③新使徒運動は異端?3️⃣ねじ曲げられた『尊敬』
この国において『尊敬』ということばが、敵によって歪にねじ曲げられ盗まれている現実を見聞きすることがある……
じつに多くの牧師先生が数えきれないほど語っていて、多くのスチャンが数えきれないほど聞いている……"「あなたの父と母を敬え」"……ということばをじつは理解できていない現実を見聞きすることがある。
敵によって尊敬ということばがいびつにねじ曲げられていて「尊敬の力と祝福」を盗まれていることに気づいていない。
「あなたの父と母を敬え」……と聖書に書いてある神の命令を……「あなたの息子、娘、信徒、目下の者に尊敬を要求しなさい」などといったような意味に曲解してねじ曲げて聖書に書いていない命令をつけ加えさせられていることに気づいていない。……📖"律法の教師でありたいと望みながら、自分の言っていることも、また強く主張していることについても理解していません。"
テモテへの手紙第一 1章 7節
神は「あなたの父母に尊敬を与えなさい」……と命じたのであって……「あなたの息子娘に尊敬を要求しなさい」……とは命じてはいない。……📖"私は、この書の預言のことばを聞くすべての者にあかしする。もし、これにつけ加える者があれば、神はこの書に書いてある災害をその人に加えられる。"
ヨハネの黙示録 22章 18節
"こうしてあなたがたは、自分たちが受け継いだ言い伝えによって、神のことばを空文にしています。そして、これと同じようなことを、たくさんしているのです。」"
マルコの福音書 7章 13節
「愛する息子娘が父母を尊敬しないという違反をしないように父母を尊敬しなさいとしつけをしているのです」……と言う人がもしかしたらいるかもしれない。……📖"愚かな者には、その愚かさにしたがって答えよ。"
箴言 26章 5節
……しかし……愛する息子娘が父母を尊敬しないという違反をしないようにするためなら……父母を尊敬しなさいと息子娘に要求するという違反を父母がしてもいい理由にはならない。……📖"愚かな者には、その愚かさにしたがって答えるな。あなたも彼と同じようにならないためだ。"
箴言 26章 4節
父母が息子娘に尊敬を要求すればするほど、父母は低くされ、息子娘にとって、低くされた父母を尊敬することのハードルが高く難しくなってしまい……愛する息子娘に受け取ってほしい「父母を尊敬する者に約束されている神の祝福」を愛する息子娘から遠く引き離してしまっている。
敵は家を壊したいと願っているが、神は父母に息子娘を守り祝福する力と権威を与えておられるので、敵は父母を低くしなければ家を壊すことができない。
敵は父母を低くすることはできないので、父母が自分で自分自身を低くするようにそそのかす。
息子であれ娘であれ、信徒であれ、誰にたいしてであろうと自分を尊敬するように要求することは自分で自分を高く上げることだから必ず低くされる。……📖"なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。"
ルカの福音書 14章 11節
父母が息子娘から尊敬されることは、上から下に水が流れるように自然なことだ。しかし、敵は自然な祝福の流れを妨げ盗み壊すために、父母が息子娘に尊敬を要求するようにそそのかすことによって父母を低くならせようとする。
自分で自分を高くするようにそそのかされて低くされた父母牧師やグループのリーダーは息子娘信徒やグループを自然に祝福できる流れと力を失ってしまっているので、水を下から上に上げるような大きな努力が必要になり、父母牧師やグループのリーダーは大きな努力の見返りとしてますます息子娘信徒やグループからの尊敬に渇くようになる。
尊敬や接待を自分から要求する者は敵の罠に落ちている。自分は接待を受けるにふさわしいと思っている者は敵の罠に落ちている。
自分は接待を受けるにふさわしくない者、尊敬を受けるにふさわしくないなんでもないものなのに……もし誰かから接待してもらえるなら感謝して接待を受け入れ、もし誰かが尊敬してくれるなら、尊敬を受けるにふさわしくない不完全な者であるのに、尊敬を与えてもらえた恵みに感謝して相手からの尊敬を受けとれ。……ふさわしいお方は主おひとりだけだ。……📖"招かれるようなことがあって、行ったなら、末席に着きなさい。そうしたら、あなたを招いた人が来て、『どうぞもっと上席にお進みください』と言うでしょう。そのときは、満座の中で面目を施すことになります。
なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」"
ルカの福音書 14章 10〜11節
聖書に書いてあるのは「尊敬させなさい」ではなくて「尊敬しなさい」であることを、多くの父母牧師先生やリーダーたちが理解できていないので、尊敬が義務化してしまっていていのちのないもののようになってしまっていて尊敬がつくられた不自然ないのちのないプラスチックの花のようになってしまっている。
父母牧師リーダーが息子娘信徒やグループに「私はあなたのためにこんなにも努力しているのだから私を尊敬しなさい」と要求すればするほど……
……息子娘信徒やグループにとって水が上から下に流れることのように自然にわき出るだったはずの尊敬が枯れてしまい……努力しなければ尊敬することができなくなって……「私たちはあなたのことをこんなにも努力して尊敬しているのですから私たちをもっと祝福してください」ということになってしまってはいないだろうか?
"彼から百デナリの借りのある者に出会った。彼はその人をつかまえ、首を絞めて、『借金を返せ』と言った。"
マタイの福音書 18章 28節
②新使徒運動は異端? 2️⃣『牧師を尊敬することの大切さ』と『信徒が預言の賜物を求める権利』
何人かの牧師たちは「自分は使徒だと言う者や新使徒運動に賛同している者たちは牧師を見下していて、牧師の悪口を言っている!」と気分を害しておられるといったことを見聞きすることがある。確かに悪口は良くないし、言い方には知恵が必要だ。
……だが……新使徒運動に賛同している現代の使徒たちが現代の牧師先生たちに向かって言っている内容を、私なりにわかりやすくかんたんに言うなら……「牧師たちは預言ができない」「牧師たちは悪霊が追い出せない」……ということなのだが?
「牧師たちは預言ができない」「牧師たちは悪霊が追い出せない」……これは悪口なのだろうか?……牧師先生たちのプライドをひどく傷つけるただの不都合な事実なのではないだろうか?
現代にも使徒たちが世界中に存在していることを熱心に否定したい牧師先生たちは「現代には聖書があるから使徒は必要ない」と言ったりしていることを見聞きするが……牧師と聖書があれば使徒はいらないのだろうか?
聖書を持っている現代の牧師たちは悪霊を追い出し病人を癒すことが十分にできていると断言できるのだろうか?
主が使徒たちを立てたのは……"霊どもを追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいをいやすためであった。"……と聖書に書いてあるのだが……現代の牧師には聖書があるから使徒は必要ないなら……"霊どもを追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいをいやす"……ことが十分にできているということなのだろうか?……📖"イエスは十二弟子を呼び寄せて、汚れた霊どもを制する権威をお授けになった。霊どもを追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいをいやすためであった。
さて、十二使徒の名は次のとおりである。まず、ペテロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、"
マタイの福音書 10章 1〜2節
私は使徒も牧師も尊敬しているが……
……牧師先生のプライドを傷つける不都合な事実について語ることは牧師先生を尊敬していないことにはならない。
私は牧師先生たちを尊敬しているからこそ、牧師先生のプライドを傷つける不都合な事実についても遠慮なくまっすぐに語る。「この程度のことでつまずいたりはしないだろう」と信じているからだ。
「こんなことを言ったら牧師先生を困らせたり傷つけるかもしれない」と思って言葉をひかえることの方が尊敬が足りていないのではないだろうか?
まるで親が幼い子に配慮するようにきびしい言葉や正論をひかえてあげることは尊敬なのだろうか?
牧師先生を愛し尊敬しているなら牧師先生にとって耳障りの良い心地よいことばだけを語りなさい……などというようなことを欲している牧師先生が、もしもいるとするなら……私を愛し尊敬しているなら私を甘やかしてくれ……と言っているのと同じではないだろうか?……📖"人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、
真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。"
テモテへの手紙第二 4章 3〜4節
甘やかされることが……
「尊敬されるということ」なのだろうか?
地の王たちや社長や重役たちのように接待されることが……
「尊敬されるということ」なのだろうか?
自分のプライドを傷つける言葉を言われて怒る前に……大切なのは……言われたことが事実か事実でないかを考えることだ。
……もし……言われたことが事実であるのなら……何故、怒っている?
あなたが怒る権利があると思わせている権威と力はどこから来ている?……📖"「大祭司にそのような答え方をするのか」と言って、平手でイエスを打った。
イエスは彼に答えられた。「もしわたしの言ったことが悪いなら、その悪い証拠を示しなさい。しかし、もし正しいなら、なぜ、わたしを打つのか。」"
ヨハネの福音書 18章 22〜23節
私は甘やかされることを当然の権利であるかのように要求する牧師先生のことも尊敬している。
子どもじみたわがままを言わずにはいられないほどに心のケアーを必要とするほど疲弊してしまうほどに、神と人に仕え続けておられる牧師先生を尊敬している。
しかも、子どもじみたわがままを言っているにもかかわらず、威厳を保つことにひっしにこだわっていて、立派な成熟した模範的な霊的リーダーであると認められたい……認められないと機嫌が悪くなったり落ち込んだりする……ほどに神と人に仕え続け労苦しておられる牧師先生を尊敬している……だが……私は事実を曲げてこびへつらったりはしない。
牧師先生たちには不足していて欠けたところがある。……しかし決して……牧師先生たちの努力や成長や愛や祈りや聖書通読が足りないとかいった理由で欠けているのではない。
牧師先生たちがどんなに主のため信徒のため人々のために努力し続けて手をのばし続けていても届かなくて不足していて欠けている部分は……使徒によって、預言者によって、伝道者によって、教師によって満たすことが神の計画であり神のデザインであることを認めなければならない。
現代にも使徒たちがいることをかたくなに認めようとしない牧師先生たちに不足していて欠けたところがあるという揺るぎない事実こそがなによりも使徒たちが現代にも存在していることを物語っている。
多くの牧師先生たちは新使徒運動に行かないように愛する信徒たちに熱心に語り教えたりしていることを見聞きすることがあるが……
もし、愛する信徒たちが新使徒運動に行ってほしくないとそんなにも強く願っているのなら……かんたんなことだ……牧師先生たちが預言できるようになり、牧師先生たちが悪霊を追い出せるようになり、信徒たちにも預言ができるように教えて、信徒たちも預言ができるようにならせて、信徒たちにも悪霊を追い出せるように教えて、信徒たちも悪霊を追い出せるようにならせることができれば……ほとんど誰も新使徒運動に行くことはなくなる。
牧師たちの愛する信徒たちが新使徒運動に行くのは……牧師先生たちが預言できないし……牧師先生たちが悪霊を追い出すことができないからだ。……もしくは……自分が所属している教会の牧師先生は預言できるし、悪霊も追い出せるし、病気も癒せるけど、自分も牧師先生のように預言できるようになったり、悪霊を追い出せるようになったり、病気を癒せるようになりたいと願う強い飢え渇きがあるからだ。
世界トップクラスの一流のシェフである親戚のおじさんがいるという特別な恵みがあるのに、そのおじさんの手料理を食べてみたいと求めてはいけないのだろうか?
「お母さんがこんなにもあなたのことを愛してこんなにも毎日毎日あなたのために労苦しながら一生懸命料理してあげているのに、どうしておじさんの手料理が食べたいだなんて言うの!お母さんの料理じゃ不満だって言うの!?」……と激しく怒って子に母親にたいする感謝が足りないとか、愛が足りないといった罪悪感を与え束縛しようとする母親のように……信徒たちに聖書が与えている預言の賜物という権利であり恵みである特権を放棄しろとでも言うつもりなのか?
確かに、この母親の気持ちは無視されるべきではないし、子はこの母親に感謝し、この母親を尊敬すべきだ。……しかし……この母親が子の選択を支配していい理由にはならない。この母親が感謝され尊敬されるにふさわしいことと、この母親が言っていることが正しいか正しくないかは別の話しだ。
非常に飢え渇いていたら盗んでもいいことになるのだろうか?母親が自分の愛する子たちに自分の食べる分をほとんど全て分け与えて飢え渇いたなら盗んでもいいことになるだろうか?母親の子たちにたいする愛は非常に大きく尊いが、盗んでもよい理由にはならない。……📖"悪者をえこひいきすることはよくない。正しい者をさばきのときに否むこともよくない。"
箴言 18章 5節
牧師先生が信徒たちのためにどんなに全てを捧げ尽くしていたとしても、預言を求める信徒たちの邪魔をしてもいい理由にはならない。……📖"御霊の賜物、特に預言することを熱心に求めなさい。"
コリント人への手紙第一 14章 1節
信徒たちの預言できるようになりたいという飢え渇きを満たせもしないのに、新使徒運動に行くな……と熱心に語るのは何故だ?
……新使徒運動に行くなと熱心に語っている暇があるのなら、自分自身がさっさと預言できるようになって、信徒たちが預言できるようにならせることができるようになればいいではないか。
信徒たちは預言できるようになりたいと求めてはいけないのか?聖書が許可していることを牧師が禁止するのか?牧師の権威は聖書よりも高いのか?
「預言できる⭕️」「悪霊を追い出すことができる⭕️」「病気を癒すことができる⭕️」「信徒たちも預言できるようにならせることができている⭕️」「信徒たちも悪霊を追い出せるようにならせることができている⭕️」「信徒たちも病気を癒すことができるようにならせることができている⭕️」……この6つの中の1つでもできていないこと❌があるのなら新使徒運動に行くなと言うことばにはなんの力もない。……📖"思い上がっている人たちの、ことばではなく、力を見せてもらいましょう。
神の国はことばにはなく、力にあるのです。"
コリント人への手紙第一 4章 19〜20節
……もし……新使徒運動に行くなと言いたいのであれば、せめて最低でもこの6つくらいはできるようになってから新使徒運動に行くなと言っていただきたいものだ。……新使徒運動においてはこの6つは基本中の基本だ……この6つが既存の地域教会にほどんどないので新使徒運動は開始して動き出し、世界中で今も成長し続け、拡大し続けて、実を結び前進し続けている。
……とはいっても……牧師先生たちに「新使徒運動に行くなと言うなら、せめてこの6つくらいはできるようになってくださいね」……と言うのは……せめて伝道者ビリーグラハムと同じぐらいの人数をキリストに立ち返らせてくださいね……と言うのと同じくらいに牧師にとって無理難題である……ということを私はわかっていながら「この6つが全部できるなら新使徒運動に行くなと言ってもいいんじゃないですか?」……と言っている。……いやみや意地悪やあざけりのためではなくて……使徒と牧師のそれぞれの役割、得意分野、主から任され油注がれた領域が、それぞれ同じではないことを手っとり早く知ってもらうためだ。
牧師が地域教会の門であり地域教会の信徒たちに通じる通路であるように、
使徒は預言や癒しといった聖霊の9つの力の賜物の通路だ。
私が調べたのではないが……
1980年頃に……キリストの体の中で預言者たちが立ち上がり……
1990年頃にキリストの体の中で使徒たちが立ち上がり……
2000年頃から5役者のような働きをする聖徒たちが世界中で立ち上がっている。
まだ使徒が立ち上がっていなかった1990年頃よりも前は聖霊の9つの力の賜物は、ほとんど5役者たちの上にだけとどまっていたが……聖霊の9つの力の賜物の通路である使徒が1990年頃に立ち上がったので、2000年頃には世界中のあちらこちらで聖霊の9つの力の賜物が5役者を通してだけでなく、聖徒たちを通しても流れ働き現されるようになっている。……📖"私があなたがたに会いたいと切に望むのは、御霊の賜物をいくらかでもあなたがたに分けて、あなたがたを強くしたいからです。"
ローマ人への手紙 1章 11節
使徒を通して聖霊の9つの力の賜物を受けとることができるのは信徒たちだけではない。
牧師先生たちも使徒を通して聖霊の9つの力の賜物を受けとることができる。
そして、使徒を通して聖霊の9つの力の賜物を受けとった牧師先生たちから、聖霊の9つの力の賜物を受けとった信徒たちが世界中で起こされ増え続けている。
……だから……1990年頃は使徒が立ち上がった時代と言われていて、2000年からは聖徒たちの時代と言われている。
この国においても、牧師先生たちが、使徒たちを通して聖霊の9つの力の賜物を教えられ分け与えられ整えられる時から……聖徒たちを通して9つの力の賜物が流れ働き現される聖徒たちの時代が本格的に動き出すようになる。
……しかし……多くの牧師先生たちはあんな人たちとは関わりたくないと言っている……何人かの使徒たちが「あんな人たち」なのは……牧師先生たちが使徒たちを整えないからだ。
使徒も牧師も使徒や牧師である前に聖徒であるから……聖徒である使徒は聖徒たちを整えるためにキリストの体に遣わされている牧師によって整えられなければならない。
聖徒である牧師も、聖徒たちを整えるためにキリストの体に遣わされている使徒によって整えられなければならない。
……もし……牧師先生たちが使徒たちによって整えられるなら、牧師先生たちにとって無理難題だった6つのことは無理難題ではなくなる。
"私があなたがたに会いたいと切に望むのは、御霊の賜物をいくらかでもあなたがたに分けて、あなたがたを強くしたいからです。"
ローマ人への手紙 1章 11節
"こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。
それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、
ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。"
エペソ人への手紙 4章 11〜13節
①新使徒運動は異端? 1️⃣『神が牧師に与えた権威』と『神が使徒に与えた油注ぎ』
この国の多くの牧師先生たちは……「新使徒運動はカルトだ!異端だ!現代には使徒なんて1人もいない!」……と言っている。
今の時代に生きている使徒の何人かは……「牧師たちは宗教の霊に支配されていて、パリサイ人、律法学者のように新しい聖霊の働きに目が開かれていない!」……と言っている。……📖"自分の目にある梁が見えずに、どうして兄弟に、『兄弟。あなたの目のちりを取らせてください』と言えますか。偽善者たち。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうしてこそ、兄弟の目のちりがはっきり見えて、取りのけることができるのです。"
ルカの福音書 6章 42節
使徒と牧師には、どちらが上で、どちらが下ということはない。
使徒と牧師には、どちらが上で、どちらが下といったことはないが……使徒と牧師は同じではない。
使徒にも牧師にも、それぞれ神からの油注ぎと権威が与えられているそれぞれの領域がある。
1️⃣『神が牧師に与えた権威』と『神が使徒に与えた油注ぎ』
使徒は5役者の中で1番えらいから、他の4職は使徒に従うべきである……などということを思っている使徒が、もしも、現代の使徒たちの中に誰かいるとしたら、その使徒は、牧師につまずきを与えることになり、その使徒につまずいた牧師先生は、その使徒だけではなくて、ほとんどすべての使徒にたいしても門を閉ざすことになってしまう可能性が高い。
もしかしたら、その使徒は「神が私を使徒として遣わしておられるのに受け入れないのか!」と怒ったり、ショックを受けたり、深く悲しんだりするかもしれない。
……しかし……使徒には使徒の権威と油注ぎがあるように、牧師にも牧師の権威と油注ぎがある。牧師には門を開く権威と門を閉ざして門の外に追い出す権威が神から与えられている。
牧師たちが、神によって、それぞれの地域に備えられている門であることを、使徒たちは認めなければならない。神が牧師に与えた権威を認めないことは神の権威を認めないことと同じことだ。……📖"人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。
したがって、権威に逆らっている人は、神の定めにそむいているのです。そむいた人は自分の身にさばきを招きます。"
ローマ人への手紙 13章 1〜2節
強盗や盗人のように門に入ろうとする者は、神が遣わした使徒であろうとも門の外に追い出し門を閉ざす権威を神が牧師に与えておられる。……📖"町の門にいる町の長老たち"
申命記 21章 19節
📖"そこで、私は、あなたがたのうちの長老たちに、同じく長老のひとり、キリストの苦難の証人、また、やがて現れる栄光にあずかる者として、お勧めします。
あなたがたのうちにいる、神の羊の群れを、牧しなさい。"
ペテロの手紙第一 5章 1〜2節
📖"「まことに、まことに、あなたがたに告げます。羊の囲いに門から入らないで、ほかの所を乗り越えて来る者は、盗人で強盗です。"
ヨハネの福音書 10章 1節
牧師によって門の外に追い出された使徒は言うかもしれない。「神が私を遣わされたのに受け入れずに追い出すとは!なんということだ!」
神が、その使徒に「あの地域教会に行け。わたしが遣わす。」……と確かに言っておられたとしても……遣わした使徒に、遣わされた地域教会の牧師をいらだたせる言動をしなさいなどと神は命じていない。
神が確かに「行け」と言われたのだとしても、神の命令と聖書の命令に背いて、尊敬と配慮と知恵にあまりにも欠けた言動によって、牧師を大いにつまずかせるなどという致命的な大失態をしでかしておきながら……「主よ!あなたは私を遣わされたのではなかったのですか!」とか「主よ!牧師の目が悪霊に閉ざされています!主よ!私はこの牧師のことをゆるします……どうか、この牧師をあわれんでください……この牧師の霊の目よ……イエスの御名によりすみやかに開かれよ!」……などと色々なことを好き放題に言う前に少し頭を働かせないと……せっかく主が、その使徒に預けておられる油注ぎを地域教会の門である牧師に届けることが実現することはない。
地域教会の門である牧師に届けることができないなら、その門の中にいる信徒たちも、神が使徒に預けられた油注ぎを受けとることはできない。
確かに使徒には大いなる油注ぎがあるが、使徒に大いなる油注ぎがあることは知恵がなくてもよい理由にはならないし、へりくだらなくてもよい理由にはならないし、牧師を尊敬せずに見下し支配しコントロールしようとしてもよい理由にはならない。……📖"自分の目にある梁が見えずに、どうして兄弟に、『兄弟。あなたの目のちりを取らせてください』と言えますか。偽善者たち。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうしてこそ、兄弟の目のちりがはっきり見えて、取りのけることができるのです。"
ルカの福音書 6章 42節
神が使徒に預けた油注ぎを地域教会の門である牧師が使徒から受け取り、門の中にいる聖徒たちが牧師から受けとり、地域教会が強くなって、その地域において神の御国の力が拡大することを敵が大歓迎して喜ぶのだろうか?敵はなんの妨害もせずにおとなしく黙って待っているだろうか?……📖"私があなたがたに会いたいと切に望むのは、御霊の賜物をいくらかでもあなたがたに分けて、あなたがたを強くしたいからです。"
ローマ人への手紙 1章 11節
神が使徒たちに与えた権威を牧師たちに認めてほしいと願うのであれば……まず使徒たちが、牧師たちの権威を認めて尊敬してへりくだらなければならない。……📖"与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。"
ルカの福音書 6章 38節
……だが……この国において、今のキリストの体の中では、牧師にとって都合の悪い御言葉や真理は牧師が自由自在にかんたんに隠ぺいしたり、封殺したり、ねじ曲げたりできてしまうくらいに牧師だけにあまりにも権威が集中し過ぎているので……非常に大胆不敵な使徒たちも必要だ……
📖"もし私たちが気が狂っているとすれば、それはただ神のためであり、もし正気であるとすれば、それはただあなたがたのためです。"
コリント人への手紙第二 5章 13節
牧師たちをつまずかせてしまうほどに大胆不敵な使徒たちによって……牧師が子どもたちの背たけでは見えず手が届かない高い戸棚に収納してしまっている聖書に書いてある色々な御言葉についての真実について信徒たちの耳が聞く機会を得ることができる。……📖"わざわいだ。律法の専門家たち。おまえたちは知識のかぎを持ち去り、自分も入らず、入ろうとする人々をも妨げたのです。」"
ルカの福音書 11章 52節
"「信じたとき、聖霊を受けましたか」と尋ねると、彼らは、「いいえ、聖霊の与えられることは、聞きもしませんでした」と答えた。"
使徒の働き 19章 2節
"しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。
遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう。"
ローマ人への手紙 10章 14〜15節
📕②新使徒運動(=5役者の回復と活性化)はキリストの体であるエクレシアに必要ないのだろうか?現代は聖書が完成しているので牧師先生さえいれば使徒は必要ない時代なのだろうか?聖書に書かれている使徒たちが最初で最後の使徒たちであり現代に使徒は存在していないのだろうか?
1️⃣【「牧師先生と伝道者」が互いを必要としているように「牧師先生と使徒」も互いを必要としている】
……もしも……キリストの体の中に……伝道者だけしかいなくて牧師先生が1人もいないなら……伝道者によって非常に多くの人々が救われても……バケツでザルに水をいれるようなものであることは牧師先生もほとんどの信徒たちも知っている。
伝道者が新しく収穫した者たちを牧師先生が助け養わなければ、伝道者が収穫した者たちの多くは盗まれ失われて、わずかな者たちしか残らない。
だから、伝道者は救われた者を増加し救われた者たちの〔人数〕〔領域〕を拡大し、牧師先生は救われた者たちを受け入れ植わらせ保ち養い育てる。
伝道者が増加し拡大し広げるように……使徒も増加し拡大する。
伝道者はキリストの体であるエクレシアの中に、救われた者たちを増加し、キリストの体の領地を広げる。
使徒はキリストの体であるエクレシアの中に、以前までは隠されていた奥義を回復させることによってキリストの体の中に新しい知識と知恵と戦略と力を増加し、キリストの体の領地を広げる。
伝道者は救われていなかった者たちを救って取り戻し神の御国を拡大する。
使徒はキリストの体であるエクレシアが無知であったために無力になっていて敵に盗まれ支配されていた領域に真理を輝かせて取り戻し神の御国を拡大する。
……もしも……伝道者が救った者たちを牧師先生が受け入れないなら伝道者が救った者たちのほとんどが盗まれ失われてしまうように……
……もしも……使徒が神から新しく受けた啓示や戦略、知恵、知識、神の御国の力を牧師先生が受け入れようとせずに拒絶し続けて、牧師先生が牧会している信徒たちに教え伝えて共有できるようにして持つことができるようにしないなら、使徒が神から新しく受けた啓示、戦略、知恵、知識の川、新しいぶどう酒は、まるでダムにせきとめられているかのように入ることができなくなるので、ごくわずかな者たちしか飲むことができなくなる。
……だから……奥義が奥義として隠されているべき期間が終わっていて、新しい奥義が真理の光を輝かせる時がすでに来ていても……持たないのであれば……まだ奥義が奥義として隠され続けているかのように……無知な領域は無知な領域のままになってしまうので、敵の支配は続く。無知であるために真理の光が輝いていないのであれば敵の足場は残り続ける。……📖"というのは、持っている者はさらに与えられて豊かになり、持たない者は持っているものまでも取り上げられてしまうからです。"
マタイの福音書 13章 12節
📖"わたしの民は知識がないので滅ぼされる。"
ホセア書 4章 6節
使徒は、キリストの体であるエクレシアにとって〔まだ知られていなかった奥義〕〔まだ持っていなかった奥義〕を新しい啓示として神から直接与えられ最初に受ける初穂であり最初の人だ。
……しかし……
2️⃣【「使徒が最初に神から与えられる新しい啓示とはなんだ?聖書はすでに完成しているのに、新しい啓示を聖書につけたそうとでも言うのか?」と思う方々もおられることだろう】
聖書は完成している。しかし……キリストの体であるエクレシアは完成しているだろうか?
聖書は完成しているが、キリストの体であるエクレシアはまだ成長の途中だ。
聖書は完成していても、キリストの体であるエクレシアはまだ成長の途中であるから、全ての御言葉を〔持つこと〕〔所有すること〕はできない。……📖"この方について、私たちは話すべきことをたくさん持っていますが、あなたがたの耳が鈍くなっているため、説き明かすことが困難です。
あなたがたは年数からすれば教師になっていなければならないにもかかわらず、神のことばの初歩をもう一度だれかに教えてもらう必要があるのです。あなたがたは堅い食物ではなく、乳を必要とするようになっています。
まだ乳ばかり飲んでいるような者はみな、義の教えに通じてはいません。幼子なのです。"
ヘブル人への手紙 5章 11〜13節
主はキリストの体であるエクレシアの成長段階を見ながら1つ1つの奥義を1つずつ開き見せてくださり入らせ飲ませてくださる。
聖書の中には最初から全てがある。しかし、聖書の中には奥義として鍵がかけられている御言葉もある。……人は小学校に入学したとたんに小学校と中学校と高校と大学の授業を受けることができるだろうか……?
小学校に入学したとたんに小学校と中学校と高校と大学の授業を受けることは有益なことだろうか?
小学校に入学したとたんに小学校と中学校と高校と大学の授業を受けさせてもらえたとして、その授業で教えられたこと1つ1つは教えられた者の中に実として残るだろうか?
初代教会にはキリストの体であるエクレシアにとっての小学校と中学校と高校と大学の授業の知識をほとんど全て聖霊によって啓示されていて実を結んでいた。だが、聖霊の啓示が失われた後の世代に持たせ続けることはできなかった。
小学校の授業を終えていなければ、中学校には入れない。
中学校の授業を終えていなければ高校には入れない。
しかし、小学校の授業をまだ終えていない時からすでに、中学校の建物と中学校の授業は用意されているし、高校の建物と高校の授業も用意されている。
キリストの体であるエクレシアが、まだ小学校の学びをしている時代にも、聖書の中には中学校の学びも高校の学びも大学の学びも全て最初からあるが……鍵がかけられていて、見ることも聞くことも触れることも入ることも飲むこともできない。
聖書の文字として見ることはできるし、言葉として聞くこともできるが……鍵がかけられて閉じられているので、聞いて見て悟ることができないので実を結ぶことができない。……📖"みことばの戸が開くと、光が差し込み、わきまえのない者に悟りを与えます。"
詩篇 119篇 130節
キリストの体が小学校の学びを終えた時に〔中学校の扉を開く鍵〕〔次の奥義を開く鍵となる啓示〕を神は牧師ではなく、預言者でもなく、教師でもなく、伝道者でもなく、使徒に預ける。
使徒は聖書に書いていない新しい教えをつくったり、追加するのではなくて、〔聖書に書いてはあるが、キリストの体が見ていても聞いていても悟れなかった御言葉〕〔奥義〕を解き明かして〔預言のみことば〕〔明けの明星〕として上らせ光り輝かせてキリストの体に相続させることができる。
1500年代に
『行いではなく信仰によって救われる(=信仰義認)』という御言葉の真理が明けの明星となって、キリストの体に上った時に、ルーテル派がはじまった。
1600年代に
『神の家族の一員とされる(=水のバプテスマ)』という御言葉の真理が明けの明星となって、キリストの体に上った時に、バプテスト派がはじまった。
1700年代に
『キリスト者としてふさわしい聖い行いの実を結ぶ(=キリスト者の生きた証しの力と御霊の9つの実)』という御言葉の真理が明けの明星となってキリストの体に上った時に、メソジスト派がはじまり、次に、ホーリネス派がはじまった。
1900年代に
『異言と癒しと奇跡(=神の国はことばにはなく、力にある)』という御言葉の真理が明けの明星となってキリストの体に上った時に、聖霊派がはじまった。
📖"キリストが父なる神から誉れと栄光をお受けになったとき、おごそかな、栄光の神から、こういう御声がかかりました。「これはわたしの愛する子、わたしの喜ぶ者である。」
私たちは聖なる山で主イエスとともにいたので、天からかかったこの御声を、自分自身で聞いたのです。
また、私たちは、さらに確かな預言のみことばを持っています。夜明けとなって、明けの明星があなたがたの心の中に上るまでは、暗い所を照らすともしびとして、それに目を留めているとよいのです。
それには何よりも次のことを知っていなければいけません。すなわち、聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない、ということです。
なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。"
ペテロの手紙第二 1章 17〜21節
📕①「2000年代より前の日本のエクレシア」と「2000年代から後の日本のエクレシア」
ルーテルは
『1500年代』(1517年)にスタートした
バプテストは
『1600年代』(1612年)にスタートした。
メソジストは
『1700年代』(1728年)にスタートした。
ホーリネスは
『1800年代』(1867年)にスタートした。
人は……1年がたつと1年生から2年生になり、さらに1年たつと、3年生になるのだが……
……キリストの体においては……
1500年代には……
『行いではなく信仰によって救われる(=信仰義認)』の学校に入学するかのように新しいこと(ルーテル)がはじまり……
1600年代には……
『神の家族の一員とされる(=水のバプテスマ)』の学校に入学するかのように新しいこと(バプテスト)がはじまり……
1700年代には……
『キリスト者としてふさわしい聖い行いの実を結ぶ(=キリスト者の生きた証しの力と御霊の9つの実)』の学校に入学するかのように新しいこと(メソジスト)がはじまり……
1800年代には……
『キリスト者としてふさわしい聖い行いの実を結ぶ(=キリスト者の生きた証しの力と御霊の9つの実)』の学校の2年目(ホーリネス)がはじまり……
1900年代には……
『異言と癒しと奇跡(=神の国はことばにはなく、力にある)』の学校に入学するかのように新しいこと(聖霊派)がはじまった……
人の節目は1年であり……1年で1歳となり2年で2歳となるのだが……
これまでのキリストの体の節目が約100年であったことを見ると……キリストの体は100年で1歳……200年で2歳……なのかもしれない。……だとすると今は2025年だから……神の目からは20歳の節目にある時なのかもしれない……
キリストの体の節目は90年とか50年とか10年ではないのは……10年後や50年後や90年後ならほとんどの人が生きているが100年後なら、1歳だった者も、この地上にはほとんどいなくなるような節目だからなのかもしれない。
キリストの体において、これまでの約100年という区切りにはいつも新しい教団教派がはじまるほどの非常に大きな節目になっていることから……100年で1歳と数えるのであれば……今、キリストの体は2000年代の中にあるので……20歳になっているのではないだろうか……だから……日本のエクレシアの2000年代より前と、2000年代から後では……色々と非常に大きく変化してきているのではないだろうか?
日本のエクレシアが2000年代に入ってから…………日本のエクレシアの牧師先生たちや霊的リーダーたちに信徒たちを羊や幼子ではなく20歳になった者のように扱うことを要求しはじめる〔声〕〔教え〕〔啓示〕〔悟り〕〔覚醒〕〔餓え渇き〕〔メッセージ〕〔導き〕〔流れ〕〔叫び〕がインターネットやあちらこちらで徐々に増えて強くなってきているのは偶然だろうか?……📖"「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。』」"
マタイの福音書 3章 3節
2000年代になる前は……牧師先生や霊的リーダーたちは信徒たちに「あなたたちにはまだはやい」……「こどもは知らなくてもよいことだ」と言って幼い信徒たちの耳を大人の大きな手でふさいで聴けなくすることができていたが……
2000年代になってからは……どんなに信徒たちのためを思って聞いてほしくないことを聞かせないように、どうにかして耳をふさいで聴けなくしようとしても、今はインターネットがあるので、牧師先生や霊的リーダーの手は信徒の耳をふさぐにはあまりにも小さすぎて、聴けなくすることはもはやできなくなっているのは偶然なのだろうか?
2000年代になってから……牧師先生たちや霊的リーダーたちは、信徒たちをこどもあつかいせず、見下さず、対等の者として尊敬しなければならないというメッセージが色々な方法でキリストの体に語られ、啓示されはじめているのは偶然なのだろうか?
2000年代になってから……信徒たちが、自分たちの親のような牧師先生の教会にほとんど誰も行くことができない長い長い期間があったので……多くの牧師先生たちはインターネットによって信徒たちを助けた。……まるで……神が信徒たちを任せ預けていた牧師先生から強制的に引きはなして、信徒たちにひとり暮らしをさせておられたかのような長い長い期間……『ひとり暮らしをしている子たち』に『親が手紙や食物を贈る』ように……牧師先生はインターネットという手紙や郵便で信徒を養うメッセージを送ることになったのは偶然なのだろうか?
2000年代になってから……「迷える羊」よりも「キリストの花嫁」ということばやメッセージや歌を聴く機会が急増しているのは偶然なのだろうか?
2000年代になってから……主は「ハンナがサムエルにしたように、牧師先生や霊的リーダーに神が預けておられる信徒たちを、わたしのところに来させなさい」と語っておられるのではないだろうか?
📖"それゆえ、人はその父と母を離れ、
ふたりは一体となるのです。それで、もはやふたりではなく、ひとりなのです。"
マルコの福音書 10章 7〜8節
📖"「この子が乳離れし、私がこの子を連れて行き、この子が主の御顔を拝し、いつまでも、そこにとどまるようになるまでは」と言って、上って行かなかった。
夫のエルカナは彼女に言った。「あなたの良いと思うようにしなさい。この子が乳離れするまで待ちなさい。ただ、主のおことばのとおりになるように。」こうしてこの女は、とどまって、その子が乳離れするまで乳を飲ませた。
その子が乳離れしたとき、彼女は雄牛三頭、小麦粉一エパ、ぶどう酒の皮袋一つを携え、その子を連れ上り、シロの主の宮に連れて行った。"
サムエル記第一 1章 22〜24節
📖"『神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、"
使徒の働き 2章 17節
📖"あなたがたは、みながかわるがわる預言できるのであって、すべての人が学ぶことができ、すべての人が勧めを受けることができるのです。"
コリント人への手紙第一 14章 31節
📖"ですから、私たちは、キリストについての初歩の教えをあとにして、成熟を目ざして進もうではありませんか。"
ヘブル人への手紙 6章 1節
📖"基礎的なことを再びやり直したりしないようにしましょう。
神がお許しになるならば、私たちはそうすべきです。"
ヘブル人への手紙 6章 2〜3節
②🗒️「地の塩になるとはどういうことなのか」🗒️ショートメッセージ
『"あなたがたは、地の塩です。"(マタイの福音書 5章 13節)』……と聖書に書いてあることばを実行するとはどうすることなのだろうか?
もしかしたら、地の塩について以下のように考えている人がいるかもしれない。
「塩は聖さのことであり、人々から潔癖で近よりがたく思われようと、人々に嫌がられ避けられるようなことになろうとも、主を第一とし、神の国と神の義を第一にし続け、孤立することになろうと迫害されることになろうと、世的なことや世的な人々となるべくかかわらないようにして聖さを保つことが地の塩になること」
……なのだろうか?
……だったら何故……『"自分自身のうちに塩けを保ちなさい。そして、互いに和合して暮らしなさい。"(マルコの福音書 9章 50節)』……と聖書に書いてあるのだろうか?
接点がなくて和合することができるだろうか?和合ということであるなら、接点があるということではないだろうか?
塩が食物と遠く離れたところに分けておいてあっても、塩から遠く離れた食物にたいして塩の〔効果〕〔作用〕を期待することができるだろうか?
「塩け」ということばは「塩辛い」ではなく「ほどよい塩加減」ということなのではないだろうか?
聖書には……『"イエスが家で食事の席に着いておられるとき、見よ、取税人や罪人が大ぜい来て、イエスやその弟子たちといっしょに食卓に着いていた。"(マタイの福音書 9章 10節)』……と書いてある。
大ぜいの取税人や大ぜいの罪人たちは誰ひとりとして1度も下品な冗談をひとことも言わなかったのだろうか?
初対面の時からイエス様があまりに神々しくて誰ひとりとして下品な冗談などとても言うことができなかった……のだろうか?
食卓で誰かが下品な冗談を言った瞬間に、イエス様は『"黙れ、静まれ"(マルコの福音書 4章 39節)』と言ったのだろうか?『"引き下がれ、サタン"(マタイの福音書 4章 10節)』とか『"下がれ。サタン"(マタイの福音書 16章 23節)とか言っただろうか?
地の塩になるとは……あまりにも塩辛すぎて、この世の人々に避けられるような人になることなのだろうか?
地の塩になるとは……世的な人々を塩で追い払う人のことなのだろうか?
地の塩になるとは……自分のまわりに塩の城壁を築き上げることなのだろうか?
地の塩になるとは……自分の外ではなく、自分自身のうちに塩けを保つことだと聖書は語っていないだろうか?
"すべては、火によって、塩けをつけられるのです。
塩は、ききめのあるものです。しかし、もし塩に塩けがなくなったら、何によって塩けを取り戻せましょう。あなたがたは、自分自身のうちに塩けを保ちなさい。そして、互いに和合して暮らしなさい。」"
マルコの福音書 9章 49〜50節
①🗒️「花婿を出迎えようとした5人の愚かな娘は何故、油が足りなかったのか」🗒️ショートメッセージ
「1度、救われたら誰ひとりとして絶対に救いを失うことはない」……といったメッセージをインターネットの中で、見聞きすることがあるが……1度救われて神の子とされた者はどんな例外もなく全員が新しい天と新しい地で永遠に主と共に生きることができる……ということだろうか?
救いを絶対に失わないと教えておられる方々は花婿を出迎える十人の娘の話しはどのように解釈しておられるのだろうか?
"そこで、天の御国は、たとえて言えば、それぞれがともしびを持って、花婿を出迎える十人の娘のようです。"
マタイの福音書 25章 1節
"ところが愚かな娘たちは、賢い娘たちに言った。『油を少し私たちに分けてください。私たちのともしびは消えそうです。』"
マタイの福音書 25章 8節
この油の足りない5人の娘は救われたクリスチャンではないのなら、どうして、賢い5人の娘と同じ場所で花婿を待つことができるだろうか。
この油の足りない5人の娘は……イエスキリストを主と告白していて、毎週教会に行き、牧師先生のメッセージを聞き、クリスチャンとして生きている人たちの例えなのではないだろうか?
……なのに……何故、花婿との婚礼の祝宴に入ることができなかったのだろうか?
何故、油がわずかしかなかったのだろうか?
この油の足りない5人の娘はキリスト教という宗教をしていただけで、聖霊様との交わりがなかったからなのではないだろうか?
この油の足りない5人の娘たちにも、油はわずかにあったが、そのわずかな油は自分が聖霊様と交わる中で受けた油ではなく、聖霊様と交わっている牧師先生や誰かから流れてきた油……もっといえば……油でベトベトの人と接して付着したわずかな油……のようなものだったのではないだろうか?
だからさいごのさいごのギリギリの時になっても『油を少し私たちに分けてください。私たちのともしびは消えそうです。』……と言って依存して油をもらおうとしているのではないだろうか?
油が足りなかった5人の娘のように、聖霊様との交わりがなくてもマニュアルさえあればキリスト教という宗教をすることはできる。
"彼らが、わたしを拝んでも、むだなことである。人間の教えを、教えとして教えるだけだから。』"
マルコの福音書 7章 7節
"神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。"
ローマ人への手紙 8章 14節
"ところが愚かな娘たちは、賢い娘たちに言った。『油を少し私たちに分けてください。私たちのともしびは消えそうです。』
しかし、賢い娘たちは答えて言った。『いいえ、あなたがたに分けてあげるにはとうてい足りません。それよりも店に行って、自分のをお買いなさい。』
そこで、買いに行くと、その間に花婿が来た。用意のできていた娘たちは、彼といっしょに婚礼の祝宴に行き、戸がしめられた。
そのあとで、ほかの娘たちも来て、『ご主人さま、ご主人さま。あけてください』と言った。
しかし、彼は答えて、『確かなところ、私はあなたがたを知りません』と言った。"
マタイの福音書 25章 8〜12節