天と新しい地でも「石打ち」が永遠に続くことになっていただろう。……『神の御心』は神によって必ず永遠に実現し続けるからだ。……だから「愛、喜び、平安」は『神の御心』であるから……新しい天と新しい地でも過ぎ去ることなく永遠に続く。……しかし「石打ち」は新約聖書の時代にすでに過ぎ去っている。「石打ち」は『神の御心』ではなかったからだ。……では旧約聖書の時代に『神の御心』ではない「石打ち」をしていたモーセは『神の御心』ではないことをしてしまっていた……ということになるのだろうか?……そうではない……「石打ち」はモーセが思いついたことではない。……モーセに「このような者には石を投げなければならない」と語り命じたのは神だ。モーセは神に語られ命じられたとおりのことを忠実に行った忠実な者だ。モーセ旧約聖書だけでなく新約聖書の中でも忠実な者と書かれ証しされている。……"モーセが神の家全体のために忠実であったのと同様に、イエスはご自分を立てた方に対して忠実なのです。"
ヘブル人への手紙 3章 2節

……では……神は何故……『神の御心』ではない「石打ち」をモーセに語り命じたのだろうか?

……神が何故、『神の御心』ではない「石打ち」をモーセに語り命じたのかは……『神の主権』の中には……「神の御心」と「神の許可」があることを知ることによって理解することができるようになる。

『神の主権』とは=「神の国」=「神の御国」=「神の王国」と言うこともできる。……だから慣れ親しんだ言葉で言うなら……「神の国」「神の御国」「神の王国」には『神の御心』と『神の許可』がある……と書くこともできる。……しかし……「神の国」「神の御国」「神の王国」では少々範囲が広すぎるように私は思う。……「神の国」「神の御国」「神の王国」の中にある『神の主権』の中に「神の御心」と「神の許可」があるからだ。……あまりいい例えが思いつかないが……例えば……「東京と大阪はどこにありますか?」……と質問されて「世界にあります」では少々不親切であるように思う。……「世界の中に東京と大阪がある」……と言う説明は間違いではないし……聞き方によっては1周回って感動的で凝り固まった視野を広げる深いことばでもあると思う。……しかし……世界……では少々広範囲すぎるので「世界の……日本……の中に東京と大阪がある」の方が正確な情報と言えるだろう……

「東京」も「大阪」も……日本の中にある……

「神の御心」も「神の許可」も……『神の主権』の中にある……

……『神の御心』は「神の主権」によって必ず実現して永遠に続く……

……「神の主権」によって神が『許可』なさったことは誰もとめることができない。……神が『許可』なさったことをとめることができるのは神おひとりだけだ。……だから神が『許可』なさったことを……「今までは許可していたが今後は許可しない」……と言うことができるのは神おひとりだけだ。……神は旧約聖書の時代に許可していた「石打ち」を新約聖書の時代になった時に……今後は許可しないと言われた……

……『神の主権 ( 神の御国 ) 』の中に……「神の御心」と「神の許可」がある……

……神は……神の主権によって『神の御心』を必ず永遠に実現させる……

……天にも地にも神の主権が満ちている……

……天には『神の御心』が満ちている……

……地には天に『神の御心』が満ちているように『神の御心』は満ちていないが……天にも地にも「神の主権」は満ちているので……地に存在できるのは……神が神の主権によって『神が許可しておられること』と『神の御心』の2つしかない……

……神は……神の主権によって『許可』を与える。

……天は……「神の御心」が満ちている『神の領域』だ……

……地は……神が神の主権によって「神が許可しておられること」と「神の御心」しか存在できない『神の領域』だ……

……天も地も神の主権で覆い尽くされている『神の領域』だ……

……神の『許可』がなくては人も悪魔も何もすることができない……これが『神の圧倒的な主権』だ……

……『神の圧倒的な主権』を理解した者は……「はじめ」から「おわり」まで「永遠」に天と地に満ちている『神のシャローム』を見ることができるようになり……『神のシャローム』の覆いの中に入ることができるようになる……

……この地上の「過去」と「現在」に……「神の御心」ではないことがいくつもあるのは……『この地上で……もしくは新しい天と新しい地で……エクレシアに益を与えるため』に……「神の御心」ではないことであっても神が「神の主権」によって『許可』しておられるからだ。……"神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。"
ローマ人への手紙 8章 28節

……「神の主権 ( 神の御国 ) 」の中には『神の御心』と『神の許可』がある……

『神の御心』は永遠に続く。しかし神は『神の御心』ではないことであっても『神の御心』が実現するためにどうしても必要なことは期間限定で『許可』する……だから旧約聖書の時代の「石打ち」は神の御心ではなかったが……神の民全体が偶像礼拝や他の罪に溺れて異邦人に滅ぼされてしまわないために「石打ち」をモーセに実行させておられた……「石打ち」という「抑止力」により神の民を守り保護するためだ……幼子には「保護者」が必要だ……幼子には保護者が必要であるように「律法」も「律法の中にある石打ち」も旧約聖書の時代の神の民を保護する保護者や養育係として必要だった。……しかし……神の民と養育係との間に血縁関係はない……まだ幼かった神の民を養育係に保護させるために神が養育係に御自分の息子娘をあずけておられただけで……イエスキリストの新約聖書の時代に……養育係であった「石打ち」を神はイエスキリストによって過ぎ去らせた……"こうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。私たちが信仰によって義と認められるためなのです。
しかし、信仰が現れた以上、私たちはもはや養育係の下にはいません。"
ガラテヤ人への手紙 3章 24〜25節

『神の御心』ではないけれども神が『許可』しておられた「石打ち」は『神の御心』ではなかったので……イエスキリストの新約聖書の時代が来るまでの期間「許可」されていただけだった。

十戒に「殺してはならない」と永遠に変わることなく永遠に続く『神の御心』が書いてある。……しかし神は……モーセヨシュアダビデに……「殺してはならないがわたしの御心だ。誰ひとりとして剣で殺すことをせずに勝利しなさい」……とは言われなかった……あまりにもハードルが高すぎるからだ……誰ひとりとして剣で殺すことをせずに完全に勝利したイエスキリストの模範を見た者たちが「"みな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達する"」時になってからようやくギリギリとべるようになるハードルの高さを「とびなさい」と神が要求なさることはない。

……だからまだイエスキリストの新約聖書の時代になっていなかった旧約聖書の時代には……十戒には「殺してはならない」と書いてあるが……異邦の民を殺すことは『神の御心』と思っていた神の民の目から……「殺してはならない」が『神の本当の御心』であることは……イエスキリストの新約聖書の時代まで『奥義』として隠され続けていなければならなかった……

……しかし……『神の本当の御心』は永遠に変わらない……

『神の本当の御心』は「殺してはならない」だ……

……『神の本当の御心』は「殺してはならない」だが……もし……旧約聖書の時代に『神の御心』ではない「石打ち」という養育係の保護がなければ……神の民はどうなっていただろうか……

……旧約聖書の時代に……モーセが神の民に石を投げて石打ちをしているのを神の民たちは何度も何度も見ていたにもかかわらず……神の民は何度も何度も偶像礼拝をしていた……もし……養育係である「石打ち」という抑止力が旧約聖書の時代になかったら……神の民全体はもっと偶像礼拝をしたり……もっと他の罪に溺れてしまっていて……異邦の民に滅ぼされてしまっていたことだろう……

……だから……「旧約聖書の時代」には養育係として「石打ち」という抑止力が必要であったので……神は『神の御心』ではない「石打ち」をイエスキリストの新約聖書の時代が来るまで『許可』しておられた……

……しかし……『神の御心』の実現は永遠に続くが……

……『神の御心』ではないことが『許可』される時間は……永遠には続かない……

……だから……『神の御心』ではない「石打ち」を神が『許可』しておられた……旧約聖書の時代に……「石打ち」を実行していたモーセは神に忠実な者と神に認められていたが……

……『神の御心』ではない「石打ち」を神が『許可』しておられた旧約聖書の時代が過ぎ去った後の……イエスキリストの新約聖書の時代に……「石打ち」を継続しようとしていたパリサイ人律法学者は神に退けられた……

"すべてのものは着物のように古びます。
あなたはこれらを、外套のように巻かれます。これらを、着物のように取り替えられます。しかし、あなたは変わることがなく、あなたの年は尽きることがありません。」"
ヘブル人への手紙 1章 11〜12節

"彼が開くと、閉じる者はなく、彼が閉じると、開く者はない。"
イザヤ書 22章 22節

"とこしえの主権は神のものです。アーメン。"
テモテへの手紙第一 6章 16節