シャロームを所有する

私は預言の賜物の回復を願っている。しかし私は預言の賜物を否定する方々を心から尊敬し感謝している。私が預言の賜物を熱心に求めて聖書に従うためなら…私は預言の賜物を否定する方々を不満に思い…全て感謝せよと語る聖書に逆らってよいだろうか?預言を認める牧師先生だけ尊敬し…預言の賜物を否定する牧師先生含む5役者や教団教派の方々を尊敬せず…互いに尊敬しなさいと語る聖書に逆らってよいだろうか?自分が建てたい御言葉を建て上げるために他の御言葉を壊してできた砂の上に自分が建てたい御言葉を建て上げ…家を建ててよいのだろうか?

⑦シャロームの回復【全てのことを神に感謝することができていない理由】

1️⃣『全て神に感謝』

「全てのことについて神に感謝すること」は「神の命令」であり「聖書の要求」であり「神の御心」であることは多くの人々がすでに知っている。……だから、神を愛し神に従順したいと強く願う人々は「全てのことについて感謝すること」ができるようになろうと大いに努力している。……📖"すべての事について、感謝しなさい。"
テサロニケ人への手紙第一 5章 18節

……しかし……ほとんど誰も「過去現在含む全てのことについて感謝」できるようになることはできていない。……努力が足りないからだろうか?……心身が弱ったり病気になるほどに努力している人たちもおられるのだから努力が足りないことが原因であるとは思えない。……しかし……努力が足りていようとも……もし……『鍵』を持っていなかったら……誰が家に入ることができるのだろうか……

📖"知識のかぎ"
ルカの福音書 11章 52節

📖"私は、彼らが神に対して熱心であることをあかしします。しかし、その熱心は知識に基づくものではありません。"
ローマ人への手紙 10章 2節

📖"熱心だけで知識のないのはよくない。急ぎ足の者はつまずく。"
箴言 19章 2節

2️⃣『入れない』

『鍵』がないのであれば誰であろうとも、どんなに心身が弱り病気になるほどに努力し続けていようとも……家に入ることができないことはほとんどの人が知っていることだ。……しかし……「全てのことについて感謝できる」という家に入ろうとどんなに努力し続けていても『鍵を持たない者は誰も入ることができないこと』についてはあまり知られていないのかもしれない……

「全てのことについて感謝できること」は「神の御心」であるだけではなくて……『神の祝福』であるから……「鍵」を持たない者はどんなに努力し続けていても「全てのことに感謝できる祝福」の中に入ることはできない。

……しかし……「全てのことについて感謝すること」が「神の命令」であることは理解していても……「全てのことについて感謝できること」が「神の祝福」であることを理解していない人々が多いのかもしれない。……『鍵』を持っていないままで努力によって、どうにかして「全てのことについて感謝」できるようになろうとすることは……「全てのことについて感謝できる祝福」の「ドア」「門」に入るための鍵を持っていないにもかかわらず努力によって「ドア」「門」を無理やりに開いて入ろうとしていることと同じようなことであるから……鍵を持っていないにもかかわらず「家」「ドア」「門」に入ろうとしている「どろぼう」「強盗」「盗人」と同じようなことをしてしまっていることにならないだろうか……

📖"門から入らないで、ほかの所を乗り越えて来る者は、盗人で強盗です。"
ヨハネ福音書 10章 1節

3️⃣『全て感謝の鍵』

「全てのことについて感謝できる」ようになることは「神の御心」「神の命令」「聖書の要求」であるだけでなく、「全てのことについて感謝できる」ようになることは『神の祝福』だ。「全てのことについて感謝できるようになる祝福の所有者」=「シャロームの所有者」になることができる『鍵』は「全ての人を尊敬すること」だ。

📖"尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。"
ローマ人への手紙 12章 10節

4️⃣『ドア』

「全てのことについて感謝できるようになる祝福」だけではなくて……その他のありとあらゆる祝福の中に、全ての人々が招かれている。……しかし……ありとあらゆる「神の祝福」の中に誰でも入ることができているわけではない。

「神の祝福」には無条件で与えられる祝福(=恵み)と、条件(=鍵)が要求される条件付(=鍵付)の祝福がある。……と言えば理解しやすいのかもしれない。……しかし……「鍵付の祝福」という表現は……やや不正確で事実からずれた表現になってしまっている。……何故なら……「条件付の祝福」とか「鍵付の祝福」と言っても……神が祝福の家のドアを、鍵がないと開くことができないように閉じて、鍵付のドアにしたのではないからだ。

5️⃣『開かれたドア』

神はありとあらゆる祝福の中に入ることができるようにイエスキリストの十字架によって全ての祝福のドアを開いてくださっていて……神は全ての祝福をすでに与えてくださっていることについて聖書に……"神はキリストにあって、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。"……と書いてある。

……しかし……人は神が開いてくださったありとあらゆる『祝福のドアを閉じる選択』をすることができる。……だから……「鍵付の祝福」と表現すると……まるで 神が鍵をかけたような錯覚を与えてしまいかねない。「鍵付の祝福」とは「神が開いてくださっていた祝福のドアを自らの手で閉じて鍵付にしてしまっている祝福のドア」であるのだから……

6️⃣『選択』

神は全ての人に『神のシャローム』を与えるために、イエスキリストの十字架によって……全ての人が『神のシャローム』の中に入ることができるようにドアを開いてくださった。……「神のシャローム」の家の中に『神のシャロームの祝福』があり……『神のシャロームの祝福』の中に「全てのことについて感謝できるようになる祝福」も含まれている。

……しかし……『誰かを尊敬しないこと』によって……「全てのことに感謝できるようになる祝福」を含んでいる『神のシャロームの祝福』の中に入ることができるように神がイエスキリストの十字架によって開いてくださっていたドアを……『再び閉じて鍵をかけてしまうこと』ができる。

「誰かのことを尊敬しないという選択」は……『その尊敬できない誰かについて神に感謝しないという選択』であるから……「全てのことについて神に感謝しなさいと語る聖書の要求を拒絶するという選択」であるため……「誰かを尊敬しないという選択をすること」は『神のシャロームを拒絶する選択』をしていることになる。

……神のシャロームに同意せずに拒絶している者はどんなに努力し続けていても「全てのことについて感謝できる祝福」の家の中に入ることができない。

「神のシャロームを拒絶するなんてことは絶対にしていない」……と思う方々は多いかもしれない。しかし……「神のシャロームを拒絶するなんてことは絶対にしていない」ということばは正確な表現ではない。「神のシャロームを拒絶するなんてことは絶対にしていない」……のではなくて……「神のシャロームを拒絶するなんてことは絶対にしたくない」……と非常に強く願ってはいるものの拒絶を選択している……

📖"口では言いますが、行いでは否定しています。"
テトスへの手紙 1章 16節

神のシャロームを求め願わないクリスチャンはほとんどいないように、神の赦しを求め願わないクリスチャンもほとんどいないだろう……しかし……聖書には……"人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません。"……と書いてある。『神が与えた赦しの恵みを神が取り去ってしまうことはない』が……「誰かを赦さない選択」によって……『神が与えてくださった赦しを拒絶してしまうこと』はできる。

📖"あなたがたの咎が、これを追い払い、あなたがたの罪が、この良い物を拒んだのだ。"
エレミヤ書 5章 25節

📖"もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。
しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません。"
マタイの福音書 6章 14〜15節

7️⃣『尊敬』

もしかしたら……「尊敬できない誰か」がいたとしても「全てのことを神に感謝すること」はできると思っている人たちがいるかもしれない。私も「誰かを尊敬しないこと」と「神に全てのことを感謝すること」は同時に両立できることだと思っていた時期がある。……しかし……「誰かを尊敬しないこと」と「神に全てのことを感謝すること」は両立できない。「尊敬できない誰かが1人でもいる」なら「神に全てのことを感謝すること」はできていない。何故なら、「尊敬できていない人」は「赦せていない人」であり、「貴方がなんらかの不満や怒りを感じずにはいられない人」であるから……不満や怒りを感じている人が1人でもいるのであれば……「神に全てのことについて感謝できている」と言うことはできないことになる。……神に非常に多くのことで感謝していたとしても『感謝に1つでも欠けがある』のであれば……「全て」ではないことになるからだ。

それでもなお「尊敬できない人」や「赦せない人」がいても神に全てのことを感謝することはできると思い続ける人がいるかもしれない。私も尊敬できない人を見下していながら全てのことについて神に感謝することはできていると思っていた時期がある。尊敬できない人を見下しながら神に感謝していた私の感謝の名前は『優越感』だ。……私は「優越感」という甘い酒に酔い浸りながら心から神に感謝していた。確かに心から神に感謝していた。感謝している演技をしていたのではなくて心から神に感謝していた。……しかし……私の「優越感」がどこから来ていたかといえば……私の「高ぶり」や「傲慢」から来ていた。そんな黒く濁って腐敗した水のような感謝の祈りを神に捧げていながら「私は神に全てのことについて感謝できている」と心から思っていた私は……"神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。"と祈ったパリサイ人となにがどうちがうと言えるのだろうか……

そもそも誰かを尊敬できていない人の賛美についてはっきりと聖書にこう書いてある。……📖"私たちは、舌をもって、主であり父である方をほめたたえ、同じ舌をもって、神にかたどって造られた人をのろいます。
賛美とのろいが同じ口から出て来るのです。私の兄弟たち。このようなことは、あってはなりません。"……"神にかたどって造られた人"……とは誰のことだろうか……「自分自身」と「全ての人」だ。

……もしかしたら……私の知識が不足していて……「尊敬できない人」や「赦せない人」がいても神に全てのことを感謝することは可能なことなのに不可能なことだと私が勝手に思い込んでしまっているだけなのかもしれない……

世界のどこか……日本のどこかに……「尊敬できない人」や「赦せない人」はいるものの……全てのことを神に感謝することを実行できている人が何人かいるかもしれない。

……しかし……聖書には……"尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。"……とも書いてある。

「尊敬できない人」や「赦せない人」はいるものの、全てのことを神に感謝することが実行できている方々は……"尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。"……と書いてある聖書の御言葉を実行できているだろうか?

8️⃣『自分よりまさっている』

「勝手きままに多くの人を殺した者をいったいどうやって尊敬しろと言うのか?」……と思う方々がおられるかもしれない。……勝手きままに多くの人を殺した者は……何故……勝手きままに多くの人を殺したのだろうか?……パンを盗んだ者は何故パンを盗んだのだろうか?あまりにも空腹だからだろう……「あまりにも空腹な時にも私は盗んだりなんてしなかった」……と思う方々もいるだろう……しかし……貴方がそう思えるのは、貴方がそう思える貴方になることができるきっかけやなんらかの恵みがあったからだ。

📖"神の恵みによって、私は今の私になりました。"
コリント人への手紙第一 15章 10節

……空腹だけではなくて……その人がうまれた家にうまれ、その人が生きた人生と全く同じ人生を生き続けたとしても……パンを盗まない……勝手きままに多くの人を殺したりなんてしない……などといったことをいったい誰が言うことができるだろうか?過去に戻って将来犯罪者となる赤子の体に貴方の霊と魂を入れても貴方が犯罪者にならないかどうかを知っておられるのは神だけだ。……だから……私は……「もし私がこの人と全く同じ環境の中で全く同じ日々を生きることになっていたら……私はこの人よりもさらに悪いことを、この人よりもさらにたくさんしてしまっていたにちがいない」……と思うことによって……"尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。"……と書いてある聖書のことばを実行することを選択する。

📖"何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。
自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。"
ピリピ人への手紙 2章 3〜4節

"尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。"
ローマ人への手紙 12章 10節

"すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。"
テサロニケ人への手紙第一 5章 18節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会

 

⑥シャロームの回復【私は『主の臨在』という1つの点を求めている】【主の臨在のドアを開くことができるダビデの幕屋を求めている私の旅路という大きな円{◯}の中心には『主の臨在』という1つの点{・}があり、『主の臨在』という1つの点に向かう1つの直線{―}の中にはいくつかの点{....}がある】

 

私が聖霊に満たされて異言を語るようになって以降……神の臨在の現れを何度も何度も実体験するようになった……中でも私の内側に「下から上にわき上がりのぼり続ける泉のような上昇気流」が感じられる臨在は私が最も好む「臨在の現れ」の1つで、1度体験してしまうと……もう1度体験したいと求めずにはいられないほどに中毒性が非常に強い……霊肉魂に非常に悪影響を与えるものにも中毒性はあるが、非常に良いものにも中毒性はある。……聖書にこう書いてある……"また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。"
エペソ人への手紙 5章 18節

私は臨在を追い求め続け、待ち望み続けた。

待ち望む期間は徐々に長くなったが、待ち望む期間が長いと前よりももっと深い臨在に満たされた。

そのような体験を歩いた私の求めは「主の臨在」になった。

私が聖霊に満たされて異言を語るようになって以降、「主の臨在」を求める旅路がはじまった。

「主の臨在」を求める私の旅路の初期はヤコブのように他者をおしのけてでも「主の臨在」を得たいという願いに激しく満たされていた。

しかし、いつだったか思い出すことはできないが、あのこと、このこと、色々なことがあって、いつの間にか、私が臨在を体験できることは非常に感謝だが……「主の臨在を私が受けるよりも他者が主の臨在を受けることができるドアを開きたい」……そのようなことをうっすらと願うようになっていた頃に……「霊の歌」=「テヒーラ」がドアを開くことができると知り……私は「主の臨在のドアを開くことができる霊の歌(=テヒーラ)」を求めるようになった……

「主の臨在のドアを開くことができる霊の歌(=テヒーラ)」を求め歌い続ける日々を過ごしていると……私の歌唱力をこえている私の歌ではない歌……私のメロディーではないメロディー……私のリズムではないリズム……が川のように流れるようになり……私の選曲ではない賛美のメロディーが流れ……流れるままに私が選曲したのではない賛美をひととおり歌うと……私が選曲したのではない次の賛美のメロディーが流れだし……「ああ……このメロディーも知っている……このメロディーはあの有名な賛美のメロディーだ……」……と思い……歌う……そして……「ああこんなに流れるように次々に賛美できるなら……何時間でも賛美できるかもしれないし、ダビデの幕屋のように賛美し続けることができるかもしれない……」……と思った……

そして、この時から「ダビデの幕屋」を求め続ける旅路がはじまった。

そして、「ダビデの幕屋」を求め続ける旅路を何年も歩き続け、「ダビデの幕屋」も「主の臨在」も私の1番の求めではなくなり、「イザヤ書の賛美の外套の回復」「キリストの体が互いに尊敬し互いに教え合い互いに教えられ合うことができるようになることの回復」……色々なことを求めるようになり……

あなたの求めビジョンはどんなことですか?と質問されたら、「ダビデの幕屋」と言えばいいのか……「キリストの体が互いに尊敬し教え合うことの回復」と言えばいいのか……「海外に存在している現代の使徒たちの教えを拒み鎖国している現状が解かれること」と言えばいいのか……「知恵のことばの賜物、知識のことばの賜物、預言の賜物の回復」と言えばいいのか……あれもこれもと1つ1つ言えばいいのか……と思っていたが……

今、あなたの求めビジョンはどのようなことですか?と質問されたら私は「ダビデの幕屋」と返答することができる。

私は1つのことを求めている……「主の臨在」を求めている。だから私は「主の臨在のドアを開くことができるダビデの幕屋」を求めている。

私が主に「主の臨在」を求めたので、主は「ダビデの幕屋」を求めるように導いてくださった。

私が「主の臨在」を求めて「主の臨在」という「1つの点」に向かって歩きはじめた時、「霊の歌」という点に導き、「霊の歌」という点から「ダビデの幕屋」という点に導き、「ダビデの幕屋」という点から「賛美の外套」という点に導き「賛美の外套」という点から「互いに教え合うことの回復」という点や「知恵のことばの賜物、知識のことばの賜物、預言の賜物の回復」という点や「現代の使徒たちの教えを鎖国している現状からの回復」という点……その他にも色々な点に導いてくださった。……これら1つ1つの点は「主の臨在」という1つの点に向かう1つの直線であり……「主の臨在」という1つの点に向かう1つの直線は「ダビデの幕屋」という円の中にある。

ダビデの幕屋」という絵の中に、私が求めているあのことも、このことも、あの点もこの点も全てが含まれている。

私が1つの点であるかのように思っていた「ダビデの幕屋」は大きな円だった。

私は主に1つのことを求めた……私は「主の臨在」を求め……「主の臨在のドアが開かれること」を求めた……

「主の臨在のドアが開かれること」を求めた私に主は「ダビデの幕屋」を求めさせるために、私に「霊の歌(=テヒーラ)」を求めさせ……「ダビデの幕屋」を求めるようになった私に「ダビデの幕屋」を実現させるために必要なあのこと、このことを求めるように導いてくださった。

私の願い求めビジョンは1つだ。私は「主の臨在」を願っているので「主の臨在のドアを開くことができるダビデの幕屋」を求めている。

あのことも、このことも、あの求めも、この求めも……「主の臨在のドアを開くことができるダビデの幕屋」を求める旅路の通過点でありプロセスであり……「主の臨在のドアを開くことができるダビデの幕屋」の材料、器具であることを私は知ることができた。

……私は『主の臨在』という1つの点を求めている……

……主の臨在のドアを開くことができるダビデの幕屋を求めている私の旅路という大きな円{◯}の中心には『主の臨在』という1つの点{・}があり、『主の臨在』という1つの点に向かう1つの直線{―}の中にはいくつかの点{....}がある……

"あなたのパンを水の上に投げよ。ずっと後の日になって、あなたはそれを見いだそう。"
伝道者の書 11章 1節
"あなたは妊婦の胎内の骨々のことと同様、風の道がどのようなものかを知らない。そのように、あなたはいっさいを行われる神のみわざを知らない。
朝のうちにあなたの種を蒔け。夕方も手を放してはいけない。あなたは、あれか、これか、どこで成功するのか、知らないからだ。二つとも同じようにうまくいくかもわからない。"
伝道者の書 11章 5〜6節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会

⑤シャロームの回復 1️⃣【「使徒」は預言者、伝道者、牧師、教師にまさっていないし、おとってもいない】 2️⃣【預言者とも伝道者とも牧師とも教師ともちがう使徒を使徒たらしめる使徒にしかできない働き】

多くのクリスチャンが「使徒」とは「世界的な器」だと思っている。だから多くの国々で世界的な働きをしておられる「世界的な牧師」は「使徒」であると思っておられる方々が多い。……そして……「世界的な器」は「使徒」であるから「世界的な牧師」は「使徒的な牧師」であり、「使徒的な牧師」とは「使徒」であると思っておられる方々が多い。しかし、多くの国々で世界的な働きをしている「牧師」は「世界的な牧師」ではあるが「使徒」ではない。

 

1️⃣【「使徒」は預言者、伝道者、牧師、教師にまさっていないし、おとってもいない】

世界的で使徒的な預言者は『使徒』で、世界的で使徒的な伝道者も『使徒』で、世界的で使徒的な牧師も『使徒』で、世界的で使徒的な教師も『使徒』であるのなら……世界的で使徒的な使徒はどうなるのだろうか?

もしも「世界的な使徒」「使徒的な使徒」が存在せず、「世界的で使徒的な預言者」と「世界的で使徒的な伝道者」と「世界的で使徒的な牧師」と「世界的で使徒的な教師」しか存在しないのであれば……5役者ではなく4役者ということにならないだろうか……?

聖書には千人の長、百人の長、五十人の長、十人の長と書いてある。

現代のキリストの体の中にも、千人の長である牧師もいれば、百人の長である牧師もいれば、五十人の長である牧師もいれば、十人の長である牧師もいるし、現代であれば1万人以上の長である世界的な牧師も存在しているが、1万人以上の長である世界的な牧師になったら「牧師」は「使徒」になるのだろうか?……"神の賜物と召命とは変わることがありません。"……と聖書に書いてある。……牧師は牧師であり……使徒使徒だ。……「使徒」が牧師の働きをする時期を過ごしてから使徒としての働きをするようになることはあるかもしれないが、それは「牧師」が途中から「使徒」になったのではない。「牧師」は「牧師」で「使徒」は「使徒」だ。……"神の賜物と召命とは変わることがありません。"
ローマ人への手紙 11章 29節

働きの規模が世界的になった時に牧師が使徒になるのであれば、使徒使徒たらしめていることは働きの規模や範囲の広さなのだろうか?

働きの規模や範囲の広さが世界的である預言者と伝道者と牧師と教師は「使徒」であると信じている方々は使徒預言者、伝道者、牧師、教師にまさっている存在であり、「使徒」は預言者と伝道者と牧師と教師たちのリーダーだと信じている。……半分正解で半分正解ではない。……「使徒」は預言者と伝道者と牧師と教師にまさっている存在であることは正解だが……預言者と伝道者と牧師と教師が使徒よりおとっているのではなく……使徒預言者、伝道者、牧師、教師におとっている存在であり……預言者も伝道者も牧師も教師も使徒にまさっている存在だ。……使徒預言者、伝道者、牧師、教師は互いにまさっていて互いにおとっている。……だから5役者が必要だ。……使徒預言者、伝道者、牧師、教師に全てまさっているのなら、使徒という1役者だけでいいことになる。……1人で完全な使徒であり完全な預言者であり完全な伝道者であり、完全な牧師であり、完全な教師であるのはイエスキリストおひとりだけだ。

使徒預言者、伝道者、牧師、教師のリーダーなのではない。使徒預言者、伝道者、牧師、教師に上下関係はない。

使徒預言者、伝道者、牧師、教師のリーダーであるかのように思えているのは、「世界的な預言者」も「世界的な伝道者」も「世界的な牧師」も「世界的な教師」も「使徒」だと思っているからだ。

世界的な預言者も、世界的な伝道者も、世界的な牧師も、世界的な教師も、旧約時代の千人の長のようなものだ。……十人の長は10人のリーダーで、五十人の長は十人の長である5人のリーダーで、百人の長は五十人の長である2人のリーダーで、千人の長は百人の長である10人のリーダーだ。……世界的な預言者、伝道者、牧師、教師といった世界的な器たちは旧約時代の千人の長のような存在であるから、「百人の長である預言者、伝道者、牧師、教師といった器たち」や「五十人の長である器たち」や「十人の長である器たち」のリーダーではある。……しかし、百人の長である器たちのリーダーである千人の長なのは使徒だけではない。……預言者、伝道者、牧師、教師のリーダーは使徒だけだと思っているから、預言者、伝道者、牧師、教師のリーダーである世界的な預言者も世界的な伝道者も世界的な牧師も世界的な教師も「使徒」だと思ってしまっている。預言者、伝道者、牧師、教師たちのリーダーは使徒だけではない。……世界的な使徒だけでなく世界的な預言者も、世界的な伝道者も、世界的な牧師も、世界的な教師も、「預言者、伝道者、牧師、教師たち」のリーダーであり、旧約時代の千人の長のような存在だ。……世界的な使徒預言者、伝道者、牧師、教師といった世界的な器たちは使徒預言者、伝道者、牧師、教師たちを整えたり教えたりすることができる旧約時代の千人の長のようなリーダーたちだ。……使徒だけが預言者、伝道者、牧師、教師たちを整え教えるのではない。

……使徒も世界的な預言者、世界的な伝道者、世界的な牧師、世界的な牧師から教えられ整えられる必要がある存在だ。……使徒預言者、伝道者、牧師、教師の上に置かれている存在ではない……

「世界的な使徒」も「世界的な預言者」も「世界的な伝道者」も「世界的な牧師」も「世界的な教師」も互いに教え合い、互いに教えられ合い、互いによって互いに整えられる必要がある存在であり……「世界的な使徒」「世界的な預言者」「世界的な伝道者」「世界的な牧師」「世界的な教師」は「使徒預言者、伝道者、牧師、教師」を教え整える旧約時代の千人の長のようなリーダーだ。

……では……使徒だけが預言者たち、伝道者たち、牧師たち、教師たちのリーダなのではなくて……「世界的な使徒と世界的な預言者と世界的な伝道者と世界的な牧師と世界的な教師」が「使徒預言者、伝道者、牧師、教師」を教え整える旧約時代の千人の長のようなリーダーであるなら……使徒とは誰なのだろうか……

使徒使徒たらしめることはどのようなことなのだろうか……?

主はどのような働きをさせるためにキリストの体の中に「使徒」を存在させておられるのだろうか?

2️⃣【預言者とも伝道者とも牧師とも教師ともちがう使徒使徒たらしめる使徒にしかできない働き】

預言者とも、伝道者とも、牧師とも、教師ともちがう、使徒使徒たらしめる使徒にしかできない働きは……キリストの体の中でまだ未知であること……世界中で誰も見たことも聞いたことも心に思い浮かんだこともない『新しいムーブメント』の啓示を人からではなく神から直接与えられることだ。……「使徒」は……キリストの体の中でまだ誰も見たことも聞いたことも心に思い浮かんだこともなく未知だった『新しいムーブメント』の啓示を人からではなく神から直接与えられた者……あるいは、聖書の時代やパウロやぺテロの時代にあったけれどもずっと失われてしまっていたことを発見、発掘する者だ。……神がキリストの体に新しいムーブメントを始動させたり……聖書の時代やパウロやぺテロの時代にはあったのにずっと失われ続けていたことを再び始動させる時に……最初に神が語りかけるのは旧約時代のように預言者……ではなくて……伝道者でもなく、牧師でもなく、教師でもない。……神がキリストの体に新しいムーブメントを始動させる時に、神が最初に直接語りかける者は使徒だ。……だから使徒は新約時代の『土台』だ。……"あなたがたは使徒預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。"
エペソ人への手紙 2章 20節

だから「私は使徒だ」と言う人が使徒かどうかが私にわからない場合には、使徒かどうかを確認するために質問する。……『貴方が使徒であるなら、あなたはどのようなムーブメントを始動させた者として世界に知られている人なのですか?』……ぺテロやヨハネといった使徒たちは復活したイエスキリストの福音をイエスキリストから直接聴き人々に伝えた最初の人たちでした。使徒パウロは異邦人の救いについて聖書が語っていることについての啓示と解き明かしを神から直接受け取った最初の人でした。現代においても24時間365日のとりなしの働きを世界で最初に始動させるビジョンの啓示を受けて始動させた使徒が存在しています。その他にも新しいムーブメントを始動させキリストの体を大きく前進させた使徒たちが過去にも現在にも存在しています。『貴方はどのようなムーブメントを始動させることにおいて世界で最初の人になったのですか?』

……そして……世界で最初になんらかの働きを始動させた人でさえあれば誰でも使徒ということにはならない。……国々の多くのクリスチャンたちにすでに知れ渡っている大いなるムーブメントを始動させた最初の人ではないのであれば『使徒』ではない。……始動させた新しいムーブメントが国々のクリスチャンたちに受け取られていて、始動させた新しいムーブメントによってキリストの体が大きく前進したという実がないのであれば使徒ではない。

……しかし……世界で最初に新しいムーブメントの啓示を神から直接受け取った使徒が確かに使徒であったことが誰にも知られることなく……ずっと後になってから確かに使徒だったとわかる場合もある。……使徒が神から直接受け取った新しいムーブメントや新しい働きについて語っても、ほとんど誰も受け取ろうとしない場合があったり……ずっと後になってから、その新しいムーブメントが国々のクリスチャンに受け入れられ、キリストの体が大きく前進する場合もある。……だから、その人が使徒であったことがその人が天に帰って以降に知られるようになる場合もあるし……その人が天に帰って以降も知られない場合もある。……キリストの体の中に既にあるあの働き、この働き、あのような働き、このような働きを世界で最初に始動させたのは誰であったのか……人々にずっと忘れられていて……人々に記憶されていない使徒たちも……使徒としてうまれてきた者たちの中にはいることだろう。……"ところが、その町に、貧しいひとりの知恵ある者がいて、自分の知恵を用いてその町を解放した。しかし、だれもこの貧しい人を記憶しなかった。
私は言う。「知恵は力にまさる。しかし貧しい者の知恵はさげすまれ、彼の言うことも聞かれない。」"
伝道者の書 9章 15〜16節

使徒が神から直接受け取った新しいムーブメントの啓示を人々に語っても聴かれない場合があるのは、使徒は神から直接、新しいムーブメントを始動させることができる啓示を受け取る油注ぎは豊かにあるが……人々にとって「新しい未知の教え」とか「古い既知の教え」を人々に聴かせたり理解させたり理解を深めたりして、新しい教えや既存の教えを広める油注ぎは「使徒」ではなくて「教師」に豊かに与えられている油注ぎであるから、「使徒」が神から直接受け取った世界中のクリスチャンにとってまだ未知の新しいムーブメントの啓示を多くの人々に広めることができない場合もある。

使徒が神から直接受け取った新しいムーブメントの啓示が世界的な新しいムーブメントになるためには、「この新しいムーブメントを私の国でも広めたい」と思うだけでなく広めることができる油注ぎのある「教師」の働きが必要だ。……「世界的な教師」であり「使徒」でもある者なら「世界的な教師」でもある「使徒」が受け取った新しいムーブメントの啓示を「世界的な教師」の油注ぎにより国々に広めることができるが……「牧師」であり「使徒」である者だった場合には、自分が任されている群れの中に広めることしかできない場合もある。

使徒が神から直接啓示された新しいムーブメントについて語っても、賛同する者たちがいなければ、その使徒が置いた新しいムーブメントがどんなにキリストの体を大いに前進させるものだったとしても、数々の非常に素晴らしい建物を建てることができる土台であったとしても、さらちのままという場合もあったり……使徒がわきあがらせた新しい井戸に誰も来ない場合もあり……使徒がわきあがらせた井戸をもう一度誰かが掘り起こす必要がある場合もある。

……"与えられた神の恵みによって、私は賢い建築家のように、土台を据えました。そして、ほかの人がその上に家を建てています。"
コリント人への手紙第一 3章 10節

"あなたがたは使徒預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。"
エペソ人への手紙 2章 20節

"こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。"
エペソ人への手紙 4章 11節

 

④シャロームの回復 『私は使徒だ』と言っている人が『使徒』であるのかを見分ける

「私は使徒だ」と言っておられる方々が何人かおられる。「私は使徒だ」と言っておられる方々が使徒であるかどうか私は知らない。自分のことを使徒だと思っておられる方々が何故、自分が使徒であると思うのかについての理由を色々と私に説明してくれても、使徒なのか使徒ではないのか私にはわからない。現代の使徒なのであれば……自分が使徒であると思う理由について語るのではなくて……まず①『自分以外にも世界中に存在している現代の使徒たちが誰と誰と誰と誰であるのかを私に教えてください』

次に②『現代の使徒たちが何故、現代の使徒と言えるのか、【現代の使徒である方々に共通していて】、【現代の使徒である方々を使徒たらしめていること】がどのようなことであるのかを私に教えてください』

そして③『世界中に存在している現代の使徒たちに共通していて、使徒使徒たらしめていることが貴方にも同じようにあるのか ないのかを私に教えてください』

現代の使徒たちに共通している現代の使徒たちを使徒たらしめていることはどのようなことですか?預言者の働きとも、伝道者の働きとも、牧師の働きとも、教師の働きとも違う使徒使徒たらしめている使徒であるからこその働きはどのようなことですか?現代の使徒はどのような働きのために神がキリストの体の中に存在させておられるのですか?

使徒の定義はなんですか?

 

 

 

③シャロームの回復 【『指導すること』は『カウンセリングすること』ではない】【指導することしか知らない牧師先生の『カウンセリングルーム』は『カウンセリングルーム』ではない】【「指導するために存在している部屋」は「カウンセリングルーム」ではない】

前回のシャロームの回復②で、他者との違いが非常に大切であることを実感させ、理解を深めてくれる【いくらか】有益な『16診断』について書かせていただいた。多くの人々の中にある16タイプの特色について説明してくれている『16診断』について知りたい方は、インターネットで「16診断」ということばを検索すれば、誰でもいつでも手軽に色々と「16診断」について見ることができる。

聖書ほど有益ではないが……16診断や心理学は【いくらか】有益だ。……"肉体の鍛練も【いくらかは】【有益です】が、今のいのちと未来のいのちが約束されている敬虔は、すべてに有益です。"
テモテへの手紙第一 4章 8節

【いくらか】有益な16診断だけでなく、【いくらか】有益な心理学を知れば『指導』が「カウンセリング」ではないことを知ることができる。

もしかしたら多くのクリスチャンの方々が『指導』を「カウンセリング」だと勘違いしてしまっているのかもしれない。

もちろん『指導』は非常に有益なことであり、キリストの体の全体にとって非常に重要な働きであると聖書が語っている。

……しかし……「カウンセリングすること」は『指導すること』ではない。

多くの牧師先生の教会のカウンセリングルームはカウンセリングルームではなくて、「相談室」でもなくて『信徒指導室』と書いてある方が適切であるように思えるような部屋になっている。何故なら多くの牧師先生の教会のカウンセリングルームでなされていることは『指導』であるからだ。もう少し細かく言うなら……「カウンセリングルーム」は最初のしばらくの時間はカウンセリングルームのようになっている。信徒が牧師先生に悩みを話し、相談し、牧師先生が信徒の悩みに耳を傾けて聴いている時間はカウンセリングルームのようになっている。しかし、信徒の悩みを聴き終えた牧師先生が『間違いを正すために』語りはじめる時にカウンセリングルームは『信徒指導室』になっている。そして、カウンセリングルームの目的が『間違いを正し指導すること』であるのなら、カウンセリングルームは最初から『信徒を指導するための部屋』であるということになる。

信徒を指導する部屋で信徒を指導する働きは非常に有益で非常に重要な働きだが……「カウンセリングすること」は「指導すること」ではない。

カウンセリングルームをカウンセリングルームと書かずに日本語で「相談室」と書いていれば、「相談室」と書かれた部屋が「相談室」ではないことに多くのクリスチャンたちが気づけていたかもしれない。ほとんど「相談室」ではなくて「指導室」だが、「指導室」ではなくて「相談室」と思わせ、「カウンセリングしてもらった」と思わせるために「カウンセリングルーム」ということばが選択されているのかもしれない。

……しかし……パワハラがあたりまえではなくなっていて対等な対話ができることを好む世代が昔からの「カウンセリングルーム」での対応を見たら「カウンセリングルーム」ではなくて「パワハラルーム」だと思ったり、あきれたり、失望するかもしれない。

しかし、「カウンセリングルーム」という部屋で牧師先生が信徒が聖書からずれないように指導する「カウンセリングルームでの働き」は非常に有益で非常に重要な働きだ。

もし「カウンセリングルーム」と書かずに、「信徒指導室」と書いてあったとしたら……牧師先生から指導を受けるべきだが指導されることが嫌いな信徒たちは……「牧師先生が指導してくれる部屋」に入ろうとすらしなかっただろう。

「牧師先生が指導してくれる部屋」の名前が「信徒指導室」ではなくて「カウンセリングルーム」であったからこそ……『人から指導されることが大嫌い』な誰かが牧師先生にカウンセリングしてもらおうと思って「カウンセリングルーム」に入り、牧師先生から指導を受け、牧師先生から指導を受けることがいかに有益であるかを深く実感することができるようになった方々もたくさんおられることだろう。

「牧師先生が指導してくれる部屋」の名前を「信徒指導室」とは書かずに「カウンセリングルーム」と書いて多くのクリスチャンが「カウンセリングルーム」に来るようにさせることは土台を安定させ固めることを優先させる必要があったダビデの世代(パワハラがあたりまえだった世代)の時代にはどうしても必要なことだった。

……しかし……カウンセリングを知らず……指導することしか知らない牧師先生たちの教会の「カウンセリングルーム」が「牧師先生から指導を受ける部屋」であることに違和感を感じたり……「いったいこれのどこがカウンセリングなんだ」……「外来語やカタカナでかっこつけたり、それっぽい雰囲気やイメージを演出しようとしているようだが……ろくにカウンセリングの意味を知りすらもしないのか……」と……パワハラがあたりまえではなくなったソロモンの世代たちは思ったり、あきれたり、失望したりするかもしれない……

"父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、のろいでこの地を打ち滅ぼさないためだ。」"
マラキ書 4章 6節

②シャロームの回復 『血液型で人々の4種の特色を見ていたダビデ世代(パワハラがあたりまえだった世代)の時代』から『16診断で人々の16種の特色を見るソロモン世代(パワハラがあたりまえではなくなった世代)の時代』に移り変わる【聖書の御言葉ほどではないが……『いくらか有益な心理学』と『いくらか有益な16診断』】

クリスチャンの中には心理学に警戒したり敵視している方々もいる。キリストの体の全体にとって、心理学を警戒し敵視している方々が存在してくださっていることは非常に重要なことだ。心理学を警戒し敵視している方々は『聖書が最も重要である』というキリストの体にとって基礎的で非常に重要な土台となるメッセージを非常に強く強調する働きをし続けてくださっている方々であり、門番の働きをしてくださっている方々であり、尊敬すべき方々だ。このような門番の働きを担ってくださっておられる方々がいてくださることにより、多くのクリスチャンの方々が聖書からズレず、社会の流れに流されることがないように守られている。

門番の働きを担ってくださっておられる方々は、多くのクリスチャンの方々が聖書からズレたり社会の流れに流されないために主が備えてくださっておられる門番であるから、教会や聖書の外にある心理学や他の色々なことが教会の中に入らないように見張り、クリスチャンの家である教会の外の色々なことに触れたり影響を受けてしまうことがないように教えたり見張ったりしてくださっている方々だ。

安全な家の外に出るのは危険なことだ。安全な家の外を出歩くのであれば警戒することが必要だ。家で出してもらえる食事はほとんど安全であるように……クリスチャンの家である教会で語られる教えはほとんど聖書からずれてはおらず安全だが……家の外に行き、家の中で見たことがないもの、食べたことがないものを食べる場合には警戒しつつ聖書によって吟味することが必要だ。私は教会の外にある色々なことだけでなく、教会の中ですでに多数派の意見になっているようなことでも聖書で吟味する。教会の中ですでに多数派の意見になっているようなことはもう吟味する必要がないと思うだろうか?……聖書にはこのように書いてある……"ここのユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも良い人たちで、非常に熱心にみことばを聞き、はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べた。"
使徒の働き 17章 11節

聖書は「心理学を徹底的に排除せよ」と命じているのだろうか?

心理学を警戒し敵視し門番の働きを担っておられる方々が高くかかげ続けておられる『聖書の御言葉が最も重要で有益である』というメッセージには私は心から同意している。しかし、『聖書に書いていないものは全て不要で無価値で有害である』という言葉に同意しようとは思わない。聖書が同意しているメッセージであれば私は同意するが……聖書が同意していない言葉に私は同意しない。

『聖書に書いていないものは全て不要で無価値で有害である』と信じている方々は、聖書に書いていない食べ物は1つも食べずに、「パン」とか「魚」とか「オリーブオイル」とか聖書に書いてあるものしか食べないのだろうか?そんなことはない。……"イエスは、このように、すべての食物をきよいとされた。"……と聖書に書いてあるので、聖書に書いていない食物を食べることは禁止されていない。聖書は聖書に書いていない食物も認めている。

聖書は聖書に書いていない食物を認めているだけではない。聖書は聖書に書いていない多くの色々なことを認めている。何故なら聖書にこう書いてあるからだ。……"最後に、兄弟たち。すべての真実なこと、すべての誉れあること、すべての正しいこと、すべての清いこと、すべての愛すべきこと、すべての評判の良いこと、そのほか徳と言われること、称賛に値することがあるならば、そのようなことに心を留めなさい。"……このように聖書は、聖書には書かれていない色々なことも認めている。また聖書にはこのようにも書いてある。……"肉体の鍛練も【いくらかは】【有益です】が、今のいのちと未来のいのちが約束されている敬虔は、すべてに有益です。"

『心理学』や『16診断』は、聖書の御言葉ほどには有益ではないが……心理学や16診断はクリスチャンの方々にとっても【いくらか】有益な助けになる。

【いくらか有益】である『16診断』についてはインターネットで「16診断」ということばを検索すればいつでも誰でも手軽に『16診断』について色々と見ることができる。

パワハラがあたりまえだった世代(ダビデの世代)の時代には「【多くのクリスチャンの方々が模範的だと信じている基準を満たしていて基準の枠内からずれていないクリスチャン】=【多くのクリスチャンの目から見て模範的】であるクリスチャンのリーダー、父、母、あの人、この人のようなクリスチャンになりなさい。」と語られ教えられ続けてきているので、模範的なクリスチャンであるリーダー、父、母、あの人、この人と違うことは良くないことだと信じられ理解されていた。そのように信じ理解している人が多ければ多いほど土台は安定する。パワハラがあたりまえだった世代(ダビデの世代)の時代には土台を安定させ固めることが『個性』とか、その他の色々なことよりも優先される必要があった。……神が土台をどれほど重要と見ておられるかは旧約聖書で、神の国をスタートさせようとしておられた神が、どこかの国を選んで神の国をスタートさせたのではなくて、1人の人であるアブラハムを選んで神の国をスタートさせたことを見ればよく理解することができる。1人の人であるアブラハムが1つの国になるまでどれほどの時間と年数がかかるだろうか……しかし……神は土台に時間をかけることを惜しまない。

土台に時間をかけることを惜しまない神は約2000年間、土台となるダビデの世代(パワハラがあたりまえだった世代)に時間をかけ続け……約2000年後になってようやくソロモンの世代(パワハラがあたりまえではなくなった世代)の時を開きはじめておられる。そしてこれからパワハラがあたりまえではなくなったソロモンの世代の時代が約2000年くらい続いて、西暦4000年くらいに主が再臨……などということはないだろう……パワハラがあたりまえではなくなったソロモンの世代が「ぶどう園」で雇われる時間は午後五時であり夕方六時になるたったの1時間前である可能性が高いからだ。……"『この最後の連中は一時間しか働かなかったのに、あなたは私たちと同じにしました。私たちは一日中、労苦と焼けるような暑さを辛抱したのです。』"
マタイの福音書 20章 12節

土台となるダビデの世代(パワハラがあたりまえの世代)の時代には多数のクリスチャンが模範的と認めている模範的なクリスチャンの基準から大きくずれていたり、異なっていたり違うことや『個性』を認めることは土台を弱くしてしまうことになってしまうので非常に厳しく厳重にタブー(立ち入り禁止)とされている必要があった。しかし、土台がほぼ完成しているソロモンの世代(パワハラがあたりまえではなくなった世代)の時代には「多数のクリスチャンが模範的と認めている模範的なクリスチャンの基準から大きくずれている個性や違いはタブー(立ち入り禁止)ではなくなる。……【いくらか有益】である『16診断』について知ることによって、自分自身や他者との色々な違いを見た時に「基準からずれている」とか「有害なこと」と思ったり、ネガティブに感じたり否定することから守られ、自分自身や他者にある違いを見る時にも尊敬や感謝や尊さや「1人1人が神の作品であること」に心と思いを傾けたり実感することができるようになるための有益な助けになる。

神の作品である1人1人の特色を16診断というたったの16の枠で区切り過不足なく語ることはできないが……4つの枠で区切る血液型よりも【いくらか】有益な助けにはなる。

「16診断」ほどではないにしても、パワハラがあたりまえだった世代が知っている「4つの血液型」も、『みなが同じではないこと』をうっすらと思わせる助けにはなっていて、強すぎるパワハラの圧力をかすかに弱める抑止力として【いくらか】有益な助けになっていた。

パワハラがあたりまえの時代の強すぎるパワハラの圧力は土台を安定させ固めるためにどうしても必要なことであるから弱め過ぎてはいけないので、とくに根拠はないと言われている「4つの血液型」は、パワハラの時代の世代の上にあったパワハラの圧力を弱め過ぎてしまうことなく、かすかに弱める抑止力として非常に適切であった。……16診断は、とくに根拠はないと言われている「4つの血液型」とちがって、非常に多くの研究が重ねられている。


土台を固め安定させるためにパワハラがあたりまえである必要があった世代(ダビデの世代)の時代とはちがって……パワハラがあたりまえではなくなった世代(ソロモンの世代)の時代は……4タイプの血液型の4倍の16タイプを見ることができ、16タイプの違いを認め合うことができる時代に移り変わりはじめている。

16診断とか心理学なんてものは世のものであるから教会に入れるべきではないとかたく信じ続けておられる方々は、今後もどんなことにも揺るがされることのない不動の門番として主が選び配置してくださっておられる方々だ。……人間の分別は常に不完全だから、分別が常に不完全な人間が常に優秀な門番になる方法は「良いものも悪いものもどんなものであっても外のものは全て立ち入り禁止にする」方法だけしかない……だから……「良いものも悪いものもどんなものであっても外のものは全て立ち入り禁止にする」門番を主が教会に備えてくださっている。……どのようにしてか……教会の外にある16診断等の良いものも悪いものも全て悪いものに見える目を与えることによってだ。……"この人々は神に弁明する者であって、あなたがたのたましいのために見張りをしているのです。ですから、この人たちが喜んでそのことをし、嘆いてすることにならないようにしなさい。そうでないと、あなたがたの益にならないからです。"
ヘブル人への手紙 13章 17節

"よく指導の任に当たっている長老は、二重に尊敬を受けるにふさわしいとしなさい。みことばと教えのためにほねおっている長老は特にそうです。"
テモテへの手紙第一 5章 17節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会

 

①シャロームの回復『パワハラがあたりまえだった世代(ダビデの世代)』と『パワハラがあたりまえではなくなった世代(ソロモンの世代)』……2つの異なる世代を神がつくったことを理解し、ダビデの世代とソロモンの世代の特性と働きが同じではないことを理解する

 

『2つの世代』がある

ダビデの世代』と『ソロモンの世代』だ。

ダビデの世代は『パワハラがあたりまえの時代という畑で神が育てた世代』であり、

ソロモンの世代は『パワハラがあたりまえではなくなった時代という畑で神が育てた世代』であり、

ダビデの世代もソロモンの世代も神の作品だ。

パワハラがあたりまえの時代という畑はダビデの世代の特性を育てるのに最も適した土地、気候、風土といったあらゆる条件が整った畑であり、

パワハラがあたりまえではなくなった時代という畑はソロモンの世代の特性を育てるのに最も適した土地、気候、風土といったあらゆる条件が整った畑になっている。』

パワハラがあたりまえの時代に蒔かれ育ったダビデの世代に神がしてほしいと願って任せておられる働きと、

パワハラがあたりまえではなくなった時代に蒔かれ育ったソロモンの世代に神がしてほしいと願い任せる働きは同じではない。』

パワハラがあたりまえの時代に蒔かれ育った世代であるからこそ備わっている特性が必要な働きがあり、

パワハラがあたりまえではなくなった時代に育った世代であるからこそ備わっている特性が必要な働きがある。』

神はパワハラがあたりまえの時代に育ったダビデの世代であるからこそ得意な働きをダビデの世代に任せておられ、

パワハラがあたりまえではなくなった時代に育ったソロモンの世代であるからこそ得意な働きをソロモンの世代に任せる。

下に書かせていただいた色々な働きや特性の一覧の1️⃣にはダビデの世代が好む得意なことや特性について書かせていただき、2️⃣にはソロモンの世代が好む得意なことや特性について書かせていただいた。もしかしたら多くの方々の目には1️⃣の働きや特性よりも2️⃣の働きや特性の方が良いことのように見えるかもしれないが……1️⃣と2️⃣に優劣はない。……しかし、パワハラがあたりまえだったダビデの世代は1️⃣よりも2️⃣がまさっていると思う方々が多いことだろう……。しかし、1️⃣よりも2️⃣がまさっているという思いが少しでもやわらぐことを願って色々と書かせていただき、そのことに関連する聖書箇所を並べさせていただいた。そして、そのことに関連する聖書箇所をいくつか見ていただいた後であれば……1️⃣よりも2️⃣がまさっているという思いが少しでもやわらいでいるかもしれないので、今回の内容に関連した聖書箇所を並べた後に、もう一度ダビデの世代とソロモンの世代の特色の違い1️⃣と2️⃣の一覧を見ていただけるように書かせていただいた。

パワハラがあたりまえの時代であることによって豊かに育つ1️⃣の1つ1つの特性はダビデの世代に神がしてほしいと願い信頼して任せておられる「キリストの体の土台と基礎を建てあげる働き」のために必要な特性であり、パワハラがあたりまえではなくなった時代であることによって豊かに育つ2️⃣の1つ1つの特性はソロモンの世代に神がしてほしいと願い信頼して任せておられる働きのために必要な特性であり働きだ。

ダビデの世代の特性を一言で表現するなら、ダビデの世代には「固い」という特性がある。ソロモンの世代の特性を一言で表現するなら、ソロモンの世代には「柔らかい」という特性がある。

「固い」ダビデの世代は土台にふさわしい。「柔らかい」ソロモンの世代は土台としては、ふさわしくないが……「固い」ダビデの世代が得意なことがあり、「柔らかい」ソロモンの世代に苦手なことがあるように、「固い」ダビデの世代であるからこそ苦手なこともあり、「柔らかい」ソロモンの世代であるからこそ得意なこともある。だから「固い」という特性のあるダビデの世代と「柔らかい」という特性のあるソロモンの世代に優劣はない。固いダビデの世代も、柔らかいソロモンの世代も、どちらも神が必要としておられ、神の目的のためにつくられた神の作品だ。

1️⃣ダビデの世代の特性
2️⃣ソロモンの世代の特性

1️⃣パワハラの時代
2️⃣権利の時代

1️⃣権威  2️⃣対等

1️⃣上下  2️⃣左右

1️⃣優劣  2️⃣種類

1️⃣強制  2️⃣自由

1️⃣過保護  2️⃣無関心

1️⃣制限  2️⃣選択

1️⃣少ない情報
2️⃣多くの情報

1️⃣少ない知識
2️⃣多くの知識

1️⃣区別  2️⃣混合

1️⃣四角い  2️⃣丸い

1️⃣固い  2️⃣柔らかい

1️⃣土台  2️⃣広がり

1️⃣基礎  2️⃣応用

1️⃣確信  2️⃣疑問

1️⃣束縛  2️⃣尊重

1️⃣献身  2️⃣個性

1️⃣絶対服従
2️⃣適材適所

1️⃣全力  2️⃣適当

1️⃣命令  2️⃣質問

1️⃣支配  2️⃣平和

1️⃣努力  2️⃣恵み

1️⃣与える  2️⃣受ける

1️⃣教える
2️⃣対話する

1️⃣全て従順
2️⃣一部参考にする

1️⃣不満を感じ改良したり変化させる
2️⃣不満を感じてもあまり変えようとしない

同じことをもう1度書くが……1️⃣と2️⃣に優劣はない。

1️⃣と2️⃣に優劣はないが順番はある。2️⃣の特性や働きが回復したり地に広がりはじめる前に、1️⃣の特性のあるダビデの世代の1️⃣の特性や働きが地に満ちて土台になっていなければならない。

1️⃣の特性や働きが地を満たす前に2️⃣の働きや特性が地に広がることは建物の土台をつくらずに、建物をつくりはじめるようなものだ。

キリストの体の働きは色々あるが、キリストの体の土台は色々ではない。キリストの体の土台は唯一であり1つだけだ。……だから……まずはじめに1️⃣の特性のあるダビデの世代の1️⃣の働きによってキリストの体の土台と基礎がつくられる必要がある。

だからまず、パワハラの時代という畑で育ち続けた世代であるからこそ、1️⃣の働きや特性を好んでいて慣れていて得意なダビデの世代の1️⃣の働きにより、「イエスキリストだけ」「聖書だけ」「イエスキリストに来なさい」「聖書に来なさい」「イエスキリストに従順しなさい」「聖書の御言葉に従順しなさい」……と1️⃣強制し、1️⃣制限し、1️⃣束縛し、1️⃣献身させ、1️⃣命令し、1️⃣支配し、1️⃣教え、1️⃣全て従順させる……といった1️⃣の働きと特性によって、キリストの体の土台と基礎がつくられて、地に満ちる必要があった。

神はパワハラがあたりまえの時代という畑で1️⃣の特性や働きがあたりまえのことになっていて得意で慣れているダビデの世代を育てて、ダビデの世代に1️⃣の働きを任せておられるように、

神はパワハラがあたりまえではなくなった時代という畑で2️⃣の特性や働きがあたりまえのことになっていて得意で慣れているソロモンの世代を育てて、ソロモンの世代に2️⃣の働きを任せておられる。

パワハラがあたりまえの時代に蒔かれ育った世代ならではの特性があるからこそ得意なことがあり、

パワハラがあたりまえではなくなった時代に育った世代ならではの特性があるからこそ苦手なことがあり、

パワハラがあたりまえの時代に蒔かれ育った世代ならではの特性があるからこそ苦手なことがあり、

パワハラがあたりまえではなくなった時代に育った世代ならではの特性があるからこそ得意なことがある。』

ダビデの世代はキリストの体の土台と基礎的な理解と教えを地に満たす世代とならせるために、パワハラがあたりまえな時代という畑で神が育ててくださった世代だ。

ソロモンの世代はダビデの世代ほど献身できないし、努力もできないが、

ソロモンの世代は
ダビデの世代が今もまだなしえていない「平和をつくること」ができる世代とならせるために、神がパワハラがあたりまえではなくなった時代という畑で育ててくださった世代だ。

1️⃣の働きや特性を好んでいて慣れていて得意なダビデの世代は間違いを正すために教えることが得意な世代で、キリストの体の土台と基礎をつくる働きを神から任されている世代だ。

しかし間違いを正すために教えることが得意であたりまえなダビデの世代は自分たちの指摘に同意する者たちと平和をつくることであれば、それなりにはできるかもしれないが、

自分たちの指摘にまったく同意しない者たちと平和をつくることは非常に難しい世代であり、非常に「固い」世代だ。固いダビデの世代は固いからこそ土台をつくることができるが、自分たちの指摘にまったく同意しない者との隔ての壁も非常に固く非常に強く非常に高い。

ソロモンの世代は違いを認め合うことは得意な「柔らかい」世代だが、違いを認め合うことを好む柔らかいソロモンの世代は、柔らかくて土台にはふさわしくないので、キリストの体の土台と基礎をつくることはできない世代だ。

神が「固い」ダビデの世代に任せておられる働きと、「柔らかい」ソロモンの世代に任せておられる働きは同じではないので、「固い」ダビデの世代と「柔らかい」ソロモンの世代に優劣はない。

ダビデの世代とソロモンの世代は、神の異なった目的のために、異なった時代という畑によって、神が育てた異なった2つの世代であり、「固い」ダビデの世代も「柔らかい」ソロモンの世代も、どちらの世代も、神が必要としておられる世代であり、キリストの体全体にとって、必要不可欠な世代だ。

ダビデの世代がソロモンの世代に、ダビデの世代に備わっている1️⃣の特性や働きを要求し過ぎると神がソロモンの世代のために備えておられる良い働きを、神の作品であるソロモンの世代は実行することが難しくなってしまうし、

ソロモンの世代がダビデの世代にたいして、ソロモンの世代に備わっている2️⃣の特性や働きを要求し過ぎると、神がダビデの世代のために備えておられる良い働きを神の作品であるダビデの世代は実行することが難しくなってしまう。……"「こんなものを着けては、歩くこともできません。慣れていないからです。」"
サムエル記第一 17章 39節

"だれも誇ることのないためです。
私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。"
エペソ人への手紙 2章 9〜10節

"尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。"
ローマ人への手紙 12章 10節

1️⃣ダビデの世代の特性
2️⃣ソロモンの世代の特性

1️⃣パワハラの世代
2️⃣権利の世代

1️⃣権威  2️⃣対等

1️⃣上下  2️⃣左右

1️⃣優劣  2️⃣種類

1️⃣強制  2️⃣自由

1️⃣過保護  2️⃣無関心

1️⃣制限  2️⃣選択

1️⃣少ない情報
2️⃣多くの情報

1️⃣少ない知識
2️⃣多くの知識

1️⃣少ない選択
2️⃣多くの選択

1️⃣区別  2️⃣混合

1️⃣四角い  2️⃣丸い

1️⃣固い  2️⃣柔らかい

1️⃣土台  2️⃣広がり

1️⃣基礎  2️⃣応用

1️⃣確信  2️⃣疑問

1️⃣束縛  2️⃣尊重

1️⃣献身  2️⃣個性

1️⃣絶対服従
2️⃣適材適所

1️⃣全力  2️⃣適当

1️⃣命令  2️⃣質問

1️⃣支配  2️⃣平和

1️⃣努力  2️⃣恵み

1️⃣与える  2️⃣受ける

1️⃣教える
2️⃣対話する

1️⃣全て従順
2️⃣一部参考にする

1️⃣不満を感じ改良したり変化させる
2️⃣不満を感じてもあまり変えようとしない