シャロームを所有する

私は預言の賜物の回復を願っている。しかし私は預言の賜物を否定する方々を心から尊敬し感謝している。私が預言の賜物を熱心に求めて聖書に従うためなら…私は預言の賜物を否定する方々を不満に思い…全て感謝せよと語る聖書に逆らってよいだろうか?預言を認める牧師先生だけ尊敬し…預言の賜物を否定する牧師先生含む5役者や教団教派の方々を尊敬せず…互いに尊敬しなさいと語る聖書に逆らってよいだろうか?自分が建てたい御言葉を建て上げるために他の御言葉を壊してできた砂の上に自分が建てたい御言葉を建て上げ…家を建ててよいのだろうか?

⑦シャロームの回復【全てのことを神に感謝することができていない理由】

1️⃣『全て神に感謝』

「全てのことについて神に感謝すること」は「神の命令」であり「聖書の要求」であり「神の御心」であることは多くの人々がすでに知っている。……だから、神を愛し神に従順したいと強く願う人々は「全てのことについて感謝すること」ができるようになろうと大いに努力している。……📖"すべての事について、感謝しなさい。"
テサロニケ人への手紙第一 5章 18節

……しかし……ほとんど誰も「過去現在含む全てのことについて感謝」できるようになることはできていない。……努力が足りないからだろうか?……心身が弱ったり病気になるほどに努力している人たちもおられるのだから努力が足りないことが原因であるとは思えない。……しかし……努力が足りていようとも……もし……『鍵』を持っていなかったら……誰が家に入ることができるのだろうか……

📖"知識のかぎ"
ルカの福音書 11章 52節

📖"私は、彼らが神に対して熱心であることをあかしします。しかし、その熱心は知識に基づくものではありません。"
ローマ人への手紙 10章 2節

📖"熱心だけで知識のないのはよくない。急ぎ足の者はつまずく。"
箴言 19章 2節

2️⃣『入れない』

『鍵』がないのであれば誰であろうとも、どんなに心身が弱り病気になるほどに努力し続けていようとも……家に入ることができないことはほとんどの人が知っていることだ。……しかし……「全てのことについて感謝できる」という家に入ろうとどんなに努力し続けていても『鍵を持たない者は誰も入ることができないこと』についてはあまり知られていないのかもしれない……

「全てのことについて感謝できること」は「神の御心」であるだけではなくて……『神の祝福』であるから……「鍵」を持たない者はどんなに努力し続けていても「全てのことに感謝できる祝福」の中に入ることはできない。

……しかし……「全てのことについて感謝すること」が「神の命令」であることは理解していても……「全てのことについて感謝できること」が「神の祝福」であることを理解していない人々が多いのかもしれない。……『鍵』を持っていないままで努力によって、どうにかして「全てのことについて感謝」できるようになろうとすることは……「全てのことについて感謝できる祝福」の「ドア」「門」に入るための鍵を持っていないにもかかわらず努力によって「ドア」「門」を無理やりに開いて入ろうとしていることと同じようなことであるから……鍵を持っていないにもかかわらず「家」「ドア」「門」に入ろうとしている「どろぼう」「強盗」「盗人」と同じようなことをしてしまっていることにならないだろうか……

📖"門から入らないで、ほかの所を乗り越えて来る者は、盗人で強盗です。"
ヨハネ福音書 10章 1節

3️⃣『全て感謝の鍵』

「全てのことについて感謝できる」ようになることは「神の御心」「神の命令」「聖書の要求」であるだけでなく、「全てのことについて感謝できる」ようになることは『神の祝福』だ。「全てのことについて感謝できるようになる祝福の所有者」=「シャロームの所有者」になることができる『鍵』は「全ての人を尊敬すること」だ。

📖"尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。"
ローマ人への手紙 12章 10節

4️⃣『ドア』

「全てのことについて感謝できるようになる祝福」だけではなくて……その他のありとあらゆる祝福の中に、全ての人々が招かれている。……しかし……ありとあらゆる「神の祝福」の中に誰でも入ることができているわけではない。

「神の祝福」には無条件で与えられる祝福(=恵み)と、条件(=鍵)が要求される条件付(=鍵付)の祝福がある。……と言えば理解しやすいのかもしれない。……しかし……「鍵付の祝福」という表現は……やや不正確で事実からずれた表現になってしまっている。……何故なら……「条件付の祝福」とか「鍵付の祝福」と言っても……神が祝福の家のドアを、鍵がないと開くことができないように閉じて、鍵付のドアにしたのではないからだ。

5️⃣『開かれたドア』

神はありとあらゆる祝福の中に入ることができるようにイエスキリストの十字架によって全ての祝福のドアを開いてくださっていて……神は全ての祝福をすでに与えてくださっていることについて聖書に……"神はキリストにあって、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。"……と書いてある。

……しかし……人は神が開いてくださったありとあらゆる『祝福のドアを閉じる選択』をすることができる。……だから……「鍵付の祝福」と表現すると……まるで 神が鍵をかけたような錯覚を与えてしまいかねない。「鍵付の祝福」とは「神が開いてくださっていた祝福のドアを自らの手で閉じて鍵付にしてしまっている祝福のドア」であるのだから……

6️⃣『選択』

神は全ての人に『神のシャローム』を与えるために、イエスキリストの十字架によって……全ての人が『神のシャローム』の中に入ることができるようにドアを開いてくださった。……「神のシャローム」の家の中に『神のシャロームの祝福』があり……『神のシャロームの祝福』の中に「全てのことについて感謝できるようになる祝福」も含まれている。

……しかし……『誰かを尊敬しないこと』によって……「全てのことに感謝できるようになる祝福」を含んでいる『神のシャロームの祝福』の中に入ることができるように神がイエスキリストの十字架によって開いてくださっていたドアを……『再び閉じて鍵をかけてしまうこと』ができる。

「誰かのことを尊敬しないという選択」は……『その尊敬できない誰かについて神に感謝しないという選択』であるから……「全てのことについて神に感謝しなさいと語る聖書の要求を拒絶するという選択」であるため……「誰かを尊敬しないという選択をすること」は『神のシャロームを拒絶する選択』をしていることになる。

……神のシャロームに同意せずに拒絶している者はどんなに努力し続けていても「全てのことについて感謝できる祝福」の家の中に入ることができない。

「神のシャロームを拒絶するなんてことは絶対にしていない」……と思う方々は多いかもしれない。しかし……「神のシャロームを拒絶するなんてことは絶対にしていない」ということばは正確な表現ではない。「神のシャロームを拒絶するなんてことは絶対にしていない」……のではなくて……「神のシャロームを拒絶するなんてことは絶対にしたくない」……と非常に強く願ってはいるものの拒絶を選択している……

📖"口では言いますが、行いでは否定しています。"
テトスへの手紙 1章 16節

神のシャロームを求め願わないクリスチャンはほとんどいないように、神の赦しを求め願わないクリスチャンもほとんどいないだろう……しかし……聖書には……"人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません。"……と書いてある。『神が与えた赦しの恵みを神が取り去ってしまうことはない』が……「誰かを赦さない選択」によって……『神が与えてくださった赦しを拒絶してしまうこと』はできる。

📖"あなたがたの咎が、これを追い払い、あなたがたの罪が、この良い物を拒んだのだ。"
エレミヤ書 5章 25節

📖"もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。
しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません。"
マタイの福音書 6章 14〜15節

7️⃣『尊敬』

もしかしたら……「尊敬できない誰か」がいたとしても「全てのことを神に感謝すること」はできると思っている人たちがいるかもしれない。私も「誰かを尊敬しないこと」と「神に全てのことを感謝すること」は同時に両立できることだと思っていた時期がある。……しかし……「誰かを尊敬しないこと」と「神に全てのことを感謝すること」は両立できない。「尊敬できない誰かが1人でもいる」なら「神に全てのことを感謝すること」はできていない。何故なら、「尊敬できていない人」は「赦せていない人」であり、「貴方がなんらかの不満や怒りを感じずにはいられない人」であるから……不満や怒りを感じている人が1人でもいるのであれば……「神に全てのことについて感謝できている」と言うことはできないことになる。……神に非常に多くのことで感謝していたとしても『感謝に1つでも欠けがある』のであれば……「全て」ではないことになるからだ。

それでもなお「尊敬できない人」や「赦せない人」がいても神に全てのことを感謝することはできると思い続ける人がいるかもしれない。私も尊敬できない人を見下していながら全てのことについて神に感謝することはできていると思っていた時期がある。尊敬できない人を見下しながら神に感謝していた私の感謝の名前は『優越感』だ。……私は「優越感」という甘い酒に酔い浸りながら心から神に感謝していた。確かに心から神に感謝していた。感謝している演技をしていたのではなくて心から神に感謝していた。……しかし……私の「優越感」がどこから来ていたかといえば……私の「高ぶり」や「傲慢」から来ていた。そんな黒く濁って腐敗した水のような感謝の祈りを神に捧げていながら「私は神に全てのことについて感謝できている」と心から思っていた私は……"神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。"と祈ったパリサイ人となにがどうちがうと言えるのだろうか……

そもそも誰かを尊敬できていない人の賛美についてはっきりと聖書にこう書いてある。……📖"私たちは、舌をもって、主であり父である方をほめたたえ、同じ舌をもって、神にかたどって造られた人をのろいます。
賛美とのろいが同じ口から出て来るのです。私の兄弟たち。このようなことは、あってはなりません。"……"神にかたどって造られた人"……とは誰のことだろうか……「自分自身」と「全ての人」だ。

……もしかしたら……私の知識が不足していて……「尊敬できない人」や「赦せない人」がいても神に全てのことを感謝することは可能なことなのに不可能なことだと私が勝手に思い込んでしまっているだけなのかもしれない……

世界のどこか……日本のどこかに……「尊敬できない人」や「赦せない人」はいるものの……全てのことを神に感謝することを実行できている人が何人かいるかもしれない。

……しかし……聖書には……"尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。"……とも書いてある。

「尊敬できない人」や「赦せない人」はいるものの、全てのことを神に感謝することが実行できている方々は……"尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。"……と書いてある聖書の御言葉を実行できているだろうか?

8️⃣『自分よりまさっている』

「勝手きままに多くの人を殺した者をいったいどうやって尊敬しろと言うのか?」……と思う方々がおられるかもしれない。……勝手きままに多くの人を殺した者は……何故……勝手きままに多くの人を殺したのだろうか?……パンを盗んだ者は何故パンを盗んだのだろうか?あまりにも空腹だからだろう……「あまりにも空腹な時にも私は盗んだりなんてしなかった」……と思う方々もいるだろう……しかし……貴方がそう思えるのは、貴方がそう思える貴方になることができるきっかけやなんらかの恵みがあったからだ。

📖"神の恵みによって、私は今の私になりました。"
コリント人への手紙第一 15章 10節

……空腹だけではなくて……その人がうまれた家にうまれ、その人が生きた人生と全く同じ人生を生き続けたとしても……パンを盗まない……勝手きままに多くの人を殺したりなんてしない……などといったことをいったい誰が言うことができるだろうか?過去に戻って将来犯罪者となる赤子の体に貴方の霊と魂を入れても貴方が犯罪者にならないかどうかを知っておられるのは神だけだ。……だから……私は……「もし私がこの人と全く同じ環境の中で全く同じ日々を生きることになっていたら……私はこの人よりもさらに悪いことを、この人よりもさらにたくさんしてしまっていたにちがいない」……と思うことによって……"尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。"……と書いてある聖書のことばを実行することを選択する。

📖"何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。
自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。"
ピリピ人への手紙 2章 3〜4節

"尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。"
ローマ人への手紙 12章 10節

"すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。"
テサロニケ人への手紙第一 5章 18節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会