シャロームを所有する

私は預言の賜物の回復を願っている。しかし私は預言の賜物を否定する方々を心から尊敬し感謝している。私が預言の賜物を熱心に求めて聖書に従うためなら…私は預言の賜物を否定する方々を不満に思い…全て感謝せよと語る聖書に逆らってよいだろうか?預言を認める牧師先生だけ尊敬し…預言の賜物を否定する牧師先生含む5役者や教団教派の方々を尊敬せず…互いに尊敬しなさいと語る聖書に逆らってよいだろうか?自分が建てたい御言葉を建て上げるために他の御言葉を壊してできた砂の上に自分が建てたい御言葉を建て上げ…家を建ててよいのだろうか?

⑥シャロームの回復【私は『主の臨在』という1つの点を求めている】【主の臨在のドアを開くことができるダビデの幕屋を求めている私の旅路という大きな円{◯}の中心には『主の臨在』という1つの点{・}があり、『主の臨在』という1つの点に向かう1つの直線{―}の中にはいくつかの点{....}がある】

 

私が聖霊に満たされて異言を語るようになって以降……神の臨在の現れを何度も何度も実体験するようになった……中でも私の内側に「下から上にわき上がりのぼり続ける泉のような上昇気流」が感じられる臨在は私が最も好む「臨在の現れ」の1つで、1度体験してしまうと……もう1度体験したいと求めずにはいられないほどに中毒性が非常に強い……霊肉魂に非常に悪影響を与えるものにも中毒性はあるが、非常に良いものにも中毒性はある。……聖書にこう書いてある……"また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。"
エペソ人への手紙 5章 18節

私は臨在を追い求め続け、待ち望み続けた。

待ち望む期間は徐々に長くなったが、待ち望む期間が長いと前よりももっと深い臨在に満たされた。

そのような体験を歩いた私の求めは「主の臨在」になった。

私が聖霊に満たされて異言を語るようになって以降、「主の臨在」を求める旅路がはじまった。

「主の臨在」を求める私の旅路の初期はヤコブのように他者をおしのけてでも「主の臨在」を得たいという願いに激しく満たされていた。

しかし、いつだったか思い出すことはできないが、あのこと、このこと、色々なことがあって、いつの間にか、私が臨在を体験できることは非常に感謝だが……「主の臨在を私が受けるよりも他者が主の臨在を受けることができるドアを開きたい」……そのようなことをうっすらと願うようになっていた頃に……「霊の歌」=「テヒーラ」がドアを開くことができると知り……私は「主の臨在のドアを開くことができる霊の歌(=テヒーラ)」を求めるようになった……

「主の臨在のドアを開くことができる霊の歌(=テヒーラ)」を求め歌い続ける日々を過ごしていると……私の歌唱力をこえている私の歌ではない歌……私のメロディーではないメロディー……私のリズムではないリズム……が川のように流れるようになり……私の選曲ではない賛美のメロディーが流れ……流れるままに私が選曲したのではない賛美をひととおり歌うと……私が選曲したのではない次の賛美のメロディーが流れだし……「ああ……このメロディーも知っている……このメロディーはあの有名な賛美のメロディーだ……」……と思い……歌う……そして……「ああこんなに流れるように次々に賛美できるなら……何時間でも賛美できるかもしれないし、ダビデの幕屋のように賛美し続けることができるかもしれない……」……と思った……

そして、この時から「ダビデの幕屋」を求め続ける旅路がはじまった。

そして、「ダビデの幕屋」を求め続ける旅路を何年も歩き続け、「ダビデの幕屋」も「主の臨在」も私の1番の求めではなくなり、「イザヤ書の賛美の外套の回復」「キリストの体が互いに尊敬し互いに教え合い互いに教えられ合うことができるようになることの回復」……色々なことを求めるようになり……

あなたの求めビジョンはどんなことですか?と質問されたら、「ダビデの幕屋」と言えばいいのか……「キリストの体が互いに尊敬し教え合うことの回復」と言えばいいのか……「海外に存在している現代の使徒たちの教えを拒み鎖国している現状が解かれること」と言えばいいのか……「知恵のことばの賜物、知識のことばの賜物、預言の賜物の回復」と言えばいいのか……あれもこれもと1つ1つ言えばいいのか……と思っていたが……

今、あなたの求めビジョンはどのようなことですか?と質問されたら私は「ダビデの幕屋」と返答することができる。

私は1つのことを求めている……「主の臨在」を求めている。だから私は「主の臨在のドアを開くことができるダビデの幕屋」を求めている。

私が主に「主の臨在」を求めたので、主は「ダビデの幕屋」を求めるように導いてくださった。

私が「主の臨在」を求めて「主の臨在」という「1つの点」に向かって歩きはじめた時、「霊の歌」という点に導き、「霊の歌」という点から「ダビデの幕屋」という点に導き、「ダビデの幕屋」という点から「賛美の外套」という点に導き「賛美の外套」という点から「互いに教え合うことの回復」という点や「知恵のことばの賜物、知識のことばの賜物、預言の賜物の回復」という点や「現代の使徒たちの教えを鎖国している現状からの回復」という点……その他にも色々な点に導いてくださった。……これら1つ1つの点は「主の臨在」という1つの点に向かう1つの直線であり……「主の臨在」という1つの点に向かう1つの直線は「ダビデの幕屋」という円の中にある。

ダビデの幕屋」という絵の中に、私が求めているあのことも、このことも、あの点もこの点も全てが含まれている。

私が1つの点であるかのように思っていた「ダビデの幕屋」は大きな円だった。

私は主に1つのことを求めた……私は「主の臨在」を求め……「主の臨在のドアが開かれること」を求めた……

「主の臨在のドアが開かれること」を求めた私に主は「ダビデの幕屋」を求めさせるために、私に「霊の歌(=テヒーラ)」を求めさせ……「ダビデの幕屋」を求めるようになった私に「ダビデの幕屋」を実現させるために必要なあのこと、このことを求めるように導いてくださった。

私の願い求めビジョンは1つだ。私は「主の臨在」を願っているので「主の臨在のドアを開くことができるダビデの幕屋」を求めている。

あのことも、このことも、あの求めも、この求めも……「主の臨在のドアを開くことができるダビデの幕屋」を求める旅路の通過点でありプロセスであり……「主の臨在のドアを開くことができるダビデの幕屋」の材料、器具であることを私は知ることができた。

……私は『主の臨在』という1つの点を求めている……

……主の臨在のドアを開くことができるダビデの幕屋を求めている私の旅路という大きな円{◯}の中心には『主の臨在』という1つの点{・}があり、『主の臨在』という1つの点に向かう1つの直線{―}の中にはいくつかの点{....}がある……

"あなたのパンを水の上に投げよ。ずっと後の日になって、あなたはそれを見いだそう。"
伝道者の書 11章 1節
"あなたは妊婦の胎内の骨々のことと同様、風の道がどのようなものかを知らない。そのように、あなたはいっさいを行われる神のみわざを知らない。
朝のうちにあなたの種を蒔け。夕方も手を放してはいけない。あなたは、あれか、これか、どこで成功するのか、知らないからだ。二つとも同じようにうまくいくかもわからない。"
伝道者の書 11章 5〜6節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会