シャロームを所有する

私は預言の賜物の回復を願っている。しかし私は預言の賜物を否定する方々を心から尊敬し感謝している。私が預言の賜物を熱心に求めて聖書に従うためなら…私は預言の賜物を否定する方々を不満に思い…全て感謝せよと語る聖書に逆らってよいだろうか?預言を認める牧師先生だけ尊敬し…預言の賜物を否定する牧師先生含む5役者や教団教派の方々を尊敬せず…互いに尊敬しなさいと語る聖書に逆らってよいだろうか?自分が建てたい御言葉を建て上げるために他の御言葉を壊してできた砂の上に自分が建てたい御言葉を建て上げ…家を建ててよいのだろうか?

「④神の御国を地上に来たらせる権威④王の指輪の印を押す」

天の御国の鍵によって、天の御国を呼び出すことができるとは言っても、

天の御国にあるものを、天の御国の鍵でなんでもかんでも自分の目的のために呼び出して利用できるというわけではない。

だから、イエス様の弟子のヤコブヨハネが言っていたみたいに「主よ。私たちが天から火を呼び下して、彼らを焼き滅ぼし…」…たりすることはもちろんできない。旧約聖書の箇所の引用、御言葉の引用ではあるが、火の粉すら降っては来ない。

教会や聖徒が天の御国の鍵によって天から呼び出すことができるものは「神の御心にかなっているもの」だけだ。

しかし、神の御心にかなってさえいれば、どんな病の癒しであろうと、その他、病の癒しに限らず、ありとあらゆる「神の御国にある祝福」=「天にある天上の祝福」を呼び出し、神の御国を地上に来たらせることができる権威が与えられている。何故なら天の御国の鍵が与えられているからだ。

この天の御国の鍵の権威を有効にするためには、教会や聖徒が「王の指輪で印を押すこと」が必要だ。

今のほとんどの既存の教会の聖徒は「あなたがたのよいと思うように、王の名で書き、」と聖書に書かれていることまでは実行している。つまり、「王イエスキリストの御名によって願いを書く」=「王イエスキリストの御名によって願いを祈る」ことまでは実行している。

しかし、その続きに書いてある「王の指輪でそれに印を押すこと」をしていない。

「王の名で書かれ、王の指輪で印が押された文書は、だれも取り消すことができないのだ」と聖書に書いてある通りに、「王の名で書かれること」だけではなく、「王の指輪で印が押されること」によって、だれも取り消すことができない神の御国の王の権威を帯びた文書となる。

「王イエスキリストの御名によって願いを祈り」=「あなたがたのよいと思うように、王の名で書き」まではしているが、「王の指輪でそれに印を押す」ことをせずに…「主よ…これが私の願いなのですが…かなえていただけますか?私のこの願いは主の御心にかなっているでしょうか…?許可していただけますか?判子を押してくださいますか?」と主が判子を押してくださるのをいつまでも忠実に待っている。

もちろん主に忠実で忍耐し続ける者に主は必ず良くしてくださる。

もちろん、「あなたがたのよいと思うように、王の名で書く」=「王イエスキリストの御名によって願いを祈る」だけでも確かに大いなる力がある。

「あなたがたのよいと思うように、王の名で書いた」だけの「文書」=「祈り」に主はしっかりと目を留めてくださる。

しかし、地上の常識では理解しがたいことだが…「判子はすでにあなたに与えているから判子を自分で押してしまいなさい」というのが神の御国の王のご意志、選択だ。これは主の選択なので私たちの目には不思議に見え、理解しがたいことだ。

会社のトップの判子を部下たち1人1人が持っていて、部下たち1人1人が願い通りの書類をつくって、会社のトップの判子を押すことができる…などということは、この世の社会の常識では考えられないことだ。

「判子をすでに与えているから判子を自由に押しなさいだなんて…間違って御心じゃないことに判子を押してしまっていたらどうするんですか…?」…と思うだろうか?そんな心配は無用だ。神の御心にかなっていなければ、与えられている判子を押したところで全く実現することはない。

…しかし、問題なのは…「御心ではないことに判子を押してしまうこと」…ではなくて…『主の御心であるのに、判子を押していないので実現していないこと』だ。

このことについては、ヤコブの手紙 1章 5〜7節を見ると理解しやすくなるだろう。ヤコブの手紙 1章 5〜7節には、神の御心にかなっているので求めれば与えられるはずの知恵ですらも、少しも疑わずに、信じて願うのでなければもらうことができないことについて書いてある。

だから…「主よ…私のこの願いは主の御心にかなっているでしょうか?かなっていないでしょうか?」とか「主よ…もしも御心でしたら私のこの願いをかなえてください…」とかだと、「そういう人は、主から何かをいただけると思ってはなりません」と驚くほどにきっぱりとヤコブの手紙に書いてある。

"あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。
ただし、少しも疑わずに、信じて願いなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。
そういう人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。"
ヤコブの手紙 1章 5〜7節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会

しかし、実際は「御心でしたら…」と祈った祈りがいくつも叶えられていることをかなり頻繁に見聞きする。しかし、「御心でしたら…」という祈り方をしていて、叶えられていることは主の恵み…ということなのかもしれない。

あるいは、「もしも主の御心でしたら…」と祈っているのであれば、ダニエルのところにガブリエルが来るためにガブリエルが21日間も敵に妨げられていて、ミカエルが助けに来てくれて、ようやくダニエルのところにガブリエルが到着した時かそれ以上に、

ガブリエルとかミカエルよりも下級の御使いがそれはそれはもう非常に苦労して到着してようやく御心にかなった願いが地上で実現しているが…

「与えられている判子を自分で押す権威を帯びた祈り」をすると御使いが苦労せずにすんなりと到着できる…とかなのかもしれない。

しかし、この妨害はイエスキリストが十字架にかかる前の旧約時代のことなので、イエスキリストの十字架以降は、サタンとサタンの配下は地に投げ落とされているから…旧約のダニエルの時代のような妨害はできないはずだが…

はっきりしていることは…神が教会と聖徒に与えている権威を理解して用いるか、用いないかで神の御心が地上で実現する広さ高さ深さ、はやさが大きく違ってくるということだ。

さあ、だから、ほしいものがあるなら、主に願うだけでなく、「私が願っているこの願いは主の御心です!主の御心は必ず実現します!」と言い現すことによって大胆に判子を次々に押して次々に神の御心=神の御国をこの地上に来たらせよう。

与えられている天の御国の鍵の権威を用いるために、天の御国の王の名で書き、天の御国の王の指輪でそれに印を押し、天の御国をこの地に来たらせよう。天の御国の王の御心が天でなるごとく地にもなるために。ハレルヤ

"あなたがたのよいと思うように、王の名で書き、王の指輪でそれに印を押しなさい。王の名で書かれ、王の指輪で印が押された文書は、だれも取り消すことができないのだ。」"
エステル記 8章 8節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会