シャロームを所有する

私は預言の賜物の回復を願っている。しかし私は預言の賜物を否定する方々を心から尊敬し感謝している。私が預言の賜物を熱心に求めて聖書に従うためなら…私は預言の賜物を否定する方々を不満に思い…全て感謝せよと語る聖書に逆らってよいだろうか?預言を認める牧師先生だけ尊敬し…預言の賜物を否定する牧師先生含む5役者や教団教派の方々を尊敬せず…互いに尊敬しなさいと語る聖書に逆らってよいだろうか?自分が建てたい御言葉を建て上げるために他の御言葉を壊してできた砂の上に自分が建てたい御言葉を建て上げ…家を建ててよいのだろうか?

4️⃣約2000年間続いている「現代の教会」と「旧約時代」には共通していることがある……現代の教会に「石打ち」はないが「御言葉に不従順な者に心の中で腹を立てるという石を投げること」は黙認されている……現代の教会に「口伝律法」はないが……「教会秩序」がある……「口伝律法」と「教会秩序」に共通していることは『聖書には書かれていないこと』だ……神は約2000年間黙って許可しておられた……まだ幼かった聖徒息子娘を守り保護するために必要なことであったからだ……

 

 

4️⃣【①旧約聖書の時代には神が「許可」しておられ実行する者に油注ぎがとどまっていたが本当は「神の御心」ではなかった
『目に見える石打ち』

約2000年続いている現代の教会に神が「許可」し続けておられ実行する者に神が油注ぎと祝福を与えておられる
『目に見えない石打ち』】

前回のブログで……神の主権は天も地も覆い尽くしているので……天には「神の御心」だけがあり……地には「神の御心」と「神が許可したこと」の2つだけしかない……それゆえ……「旧約聖書の時代」には……「石打ち」という抑止力が……まだ幼い神の民を保護するための養育係として必要であったので『神の御心』ではない「石打ち」を神が『許可』しておられたが……イエスキリストの新約聖書の時代になった時……神の御心ではないけれども神が『許可』しておられた「石打ち」という養育係は神がイエスキリストによって過ぎ去らせた……『神の御心』は永遠に続くが……神が御心ではないことを『許可』する時間は永遠ではないので時が来ると神が過ぎ去らせる……といったことについて書かせていただいた。

旧約聖書の時代」には「石打ち」という抑止力の保護がまだ幼い神の民の養育係として必要であったので『神の御心』ではない「石打ち」を神が『許可』しておられたように……新約聖書の時代から約2000年間続いている「現代の教会」の牧師先生含む5役者父母が御言葉に不従順な聖徒息子娘に「腹を立てる」という「目に見えない石」を投げている『目に見えない石打ち』という抑止力による保護が……まだ必要なので……神は約2000年間ずっと黙って『許可』し続けておられるし……『許可』し続けておられるだけでなく……「腹を立てる」という「目に見えない石」を投げて『目に見えない石打ち』を実行して聖徒息子娘を戒めておられる方々を神は大いに祝福し豊かに油注ぎを与え続けておられ……御言葉に不従順な聖徒息子娘にたいして腹を立てながら戒めることは『神の御心』であるという強い確信を与え続けておられる。

約2000年続いた現代の教会の牧師先生含む5役者父母が心の中に怒りを持ちながら「目に見えない石打ち」によって……「目に見えない御言葉の文字(ロゴス)の剣」によって聖徒息子娘を整えようとする時に油注ぎがとどまっているのは……まだ現代の教会に必要であるゆえに……神が今はまだ許可し続けておられ継続させ続けておられるからだ……

新約聖書の時代に神がイエスキリストによって「目に見える石打ちで民を殺すこと」と「目に見える剣で異邦の民を殺すこと」を過ぎ去らせた時以降……「目に見える石打ちで民を殺すこと」や「目に見える剣で異邦の民を殺すこと」を実行しようとする者は神に退けられたが……

……旧約聖書の時代には……神がまだ『許可』しておられた「目に見える石打ち」を実行していたモーセの上には神の民のリーダーとならせる油注ぎがとどまっていた……

……旧約聖書の時代には……神がまだ『許可』しておられた「目に見える剣で異邦人を殺すこと」を実行していたヨシュアダビデの上には神の民のリーダーとならせる油注ぎがとどまっていた……

……新約聖書の時代から約2000年続いている現代の教会で……旧約聖書の時代のように物理的に「目に見える石」を投げて「石打ち」を実行して人殺しをする者に油注ぎは与えられず、まるで旧約聖書の時代の時みたいに……現代のクリスチャンがイエスキリストを主と認めない民を「目に見える剣」で殺しても油注ぎは与えられず……神に退けられることになるが……

新約聖書の時代から約2000年続いている現代の教会の牧師先生含む5役者父母が心の中に怒りを持ちながら「目に見えない石打ち」によって「目に見えない御言葉の文字(ロゴス)の剣」によって聖徒息子娘を整えようとする時には……モーセヨシュアダビデに神からの油注ぎがとどまっていたように……神からの油注ぎがとどまっている。……牧師先生含む5役者父母の「怒り」という抑止力が幼子の養育係や保護者として現代の教会にはまだ必要であるからだ……だから神は『聖書に書かれていない』「口伝律法」と同じで『聖書に書かれていない』「教会秩序」という人間がつくったルールについても黙認し続けておられるし……「弟子づくり」ということばが「神の弟子」ではなくて……「牧師の牧師による牧師のための弟子づくり」……のようなことになっていることも神は黙認し続けておられるどころか……油注ぎと祝福と追い風を与え続けておられる。……「教会秩序」が強化されることで牧師先生含む5役者父母が高く上げられることによって……まだ幼い聖徒息子娘が守られ保護されるからだ。……まだ幼い聖徒息子娘が守られ保護されるためには……非常に高い壁に囲まれている必要があるからだ。

しかし……神は……約2000年間非常に高く上げ続けておられた「教会秩序」の壁を低くしはじめておられる……「所属教会に集まって礼拝できない時期」があったのは……神が非常に高くしておられた「教会秩序」を低くしはじめておられるからだ……「所属教会に集まって礼拝できない時期」があったのはいくつかの「教団・教派・グループ」だけに見られたことではなく……いくつかの地域だけであったことでもなく……いくつかの国で見られたことでもない……「所属教会に集まって礼拝できない時期」が全世界を覆い続けていた……

……「所属教会に集まって礼拝すること」も大切なことなので……神は再び「所属教会に集まって礼拝すること」ができるように回復してくださっている……

……しかし……「所属教会に集まって礼拝できない時期」が全世界を覆い続けていた時が……インターネットによって自分の所属教会だけでなく……他の教会や他の牧師先生や海外に存在している現代の使徒預言者、伝道者、牧師、教師のメッセージを視聴する機会が増大するきっかけとなったのは私だけではないことだろう……

所属教会の箱入り娘にし続けることを神はまだ幼い聖徒息子娘の安全と保護と成長のために約2000年ずっと『許可』し続けておられたが……徐々に変わりはじめている……

……まだ幼い幼子にとっては父母の背が非常に高く、まだ幼い幼子がどんなに背伸びしても家の外を見ることができないくらいに壁が高い方が安全だ……しかし……幼子が幼子ではなくなっていてしかも健康であるのに外出を許可されないのであれば……人権侵害になってしまう……

幼子にとっては父母の守りと愛であることが……

青年にとっては父母の牢獄監禁人権侵害侮辱となる……

まだ幼い幼子に「何でも自由に好きなだけ食べなさい」と許可すれば……幼子がはじめて目にする野菜を1度食べてみはするだろうが……野菜の味が幼子の味覚には……おいしくない……と知って以降は2度と自分で野菜を選んで食べようとはせずに野菜を拒絶し続けて甘いお菓子だけを食べ続けるだろう……父母が「野菜を食べましょうね~」と優しい表情で優しく語りかけながら……野菜の大切さをいくら説明しても……幼子の頭脳は理解することができないから……野菜を食べようとはしない……だから……父母が「野菜を食べなさい」と怒ったり叱ったりして野菜を強制的に食べさせないと幼子は不健康になって死ぬ。……幼子が不健康になって死なないためには……自由に選択できる権利や人権は父母によって奪い取られていなければならない。……幼子が幼子ではなくなった時に健康な我が子を縄で縛って野菜を食べさせることはしてはならないことだが……まだ幼い時期に……父母の怒りや叱責によって野菜を強制的に食べさせられ続けた幼子は健康に成長し続けることができ……頭脳も理解力も成長し……野菜が必要であることを理解できるようになり……父母の手で強制的に野菜をたべさせられなくても……自分の手で野菜を選んで食べるようになる。

……まだ幼い幼子に野菜を食べさせるためには……父母の怒りや叱責が必要であるように……旧約聖書の時代の神の民には「石打ち」が必要であったし……

まだ幼い幼子に野菜を食べさせるためには……父母の怒りや叱責が必要であるように……約2000年続いていた現代の教会の牧師先生含む5役者父母の怒りによって……御言葉に不従順な聖徒息子娘が御言葉の中に強制的にとどまらさせられ……御言葉に不従順な聖徒息子娘が御言葉の中に強制的にとどまらさせられることによって……御言葉にとどまることがいかに自分自身にとって必要なことであるかを知るようになり……自分自身も「御言葉にとどまれ」と誰かを叱る者となった……牧師先生含む5役者父母の『怒り』『叱責』によって「御言葉の継承」と「御言葉にとどまらせる保護」は約2000年間保たれ継承され続けている……

……だから……御言葉に不従順な者に「腹を立てるという目に見えない石」を投げる『目に見えない石打ち』を忠実に実行し続けながら聖徒息子娘たちを整え建て上げ続けておられる現代の牧師先生含む5役者父母はモーセと同じように神と神の家に忠実な方々であり尊敬されるにふさわしい方々であり……神によって大いに祝福され油注がれ用いられている方々である……と私は心から信じているし……神に大いに祝福され油注がれ用いられている現実をこの目で数えきれないほどに見させていただいているし尊敬しているし感謝している。……"よく指導の任に当たっている長老は、二重に尊敬を受けるにふさわしいとしなさい。みことばと教えのためにほねおっている長老は特にそうです。"
テモテへの手紙第一 5章 17節

"モーセが神の家全体のために忠実であったのと同様に、イエスはご自分を立てた方に対して忠実なのです。"
ヘブル人への手紙 3章 2節

4️⃣【②旧約聖書の時代に過ぎ去った「目に見える石打ち」のように「目に見えない石打ち」が過ぎ去る時が来る】

「目に見える石打ち」を実行することが神に忠実であると認められていた旧約聖書の時代が……イエスキリストの新約聖書の時代に……神がイエスキリストによって過ぎ去らせたように……

……「新約聖書の時代」から約2000年続いていた現代の教会の牧師先生含む5役者父母が「御言葉に不従順な者に心の中で腹を立てる」という『目に見えない石打ち』によって御言葉に不従順な聖徒息子娘に保護を与えることが神に忠実な行いと認められていた時代が過ぎ去る時が来る……

……神は「旧約聖書の時代」に『許可』しておられた「目に見える石打ち」という保護を……「新約聖書の時代」に……イエスキリストによって取り去られた。  ……偶像礼拝をやめさせ、神のみおしえを尊ぶ民とならせるための「抑止力」をもたらす「養育係」として何世代にも渡って必要であった「目に見える石打ち」という保護は……もはや偶像礼拝をしておらず……神のみおしえを尊ぶことがあたりまえのこととして浸透していた新約聖書の時代の神の民にはすでに必要なくなっていたので……神はイエスキリストによって……「目に見える石打ち」を過ぎ去らせた……

新約聖書の時代」から約2000年間続いていた……「心の中で腹を立てる」という「目に見えない石打ち」や『聖書に書かれていない』「教会秩序」という抑止力は……まだ幼い聖徒息子娘たちに「御言葉の『継承』」と「御言葉にとどまらせる『保護』」を与え続けることにより……神と神の御言葉を愛し慕う聖徒とならせ整え成長させ続けるためにどうしても必要だったが……

……御言葉に不従順な者たちに牧師先生含む5役者父母が心の中で「腹を立てる」という「目に見えない石打ち」による保護は……まだ幼子であった聖徒息子娘が……もはや幼子ではなくなる日が来ると……約2000年前にイエスキリストによって「目に見える石打ち」を過ぎ去らせた神が……約2000年続いていた現代の教会の「目に見えない石打ち」を過ぎ去らせる……

……約2000年間も続いていた現代の教会で今も実行され続けている「目に見えない石打ち」……御言葉に不従順な聖徒息子娘に牧師先生含む5役者父母が心の中で「腹を立てる」という「目に見えない石打ち」を……神はどのようにして過ぎ去らせるのだろうか……

……神は……約2000年前と同じように……「イエスキリスト」と「聖霊」と「神のことば」によって過ぎ去らせる……

……約2000年前に……イエスキリストが語られた……「"兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。"」……この御言葉を……神が……聖霊によって思い起こさせ……目をそらすことなく直視させ……ロゴスの文字としてではなくて 生ける神の息であるレイマとして……聖霊によって深く強く響き渡らせることによって……約2000年以上続いていた現代の教会の「目に見えない石打ち」を神が過ぎ去らせる時が来る……そして……約2000年間続いていた
『新約時代の旧約時代』は過ぎ去り……

『新約時代の新約時代』がはじまる……

"しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを【思い起こさせてくださいます】"
ヨハネ福音書 14章 26節

"その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。"
ヨハネ福音書 16章 8節
"わたしには、あなたがたに話すことがまだたくさんありますが、【今あなたがたはそれに耐える力がありません。】
しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。"
ヨハネ福音書 16章 12〜13節

"昔の人々に、『人を殺してはならない。【人を殺す者は】【さばきを受けなければならない】』と言われたのを、あなたがたは聞いています。
しかし、わたしはあなたがたに言います。【兄弟に向かって腹を立てる者は】、だれでも【さばきを受けなければなりません】"
マタイの福音書 5章 21〜22節