2020-01-01から1年間の記事一覧
神はエデンの園で人に語られた…「あなたは、どこにいるのか?」そして、神は今も神の民、キリストの体、聖徒に向かって語り続けておられる…「あなたは、どこにいるのか?」「あなたは、どこにいるのか」…このことばに正しい返答ができる者を神は求め続け捜し…
「すべての事について、感謝しなさい」この後のことばを暗記して覚えている方はどれくらいおられるだろうか…?「すべての事について、感謝しなさい」…この後に続くことばは…「これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです」"(テ…
私たちが怒ったり、思い煩っている時、王座に着いているのは誰か?自分自身だ。私たちは神を深く愛し、神の御心の実現を強く願うからこそ、地上の痛ましい出来事について見聞きする時、怒ったり、思い煩うことがある。神を深く愛し、神の御心の実現を強く願…
私たちが自分たちの目でこの地上を見渡したり、自分たちの耳でニュース等を聞く時、ひどく痛ましいことの数々を見聞きする。私たちが見聞きするそれらの痛ましいことの数々は、まるで敵の勝利の数々であるかのように見えるかもしれない。しかし、それらはど…
「④神の御国の秩序の中で生きる④霊的リーダーを見下す者たちと霊的リーダーたち…両者をあわれもうとして両者を不従順のうちに閉じ込め、やがて両者を和解させ神の偉大な栄光とならせる神の知恵と計画とデザイン」
教会の秩序、ルール、人間の秩序に従い生きることを知らない者は神の御国の秩序に入り生きることはできない。神の御国の秩序の中で生きることは「霊的リーダーに従うこと+神の導きに従うこと」の調和の中で生きることであるからだ。それは霊的リーダーに従…
イスラエルの民が偶像礼拝をした時、イスラエルの民に敵対する強力な民が立ち上がっていたように、霊的リーダーたちを見下し否定する人たちは、霊的リーダーたちが蒔いた種であり、霊的リーダーたちの刈り取りだ。霊的リーダーは自分を偶像礼拝させていると…
神は三位一体の神だ。二位一体の神ではない。神は三位一体の神であって、二位一体の神ではないから、どちらか一方に片寄った存在ではない。そのような三位一体の神のかたちとして、三位一体の神に似せて創造された人間が(創世記 1章 26節)もし、どちらか一方…
もし、霊的リーダーに従ってさえいれば、神の御国において100点満点ということになるなら、誰であろうが努力と忍耐と忍耐と根性と忍耐で100点満点が取れることになるだろう…神の御国はそのようなものではない。私たちは霊的リーダーに従うべきだろうか?私が…
聖書にはこう書いてある。「そのとき、人々は、あなたがたを苦しいめに会わせ、殺します。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての国の人々に憎まれます。」このことは歴史の中でまだ1度も起こっていない。世界中で多くのキリスト者が一部の国の一…
「私たちが迫害者に捕らえられた時すべきことは『イエスキリストの御名を否まないこと』なのであって『殉教者として迫害者に殺されること』ではない…殉教できる信仰だけでなく、迫害者に捕らえられた窮地から救い出されると信じる信仰を備える…」今回はこの…
イエスキリストが救い主であることを信じていないだけでなく、神はいないとさえ信じている人たちがこの世界の中には大勢いる。神は存在するだろうか?存在しないだろうか?神が存在しないことを証明できる者はいない。仮に宇宙の端に行けたとして…その端とい…
黄色、黒色、赤色、白色、緑色を相手に見せながら、その順序で福音を説明するという有名な伝道方法がある。黄色「天国はある」→黒色「しかし、人には罪があるので罪のある者は誰も天国に入ることができない」→赤色「だから、イエスキリストが…」…このような…
イエスキリスト 天から地に下って来られたイエスキリスト 最も低くなられた神のかかとイエスキリスト 罪ある私の身代わりに罪となられたゆえに蛇にかみつかれ血を流し死なれた神のかかとイエスキリスト 蛇にかみつかれて血を流すために地に下ろされた神のか…
イエスキリストは十字架にかけられていた時、私を見、あなたを見ておられたイエスキリストは十字架にかけられていた時、まだ生まれていなかった私を抱き、まだ生まれていなかったあなたを抱いておられた父なる神に捨てられたイエスキリストは十字架にかけら…
独身でも平気な人には「独身の賜物がある」と言われているのを耳にすることがある。しかし、これは賜物ではない。賜物であるなら、求めれば与えられるが、これは求めても与えられないからだ。これは神の選びと定めによることであり、人間の願いや努力による…
神の目には神の御国を建て上げるための働きは全て高価で尊い。優劣はない。しかし、私の目にはそのようには見えない。私の目には私のカラーがあり、私の目には順位があり、優劣がある。これを色眼鏡と名付け、「色眼鏡を捨てて信仰によって見なさい」と語る…
古いぶどう酒と古い皮袋は悪いもの、不要なもの、無益なものなのだろうか?もし、そうだと信じているなら、「私に土台は不要だ」と言っていることになる。古いぶどう酒とは「今の多くの既存の教会の土台となっている聖書的な教え」であるからだ。古いぶどう…
弟子たちがイエス様と一緒に舟に乗っていて湖に大暴風が起こった時、弟子たちは眠っておられたイエス様のみもとに来て、イエス様を起こして「主よ。助けてください。私たちはおぼれそうです。」と言うと、イエス様は大暴風を静まらせてくださった。(マタイの…
神の御心であれば、どんなことであっても実現させることができる権威が全ての聖徒に与えられている。どんな願いであっても、神の御心であれば、天の御国の鍵を与えられている聖徒が「この願いは神の御心です!神の御心は必ず実現します!」と王の指輪によっ…
天の御国の鍵によって、天の御国を呼び出すことができるとは言っても、天の御国にあるものを、天の御国の鍵でなんでもかんでも自分の目的のために呼び出して利用できるというわけではない。だから、イエス様の弟子のヤコブとヨハネが言っていたみたいに「主…
天の御国の鍵について、何故か聖書にはこのようには書いてはいない。「あなたがたが天を解くなら天は解かれています」…とは書いていない。そうではなくて「あなたがたが地上で解くなら、それは天においても解かれています」と書いてある。天の御国の鍵という…
確かに聖書に、サタンは、この世の支配者だとは書いている。だが、サタンに権威はない。サタンはこの世を支配してはいるが、権威はない。サタンは神から権威を与えられている人間の権威と自由意思を利用して、この世の社会を支配している。サタンが支配して…
「癒してください」と主に願うのではなくて、「主の御名によって病に命じる権威が与えられていること」について知ることは重要だ。もちろん「癒してください」と主に願うことによって、自分や誰かの病が癒されることも、さほど珍しいことではない。何故なら…
いつも私は主の臨在の中にいる。私が歩いている時も、私が何かをしている時も。私が歩いている時、私が主の臨在の中にいることに、歩きながら意識を向け、主の臨在の中で私の両肩、両腕の皮膚の感覚に意識を向け、私に触れている主の臨在の空気を感じようと…
祝福を全く求めずに臨在だけを求めることについて、このように思う人がいるかもしれない。霊肉魂や五感で全く主の臨在が感じられなくて、何の変化も祝福もないけど「私は今、主の臨在に浸っていると信じながら、主の臨在に意識を向けて過ごす時間」なんて、…
「主の臨在」を求めている聖徒は多いだろう。「主の臨在」を求めることは良いことだ。そして、「主の栄光」を求めることも良いことだ。どちらも良いことで主に非常に喜ばれることであるから、「主の栄光を求める時間」とは別に「主の臨在を求める時間」も大…
コロナウィルスの緊急事態宣言が各地で解除になりはじめる頃に私が得たのは…私の全ての重荷を主の臨在の中に持ち込まずに、ただ主の臨在に触れていただくことだけを求めて、主の臨在の中で過ごす時間だ。もちろん。私の重荷、願い、求めを主の臨在の中に持ち…
最近、「御国を来たらせたまえ」と祈るための時間を過ごすようになっていたが、何日もしないうちに「御国を来たらせたまえ」と祈っている私の日本語のことばに違和感を感じるようになった。何故、私が願う以上に御国をこの地に来たらせたいと願っておられる…
主に向かって手を上げる時、閉じた手ではなくて、開いた手を上げる。それとは別に、主の勝利を宣言する時や、「主よ。あなたは力強いお方です」と宣言する時、握りこぶしを掲げる時もあるだろう。しかし、主に向かって礼拝の手を上げる時は、開かれた手を上…
私は ほんの数日前まで、「最も求めるものは?」と質問されたら、「神の臨在」と「神の臨在を地上に満たすことができるダビデの幕屋」と返答していた。しかし、今、「最も求めるものは?」と質問されたら、「神の御国が来ること」と私は返答する。私は ほん…