シャロームを所有する

私は預言の賜物の回復を願っている。しかし私は預言の賜物を否定する方々を心から尊敬し感謝している。私が預言の賜物を熱心に求めて聖書に従うためなら…私は預言の賜物を否定する方々を不満に思い…全て感謝せよと語る聖書に逆らってよいだろうか?預言を認める牧師先生だけ尊敬し…預言の賜物を否定する牧師先生含む5役者や教団教派の方々を尊敬せず…互いに尊敬しなさいと語る聖書に逆らってよいだろうか?自分が建てたい御言葉を建て上げるために他の御言葉を壊してできた砂の上に自分が建てたい御言葉を建て上げ…家を建ててよいのだろうか?

「重荷を下ろし全ての祈りの課題をすっかり忘れて主の臨在に触れていただくことだけを求める時間を過ごす」

コロナウィルスの緊急事態宣言が各地で解除になりはじめる頃に私が得たのは…

私の全ての重荷を主の臨在の中に持ち込まずに、ただ主の臨在に触れていただくことだけを求めて、主の臨在の中で過ごす時間だ。

もちろん。私の重荷、願い、求めを主の臨在の中に持ち込む時間も必要だ…「主よ。この問題があります。この問題の上に神の御国を来たらせてください。そうです。この問題の上に神の御国があります!」そのように、問題に向かって、山に向かって、神の御国の力について宣言して神の御国を来たらせる賛美の祈りを捧げる時間。神の御国をこの地に来たらせる時間。そのような、重荷を背負って、重荷を主の臨在の中に持ち込む時間も必要であることを知っている。

この地に神の御国を来たらせ、神の計画がさらに前進するために。

そのように、神の御国をこの地に来たらせるために賛美の祈りを捧げる時間はとても大切な時間だ。

今のこの地上を見ながら、「この地上に神の御国が来る!」と賛美の祈りを捧げ、この地上に神の御国を来たらせる時間。私自身や私の家族や神の家族である方々やその他の多くの方々に神の御国を来たらせる時間。

神の臨在の中で窓を開けて、窓から地上を見ながら、地上にいる私自身や私の家族や神の家族である方々やその他の多くの方々を見ながら、「この地上に…私自身に、私の家族に、神の家族である方々に、その他の多くの方々に神の御国が来る!」と賛美の祈りを捧げ、この地上に神の御国を来たらせることは、第一にするべき求め、とりなしだ。

しかし、この第一にするべき求め、とりなしは、『求めるべきこと』の中では第一のことだが、『するべきこと』の中では、イエス様が言われた2番目に大切なことである「神のために自分自身を愛し、隣人を愛すること」に分類される。

私は地上に、自分自身や人々に神の御国を来たらせるために、賛美の祈りを捧げながら、賛美に住まわれる主の臨在の中で過ごす時間とは別に、

窓を閉めて、地上を見ずに、私や人々を見ずに、私や人々の必要とか、この地上にある問題を見ずに、

ただ主の臨在に触れていただくために主の臨在の中で時間を過ごす。イエス様が一番大切だと言われた「神のために神を愛する」ための時間を過ごす。

私は神を賛美している時、賛美の中に住まわれる主の臨在の中で、その時までまだ思い浮かんだことがなかった多くのことばとオリジナルメッセージを得た。私がブログに書いているのは、ほとんどがそのようにして得たものだ。

コロナウィルスの緊急事態宣言が各地で解除になりはじめる頃…私が いつものように賛美していた時に私は思った。「あれ?最近、毎日のようにオリジナルメッセージが思い浮かんでいたのに、今日はないのかな…?」…その時に私は思った…「私は主からの啓示が目当てで主の臨在の中にいるのだろうか…?」

もし主に「あなたはわたしからの啓示がほしくてわたしの臨在の中にいるのか…?」と質問されたら…。

そのこたえをまだ得ていなかった頃の私は、「最近、賛美の中で、特別な臨在を感じることもないし、思い浮かんだことのないことばが思い浮かぶこともないなあ…」とうっすら残念に感じたり、「いや…こういう時を積み重ねた後に大きな恵みが来ることを何度も経験したから、今回も期待が膨らんじゃうなあ…♪」…といったようなことを考えることがよくあった。

…だが、「啓示が目当てで主の臨在の中にいるのか?」と自分自身に問いかけた時…。「いや…違う。私は主の臨在に触れていただくために主の臨在の中にいる」

私が主を賛美して、啓示を受けたり、癒しを受けたり、特別な臨在を感じたり、シャカイナのあらわれがなくても、私はそれらにはるかにまさるものをすでに得ているではないか。

①「神を賛美できたこと」

特別な臨在を特に感じることができなかったとしても②「賛美に住まわれる主の臨在の中で、主の臨在に触れていただく時間を過ごせたこと」私が主の臨在を明確に感じることができたとしても、かすかにしか感じれなかったとしても主は賛美の中に住まわれるのだから、私が賛美を歌う時、主は私の賛美の中に住んでおられ、私は主の臨在の中で時を過ごすことができていることは確かな事実であることにかわりはない。

これら2つがあれば十分。これら2つだけを求める時間。他の全ての求め、全ての祈りの課題、重荷は全て下ろし、窓を閉めて、地上を見ない時間。私や人々の必要を見ない時間。これら2つだけを求める時間。神のために神を愛するためだけの時間。主に愛を捧げ、主からの愛を受けるためだけの時間。

これら2つのことだけを求めるための時間に主が私や人々の必要を満たしてくださることももちろんあるだろう。もちろん私は主がそのようにしてくださることも期待している。しかし、それらが目的ではない。

もちろん、それらを目的とする時間も必要だ。それらを目的とする時間は…私や人々の必要を満たしていただく時間であり、神を賛美する臨在の中で窓から地上や私や人々を見、神の御国を地上や私や人々に来たらせるための時間。とりなしの時間。

しかし、コロナウィルスの緊急事態宣言が各地で解除されはじめた時期に、私は「窓を閉めて、主の臨在に触れていただくための時間」「私の全ての求め、全ての祈りの課題を下ろして、賛美の中に住まわれる主の臨在の中に入り、①主を賛美することと、②主の臨在に触れていただくこと…①主を愛し②主からの愛を受ける…この2つのことだけのために過ごす時間」を得た。

"イエスは答えられた。「一番たいせつなのはこれです。『イスラエルよ。聞け。われらの神である主は、唯一の主である。
心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』
次にはこれです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』この二つより大事な命令は、ほかにありません。」"
マルコの福音書 12章 29〜31節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会