シャロームを所有する

私は預言の賜物の回復を願っている。しかし私は預言の賜物を否定する方々を心から尊敬し感謝している。私が預言の賜物を熱心に求めて聖書に従うためなら…私は預言の賜物を否定する方々を不満に思い…全て感謝せよと語る聖書に逆らってよいだろうか?預言を認める牧師先生だけ尊敬し…預言の賜物を否定する牧師先生含む5役者や教団教派の方々を尊敬せず…互いに尊敬しなさいと語る聖書に逆らってよいだろうか?自分が建てたい御言葉を建て上げるために他の御言葉を壊してできた砂の上に自分が建てたい御言葉を建て上げ…家を建ててよいのだろうか?

「悔い改めが不十分だと主の臨在が味わえない?私が悔い改める場所、私が敵に勝利できる場所は主の臨在の中、外ではなくて家の中、主の御腕の中」

いつも私は主の臨在の中にいる。私が歩いている時も、私が何かをしている時も。

私が歩いている時、私が主の臨在の中にいることに、歩きながら意識を向け、主の臨在の中で私の両肩、両腕の皮膚の感覚に意識を向け、私に触れている主の臨在の空気を感じようとする…。

感じても感じなくても「ある」と信じて意識を向けることによって、霊的な門、主の臨在を飲むための霊的なくちを開くことができ、主の臨在が門を通って入ってきて、主の臨在を飲むことができる。

つまり…「主の臨在を感じようとして主の臨在を意識している間に…」➡️「…何も感じなくても、私は今、主の臨在に触れ、触れられていると信じているなら…」➡️「…主の臨在を飲むことができている」

ただし、「イエスキリストが十字架で流してくださった血潮のゆえに…」と信じる信仰がなくて、「私がこんなに頑張って主に従順しているゆえに…私は今、主の臨在の中にいます!」だと高確率で主の臨在の中には入れていない。

「私はこんなに頑張って主に従順している」と思っていてはいけないのではない。仮に、「私は誰よりも主に従順している!」と常に確信していようと、「イエスキリストが十字架で流してくださった血潮のゆえに私は今、主の臨在の中にいる」と信じているなら、主の臨在を感じようとするだけで、主の臨在をいつでも自由に好きなだけ飲むことができる。

誰であっても、「イエスキリストが十字架で流してくださった血潮のゆえに、私は主の臨在の中にいて、いつでも自由に好きなだけ主の臨在を飲むことができる」と信じているなら、主の臨在を感じようとして意識を向けるだけで、いつでも自由に好きなだけ主の臨在を飲むことができる

全ての聖徒が主の臨在の中にいる。しかし、主の臨在を飲むためには、主の臨在を飲もうとすること=主の臨在を感じようとすることが必要。主は全ての聖徒に主の臨在を強制的に飲ませたりはしない。だから、主の臨在を感じようとすることによって主の臨在を飲むという①『選択』が必要。

主の臨在を感じようとしている間、何も感じなくても、「私が主の臨在を感じようとしている間…今、私は主の臨在に触れ、主の臨在に触れられ、主の臨在を飲むことができている」と信じる②『信仰』が必要。

「イエスキリストが十字架で流してくださった血潮のゆえに私は主に歓迎され、主の臨在の中にいる者とされ、主の臨在を自由に好きなだけ飲むことができる者とされている」と信じる信仰③『イエスキリストの血潮』が必要。

この①②③の3つがあれば、誰であろうと、主の臨在を自由に好きなだけ飲むことができる。

何かしている合間合間にも、そのようにして主の臨在を飲むことができる。確かに「ある」主の臨在を意識するだけで飲むことができる。

何かしている時、何かしながらでも確かに「ある」主の臨在を意識するだけで飲むことができる。

確かに「ある」主の臨在を、何かしながら、ほんの一瞬でも意識するなら飲むことができる。

好きな時に一瞬だけ飲むこともできるし、好きな時に好きなだけ飲み続けることもできる。

主の臨在はひざまづいている時、教会や自分の家で畏まっている時だけ飲めるのではない。いつでも飲みたい時に自由に好きなだけ飲むことができる。

もちろん、私も主を畏れ、畏まってひざまづいて主の臨在を飲む時もある。

しかし、「ぼー…」…としながら音すら出さずにくちを動かすだけの異言を語りながら、主の臨在の中ですっかりリラックスして主の臨在を飲んだり、

「ぐでぇー…」とだらしなくだらけた姿勢でだらけながら、くちを動かすだけの異言を語りながら、主の臨在の中でだらけながら主の臨在を飲んだりもする。

私は主の臨在の中にいることを意識しながら「ぼー…」として時間を過ごすことをはじめて実行した後で、

立って両手を上げ畏まって異言で祈っていると…くちで異言を語りながら同時に心の中、思いの中で知性のことばの祈り、賛美を語れることに気づいた。

くちで異言を語りながら同時に心の中、思いの中で既存の賛美を歌うこともできた。

主の臨在の中にいることを意識しながら「ぼー…」として時間を過ごすことをはじめて実行したことによってこのことができるようになったのか、できることに気づいただけなのかはわからない。

時に畏まりながら…。
時にぼー…っとしながら…。
時にぐでぇー…とだらけながら…。
時に眠りながら…。

これが私の神様にたいする愛の表現であり、神様の愛にたいする応答であり、私と神様との愛の関係、交わりだ。

時に畏まりながら、時にぼー…っとしながら、時にぐでぇー…とだらけながら…。私はいつも神様が私を歓迎し、受け入れてくださっていることを知っているので、私が信じている通りに私の信仰、私の愛、私の信頼を神様に表現している。

何故なら私と神様との関係は「モーセの幕屋」ではなくて「ダビデの幕屋」になっているからだ。

ダビデの幕屋」には主の臨在に満ちた至聖所だけがある。

私もいつも至聖所にいる。いつも主の臨在の中にいる。

モーセの幕屋のように大庭、聖所、至聖所と隔てられていない。

モーセの幕屋になぞらえて「クリスチャンは①悔い改め→②感謝、賛美→③祈り、御言葉→④至聖所、臨在という順序で神様の御前に行くのです」といったことを耳にすることがある…。

しかし、私は質問したい。神の子とされた聖徒である私が悔い改める場所はどこですか?

主の臨在の外ですか?主の臨在の中ですか?

父の家の中ですか?父の家の外ですか?私は悔い改めないと父の家、主の臨在の中に入れてもらえない者なのですか?

神の子とされた聖徒たちが悔い改めて勝利できる場所は主の臨在の中ではありませんか?

御言葉の剣、…ギリシャ語ではここの御言葉はレイマと書いてあると聞いたことがある…敵に勝利するためのレイマの剣は主の臨在の中で与えられるのではありませんか?

主の臨在に入るために悔い改めるのですか?

確かに、悔い改め、祈り、聖書を読むこと、賛美すること等はとても良いことだ。

しかし、「主の深い臨在に入りたければ…あるいは、主を深く知りたければ、悔い改めて、よく聖書を読み、よく祈り、よく賛美しなさい…あと奉仕しなさい、伝道をしなさい」…と言うなら…

ダビデの幕屋」になっている私と神様との関係が「モーセの幕屋」のように…キリスト教という宗教のようになってしまう。

もちろん、「モーセの幕屋」のような信仰生活、神様との関係でも数々の豊かな祝福がある。

しかし「深い主の臨在」に入れることがたまにあることのように…誕生日やクリスマスに親に買ってもらえる特別なプレゼントのようになっているなら…それは本来の姿だろうか…?

私たち聖徒は「ダビデの幕屋」「いつも主の臨在」の中にいる者とされているが、私たち聖徒が「ダビデの幕屋」「いつも主の臨在」の中にいるのではなくて、「モーセの幕屋」「特別な時だけ深い主の臨在」「普段は主の臨在の外…とか、あまり深くない主の臨在の中」にいると信じながら生きているなら、そのように生きることになる。

"そのとき、イエスはもう一度大声で叫んで、息を引き取られた。
すると、見よ。神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。そして、地が揺れ動き、岩が裂けた。"
マタイの福音書 27章 50〜51節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会