聖書には、「求めなさい。そうすれば与えられます。」と書いてある。
そして、「この聖書箇所の求めなさいは、求め続けなさいという意味である」ということばを頻繁に耳にすることがある。
聖書の注釈にも「求めなさい」あるいは「求め続けなさい」といったことが書いてある。
しかし、聖書にはこうも書いてある。
"また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。
だから、彼らのまねをしてはいけません。"
マタイの福音書 6章 7〜8節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会
求め続けることは、あきらめるよりはずっといい。
いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えるために、イエス様は「神を恐れず、人を人とも思わない裁判官のたとえ」を話された。
しかし、「求め続けて祈ること」は贖われて神の子とされた聖徒たちの本来の姿ではない。
求め続ければ求め続けるほど受けるなら、「求め続ける」こと「行い」「努力」によって受けることになり、「行い」「努力」を誇り、「行い」「努力」が自分より少なく見える者を見下したり、さばいたりといったことになりかねない。
そのようにして「恵み」「信仰」「愛」の道からずれてしまうことになりかねない。
「求め続けて祈ること」それはまるで裏口のようなものだ。
すでにご存知だとは思うが、裏口とは、本来は受ける資格のない者だが特別に…ということ。
例えば、裏口入学とは本来は学校の試験で上位の点数を取らなければ入学する資格はないのに、入学したい学校の有力な関係者に賄賂を渡し、学校の試験の点数が上位でなく下位どころか最下位であるにも関わらず、さらには、試験を受けてすらいないのに、入学できるようになること…と聞いたことがある。
イエス様が十字架で贖いを完了する前の時代には、異邦人とされていたカナン人とギリシア人の女性は神の御国の恵みを裏口から得た。
この女性たちは、イエス様に頼んでも突き放されるような扱いを受け続けたにも関わらず、あきらめず、失望せずに、へりくだり求め続けたので、イエス様から「ああ、あなたの信仰は立派です」と非常に高く評価された。
「だから、私たちもイエス様にほめられた、このカナン人の女性、ギリシア人の女性を見習って求め続けて祈りましょう」「これこそが敬虔なクリスチャンのあるべき姿なのです…」といったようなことばを頻繁に耳にすることがある。
しかし、少し待ってもらえないだろうか。この時代、イエス様の十字架の贖いが完了する前だったので、「異邦人」と呼ばれ、イエス様から「子犬」と言われていた女性たちと、今、すでに神に贖われ神の子とされた聖徒である私たちとでは立場が明確に違う。
確かに、へりくだり続けた姿勢等、見習えることはあるだろう。しかし、まず、すでに神に贖われ神の子とされた聖徒である私たちとでは立場が違うということを明確に知っておく必要がある。
私たちの本来の立場ではないのに、敵はまるでそれが私たちの本来の立場であるかのように偽りを語る。あるいは、いくつかの事実に混ぜて偽りを紛れ込ませる。偽りのパン種、聖書的ではないパン種を紛れ込ませる。
例えば「あなたは主のしもべだ」という事実に混ぜて「聖徒たち、教会は王イエスキリストの王妃であり権威がある」という真理を否定するようなことばを紛れ込ませる。
見習うのはいいが、先に本来の立場を明確に知っておく必要がある。神に贖われ神の子とされた聖徒たちは「子犬たち」ではなく、「子どもたち」だ。
「パンくず」ではなく、イエス様に「まず子どもたちに満腹させなければなりません。」と言っていただける「子どもたち」であるという立場を知っておく必要がある。
本来は受ける資格のない「子犬」が「へりくだり求め続けた」ので、そのことに感動したイエス様から特別な計らいで「パンくず」を授かった。
神に贖われ神の子とされた聖徒たちは、受ける資格のない者、「子犬」ではなく、受ける資格のある者、「子ども」だ。だから裏口は必要ない。受ける資格がすでにあるのだから。
イエス様が私たちの代わりに十字架のみわざによって、父なる神様の試験で全教科100点満点をなしとげて下さった。
だから、私たちは受ける資格が十分以上にある者として、父なる神様に与えてもらえる者どころか、「父なる神様がぜひとも何でも与えてあげたくて仕方がない者」「王妃エステルのような者」となっているのだから、正面玄関口から堂々と入って、求めるものは、御心にかなってさえいれば何でももらうことができる。
にもかかわらず、「求め続けて祈る」なら、私たちは本来の立場を見失うことになりかねない。
資格のある私たちは、資格のない者たちのように求め続けて祈ることが本来のありかたではない。
「求め続けて祈ること」は神に贖われ神の子とされた聖徒たちの本来の姿ではない。
「求め続けて祈る」のではなく、「祈り求めたものはなんでも与えられると信じて感謝し賛美し続ける!」これが神に贖われ神の子とされた聖徒たちの本来の姿!
心に疑いがあってもかまわない。祈り求めたものはなんでも与えられることを感謝し賛美し続けていると心が変化するからだ。
「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」と書いてある。
信じられず、信仰がなくてもキリストについてのみことばを聞く時、信仰が動き出す。信仰のエンジンが回り出す。
だから、アクセルを踏み、祈り求めたものはなんでも与えられることを感謝し賛美し続けて、自分自身に聞かせ続けよう。
祈り求めたものはなんでも与えられるというキリストについてのみことばを語り続け、感謝し続け、賛美し続けることによって、自分自身に聞かせ続けよう。
祈り求めたものはなんでも与えられるというキリストについてのみことばを語り続け、感謝し続け、賛美し続ける時、賛美の中に住まわれる主の臨在があなたの心を変え、信仰を変化させる。
主が癒してくださると歌うなら、癒しを伴う主の臨在が、主が癒してくださると歌う賛美に住む。
キリストについてのみことばを語るだけでなく、賛美するなら、歌ったみことばを成就させ、実現させる主の臨在が臨む。
日本のリバイバルを感謝し続け賛美し続ければ、日本のリバイバルを成就させ、実現させる主の臨在が臨む。
"そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。"
ローマ人への手紙 10章 17節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会
"けれども、あなたは聖であられ、イスラエルの賛美を住まいとしておられます。"
詩篇 22篇 3節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会
自分の愛する娘が強力な悪霊から解放されることは大いなる祝福、栄光だが、
「求め続けて祈る」のではなく、「祈り求めたものはなんでも与えられると信じて感謝し賛美し続ける」ようになる時、そんな大いなる祝福、癒しのみわざさえも、「パンくず」だったと思えるほどのさらに何倍も偉大な祝福が臨むようになる。
もちろん、小さな恵み、祝福を喜ぶことは良いことで主に喜ばれることだ。主は小さなことに忠実な者を喜び信頼して、大きなことを与え委ねてくださる。
だから主は忠実な日本の教会に大いなるリバイバルを与えると決めておられる。忠実な者である日本の教会を主が喜んでおられることを日本の教会も共に喜んでほしい。主人の喜びを共に喜び歌ってほしい。
主は日本の聖徒たち、教会に小さな祝福だけでなく、大いなる祝福を大いに与えたい。だから大いなる祝福を大いに与えることができるように大いに開き続けてほしい。
"あなたの口を大きくあけよ。わたしが、それを満たそう。"
詩篇 81篇 10節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会
"あなたの国の中の暴虐、あなたの領土のうちの破壊と破滅は、もう聞かれない。あなたは、あなたの城壁を救いと呼び、あなたの門を賛美と呼ぼう。
太陽がもうあなたの昼の光とはならず、月の輝きもあなたを照らさず、主があなたの永遠の光となり、あなたの神があなたの光栄となる。
あなたの太陽はもう沈まず、あなたの月はかげることがない。主があなたの永遠の光となり、あなたの嘆き悲しむ日が終わるからである。
あなたの民はみな正しくなり、とこしえにその地を所有しよう。彼らはわたしの栄光を現す、わたしの植えた枝。わたしの手で造ったもの。
最も小さい者も氏族となり、最も弱い者も強国となる。時が来れば、わたし、主が、すみやかにそれをする。"
イザヤ書 60章 18〜22節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会
"あなたがたのよいと思うように、王の名で書き、王の指輪でそれに印を押しなさい。王の名で書かれ、王の指輪で印が押された文書は、だれも取り消すことができないのだ。」"
エステル記 8章 8節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会
「あなたがたのよいと思うように、王の名で書き、」=主の御名によって祈り求めること
「指輪で印を押す」=祈り求めたものがすでに与えられていることを感謝し賛美すること。御心ですか?叶えてくれますか?許可していただけますか?印を押していただけますか?と待つ必要はない。御心にかなう願いはすでに与えられていますと感謝し賛美して印を押せ。そうすれば感謝し賛美した通りのことが実現する。
「だれも取り消すことができない」=必ず実現する
「求め続ける祈り」が「与えられたと信じ感謝し賛美し続ける賛美の門」に変わる時、聖徒たち、教会は本来の姿を取り戻し、賛美の外套を着て立ち上がる。その時、賛美の外套を着た聖徒たち、教会によって、廃墟は建て直され、リバイバルと主の栄光が地に満ちるようになる。
"シオンの悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるためである。彼らは、義の樫の木、栄光を現す主の植木と呼ばれよう。
彼らは昔の廃墟を建て直し、先の荒れ跡を復興し、廃墟の町々、代々の荒れ跡を一新する。"
イザヤ書 61章 3〜4節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会
"だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。"
マルコの福音書 11章 24節
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"してみると、あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。"
マタイの福音書 7章 11節
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"父は彼に言った。『子よ。おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ。"
ルカの福音書 15章 31節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会
"王は彼女に言った。「どうしたのだ。王妃エステル。何がほしいのか。王国の半分でも、あなたにやれるのだが。」"
エステル記 5章 3節
"その酒宴の席上、王はエステルに尋ねた。「あなたは何を願っているのか。それを授けてやろう。何を望んでいるのか。王国の半分でも、それをかなえてやろう。」"
エステル記 5章 6節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会
"この酒宴の二日目にもまた、王はエステルに尋ねた。「あなたは何を願っているのか。王妃エステル。それを授けてやろう。何を望んでいるのか。王国の半分でも、それをかなえてやろう。」"
エステル記 7章 2節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会
"あなたがたのよいと思うように、王の名で書き、王の指輪でそれに印を押しなさい。王の名で書かれ、王の指輪で印が押された文書は、だれも取り消すことができないのだ。」"
エステル記 8章 8節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会
"だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。"
マルコの福音書 11章 24節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会
"あなたがたのよいと思うように、王の名で書き、王の指輪でそれに印を押しなさい。王の名で書かれ、王の指輪で印が押された文書は、だれも取り消すことができないのだ。」"
エステル記 8章 8節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会
"何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。
私たちの願う事を神が聞いてくださると知れば、神に願ったその事は、すでにかなえられたと知るのです。"
ヨハネの手紙第一 5章 14〜15節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会
"あなたがたのよいと思うように、王の名で書き、王の指輪でそれに印を押しなさい。王の名で書かれ、王の指輪で印が押された文書は、だれも取り消すことができないのだ。」"
エステル記 8章 8節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会