シャロームを所有する

私は預言の賜物の回復を願っている。しかし私は預言の賜物を否定する方々を心から尊敬し感謝している。私が預言の賜物を熱心に求めて聖書に従うためなら…私は預言の賜物を否定する方々を不満に思い…全て感謝せよと語る聖書に逆らってよいだろうか?預言を認める牧師先生だけ尊敬し…預言の賜物を否定する牧師先生含む5役者や教団教派の方々を尊敬せず…互いに尊敬しなさいと語る聖書に逆らってよいだろうか?自分が建てたい御言葉を建て上げるために他の御言葉を壊してできた砂の上に自分が建てたい御言葉を建て上げ…家を建ててよいのだろうか?

1ー⑦「モーセの幕屋型のキリストの体から、ダビデの幕屋型のキリストの体へと移り変わる時代……イエスキリストが死なれたのは神の民エクレシアが永遠に生きるため。イエスキリストの体が裂かれたのは、キリストの体であるそれぞれの教団・教派・グループの隔ての壁が崩されて一致した1つのキリストの体となるため。十字架にかけられたイエスキリストが天の父に見捨てられ、聖霊が離れ去ったのは、エクレシアを神の住まいとならせ天の父御子御霊が永遠に共に住むため」


神は天からイエスキリストを送ることを計画した。……しかし、天から「イエスキリスト」を送る前に、天から「律法」を送り、神の民が天から送られた「律法」の下に置かれる「段階」が必要であったことについて聖書に以下のように書いてある。

"律法とは何でしょうか。それは約束をお受けになった、この子孫が来られるときまで、違反を示すためにつけ加えられたもので、御使いたちを通して仲介者の手で定められたのです。"
ガラテヤ人への手紙 3章 19節
"信仰が現れる以前には、私たちは律法の監督の下に置かれ、閉じ込められていましたが、それは、やがて示される信仰が得られるためでした。
こうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。私たちが信仰によって義と認められるためなのです。
しかし、信仰が現れた以上、私たちはもはや養育係の下にはいません。"
ガラテヤ人への手紙 3章 23〜25節

天から『イエスキリスト』が送られる前に、天から『律法』が送られ、『律法』という養育係が高く上げられ、『律法』という養育係の下に置かれ続けていた道備えの時代が神の民に必要であったように……キリストの体である異邦人のエクレシアも、それぞれの「教団・教派・グループ」の一致が実現する時代の前に、『5役者』という養育係が高く上げられ、『5役者』という養育係の下にキリストの体が置かれ続ける道備えの時代が必要であった。

神には「計画」「目的」「ゴール」がある。神の「ゴール」に到達し、神の「計画」「目的」が実現するためには、「道備え」「段階」「コース」が必要だ。

例えば、約束の子イサクの誕生は「目的」「ゴール」だ。サライ不妊は「段階」「コース」だ。

サライ不妊でなかったなら……アブラムとサライに子どもがうまれました。めでたしめでたし……ということになってしまい、アブラムとサライはアブラムとサライのままで、約束の子イサクも信仰の父アブラハムも全ての国民の母サラも不在の歴史になってしまっていたことだろう。

サライ不妊という「段階」「コース」の中で、神はアブラムとサライをテストして試し、成長させ、整え、約束の子イサクの父母とならせ、信仰の父アブラハムと全ての国民の母サラとならせた。……だから「サライ不妊」は神の「計画」「目的」が実現するために必要な「道備え」「段階」「コース」であった。

アブラムとサライにとっては約束の子イサクがうまれることは「ゴール」だが、その後の時代の神の民にとっては、約束の子イサクがうまれることは「ゴール」ではなくて、すでに完了した1つの「道備え」すでに渡り終えた1つの「コース」になっている。

例えば、エジプトで奴隷になっていた神の民にとっての「ゴール」は「イサク誕生」ではない。エジプトで奴隷になっていた神の民はアブラハムから誕生したイサクの子孫であるヤコブの血筋であったので、「ゴール」はイサクの誕生ではなくて、約束の地カナンに入ることだ。

約束の地カナンに入るという「ゴール」の前には「エジプトで奴隷とされること」と「荒野」という「段階」「コース」が必要だった。「エジプトで奴隷とされること」と「荒野」という「道備え」「段階」がなければ……カナンという地名のところに行きました。めでたしめでたし……とはならず、カナンという地名のところに行くとカナン人に支配されてしまいました……とかになってしまっていたことだろう。……「エジプトで奴隷とされる日々」と「荒野の日々」に現された神の救いと栄光と証しを見ていないのであれば、ヨシュアとカレブはカナンの地に入って勝利することができる信仰者に育ってはいなかっただろう。

そして、約束の地カナンに入った時から、約束の地カナンに入ることは「ゴール」ではなくなっている。それはすでに完了し、すでになしとげられた1つの「段階」「道備え」となっているからだ。

それぞれの時代には、それぞれの「ゴール」があり、次の時代には次の時代の「ゴール」があり、前の時代の1つ1つの「ゴール」は今の時代の1つ1つの「道備え」「段階」「コース」となっている。

旧約聖書の時代に神の1つ1つの「計画」「目的」が実現している。

そして、新約聖書の時代の神の民であるエクレシアにとっては、旧約聖書の時代の1つ1つ、全てが「道備え」「段階」「コース」になっていた。

そして、現代のキリストの体であるエクレシアにとって、旧約聖書の時代の全ても、新約聖書の時代の全ても、これまでの過去の全て、それらの1つ1つが「道備え」「段階」だ。

過去の1つ1つの「道備え」「段階」は階段のようだ。小さな区切りと大きな区切りがある。大きな区切りは「旧約聖書の時代」と「新約聖書の時代」であり、「旧約聖書の時代」にも「新約聖書の時代」にも、それぞれに大小様々ないくつもの区切りがある。

新約聖書の時代』『イエスキリストの時代』は『旧約聖書の時代』『律法の時代』の後に来る。

旧約聖書の時代』『律法の時代』という「道備え」「段階」がまだ整っていなかった時代には『新約聖書の時代』『イエスキリストの時代』はまだ開かれていなかった。

旧約聖書の時代』『律法の時代』という「道備え」「段階」が整った時に、天からイエスキリストが送られて『新約聖書の時代』『イエスキリストの時代』が開かれた。

新約聖書の時代』『イエスキリストの時代』が来るために『旧約聖書の時代』に『律法』によって神の民が整えられることが必要であったように……「キリストの体であるそれぞれの「教団・教派・グループ」が一致することが実現する時代」は「キリストの体であるそれぞれの教団・教派・グループが分裂している時代」の後に開かれる。

神の民に『律法の時代』という養育係の下に置かれる「道備え」「段階」が必要であったように、キリストの体である異邦人のエクレシアにも養育係の下に置かれる長い歴史と多くの時代が必要だった。

キリストの体である異邦人のエクレシアに神が養育係として与えてくださっているのは『律法』ではなくて『5役者』たち、『使徒預言者、伝道者、牧師、教師』たちの『教え』だ。

キリストの体である「教団・教派・グループ」が一致することができていないのは、「5役者」たち「使徒預言者、伝道者、牧師、教師」たちが、それぞれの「教団・教派・グループ」で非常に高く上げられているからだ。

養育係である律法が高く上げられていた旧約聖書の時代には異邦人と関わることは、養育係である律法によって「タブー」「忌むべきこと」とされていた。

養育係である律法によって整えられる「時代」「道備え」「段階」が完了していなかった旧約聖書の時代は異邦人と関わることは「タブー」「忌むべきこと」とされていた。

キリストの体である異邦人のエクレシアも養育係である5役者によって整えられる「時代」「道備え」「段階」がまだ完了していなかった時代には他の「教団・教派・グループ」と関わることは、それぞれの「教団・教派・グループ」の「リーダー」「5役者」の「教え」によって「タブー」「忌むべきこと」と伝達されている必要があった。

それは、キリストの体である異邦人のエクレシアの幼子たちが迷子にならないため、自分を神がその「教団・教派・グループ」の中に置いておられる「意味」「目的」「計画」と出会い、神の王国の中にいる自分自身にたいする神の「目的」「計画」を知り、神の王国の中にいる自分自身のアイデンティティーを知るためだ。「自分が生まれ育った環境や家族や家庭」、「自分が所属している教団・教派・グループ」、「自分が所属している教会」の中で、自分自身にたいする神の「計画」「目的」を語る神からのメッセージや影やシルエットや輪郭やヒントを得ることができる。自分自身が今置かれている場所、領域の外にも隠された宝はあるが、外に宝探しに行くよりも重要なことは、自分自身が今置かれている場所にこそ自分自身のアイデンティティーを告げる重要な「ことば」「地図」「シルエット」「ヒント」を神は置いておられることを知り出会うことだ。

「5役者」たち「使徒預言者、伝道者、牧師、教師」たちが、それぞれの「教団・教派・グループ」で非常に高く上げられていて、城壁のようになっていて、それぞれの「教団・教派・グループ」のリーダーが他の「教団・教派・グループ」と関わることを「忌むべきこと」と認識し禁じていることは、自分自身を、その「教団・教派・グループ」に所属させた神の「計画」「目的」の理解を深めてくれるが、それだけでは、キリストの体である「教団・教派・グループ」は一致することはできない。

……では、それぞれの「教団・教派・グループ」の「リーダー」「5役者」たちが、低くされたらキリストの体である「教団・教派・グループ」は一致できるのか……?

……一致することができる。……ただし、「5役者」たちの「教え」をDNAと心に深く刻み込まれたキリストの体であるならば……
一致できる。

「5役者」の「教え」によって整えられていない幼子のようなキリストの体は一致できない。一致したいと思うことすらない。

だから、まず、幼子のようなキリストの体に5役者の教えが深く刻み込まれるためには、幼子にとっての父母のように5役者が高く上げられていて、幼子が父母の怒りを恐れるように、5役者のことを恐れている必要があった。

もし、5役者が高く上げられていないなら、幼子のようなキリストの体は5役者の教えを聞こうともしないからだ。

神の民に天からイエスキリストが与えられる前に、神の民に天から律法が与えられ、神の民が養育係である律法の下に置かれ、律法によって神の民が整えられ、律法がDNAと心に深く刻み込まれた民として整えられている必要があったように……キリストの体である異邦人のエクレシアも整えられるために長い歴史と長い時代が必要だった。

キリストの体である異邦人のエクレシアを整えるために神が天から与えてくださっているものは「律法」ではなくて「5役者」だ。

キリストの体であるそれぞれの「教団・教派・グループ」の「リーダー」「5役者」たちが高く上げられていると、キリストの体である「教団・教派・グループ」は一致することができない。

しかし、「5役者」が高く上げられていないと、まだ幼子のような異邦人のエクレシアは「5役者」の教えを聞こうとしないので「5役者の教え」によって整えられることができない。

「5役者の教え」によって整えられていない異邦人のエクレシアは一致できないし、一致したいと思うことすらない。

しかし、「5役者の教え」によって整えられ成長した異邦人のエクレシアは神の御心の実現を願うようになり、一致したいと願う……しかし、それぞれの「教団・教派・グループ」の「リーダー」「5役者」「5役者の教え」が、「幼子が見上げる父母」のように「高い城壁」のように高く上げられたままになっているのでは……一致することができない。

それぞれの「教団・教派・グループ」の「リーダー」「5役者」は自分たちの「聖書解釈」と「教え」と「生き方」「働き」こそが……正しい聖書解釈であり神の御心だ……と互いに言い合っているので一致することができない。そのようなことを言っている「リーダー」に同意している者たちも一致することができない。

それぞれの「教団・教派・グループ」の「リーダー」「5役者」たちが、互いにそれぞれの「教団・教派・グループ」のことを……神に必要とされ、喜ばれ、祝福され、油注がれ、用いられているキリストの体であるエクレシアであることを互いに認め、子が父母を尊敬するように互いに尊敬し、幼子のように互いに自分を低くして、父母のことばに耳を傾ける幼子や息子、娘のように互いの「ことば」「教え」に耳を傾け合うようになる時、キリストの体であるそれぞれの「教団・教派・グループ」は一致することができるようになる。

キリストの体であるそれぞれの「教団・教派・グループ」の父母である「リーダー」「5役者」が互いに、互いの内に主がおられることを見て、互いの内におられる主にひれ伏す時、キリストの体である「教団・教派・グループ」の間にあった壁は崩れ去る。

"そうして、神が確かにあなたがたの中におられると言って、ひれ伏して神を拝むでしょう。"
コリント人への手紙第一 14章 25節

迷子になってしまうほど幼い幼子のためには「父母」「5役者」が非常に高い城壁となっていることが必要だ。

しかし、幼子が成長して息子、娘となったなら「父母」「5役者」は非常に高い城壁であり続ける必要はない。

5役者の教えをDNAと心に刻み込まれた息子、娘たちに高い城壁は必要ない。5役者の教えをDNAと心に刻み込まれた息子、娘たちは外出しても迷子になることはないからだ。父母の家で養われ成長した息子、娘はDNAと心と手とくちに神の御教えという地図と交通ルールブックがあるから迷子になることはない。迷子になったり交通事故にあうのは、地図と交通ルールを知っているのに無視する選択をした者たちだけだ。

5役者の教えをDNAと心に刻み込まれた息子、娘たちは自由に外出するが、自分の父と母の家に帰ってくることを喜ぶ。

神はダビデの幕屋のような「神と神の民たちの関係」「神の民たちと5役者の関係」を「計画」しておられた。

神が計画したダビデの幕屋のような「神と神の民たちの関係」「神の民たちと5役者の関係」が実現するためには、モーセの幕屋のような「神と神の民たちの関係」「神の民たちと5役者の関係」「神の民が神を恐れる関係」「神の民が5役者を恐れる関係」の中で整えられるという「道備え」「段階」「コース」が必要であった。

「神と神の民の関係」「神の民のリーダーと神の民の関係」をダビデの幕屋のようにすることが神の「目的」「計画」「ゴール」であり、

「神と神の民の関係」「神の民のリーダーと神の民の関係」をダビデの幕屋のようにする神の「目的」「計画」が実現するためには、「神と神の民の関係」「神の民のリーダーと神の民の関係」がモーセの幕屋のような時代によって整えられる「道備え」「段階」「コース」が必要であった。

モーセの幕屋」のようになっているキリストの体であるそれぞれの「教団・教派・グループ」を隔ての壁がない「ダビデの幕屋」のようにすることが神の計画であり……キリストの体であるそれぞれの「教団・教派・グループ」の隔ての壁をなくし、5役者たちと信徒たちの上下関係をなくし、キリストの体を上も下も隔ての壁もないダビデの幕屋とするためにイエスキリストは十字架で死んでくださった。

……今後ますます、上や下がない「ダビデの幕屋型の集会」、「ダビデの幕屋型の教会」、「ダビデの幕屋型のリーダーシップ」「ダビデの幕屋型の働き」の上に神からの油注ぎと祝福は豊かに増し加えられ、増え広がるようなる。

"『この後、わたしは帰って来て、倒れたダビデの幕屋を建て直す。すなわち、廃墟と化した幕屋を建て直し、それを元どおりにする。
それは、残った人々、すなわち、わたしの名で呼ばれる異邦人がみな、主を求めるようになるためである。
大昔からこれらのことを知らせておられる主が、こう言われる。』"
使徒の働き 15章 16〜18節

もちろんこれまでどおりの「モーセの幕屋型の集会」「モーセの幕屋型の教会」「モーセの幕屋型のリーダーシップ」「モーセの幕屋型の働き」も必要であり、神はこれからもこれまでどおりに豊かに油注ぎと祝福を与えてくださる。

キリストの体がこれからますます「ダビデの幕屋」のようになることが実現するためには、これからも5役者が高く上げられていて、キリストの体が「モーセの幕屋」のようになっている「道備え」「段階」「土台」「基礎」によってキリストの体が整えられることが必要だ。

キリストの体であるそれぞれの「教団・教派・グループ」の5役者たちが高く上げられている「モーセの幕屋のような時代」に、キリストの体であるそれぞれの「教団・教派・グループ」が一致して「ダビデの幕屋」のようになることはできない。

天からイエスキリストが送られる道備えをするために、律法が養育係として神の民を整え、律法が養育係として整えた花嫁である神の民を天から送られた花婿イエスキリストに捧げたように……

……父母が子を養い育てるように……キリストの体であるそれぞれの「教団・教派・グループ」の「リーダー」「5役者」が自分に割り当てられた群れを養い育て整えた後に、花婿イエスキリストのために、それぞれの「教団・教派・グループ」が整えた群れと自分自身を互いに、互いの内におられる主のために贈り物として互いに捧げ合い、キリストの体であるそれぞれの「教団・教派・グループ」は互いを互いに捧げ合うことによって、整えられた1人の花嫁となり、1つのキリストの体となり、現代のこの地上を歩くイエスキリストの栄光となり、現代のこの地上に神の王国の栄光を満たす。

"私たちはキリストのからだの部分だからです。
「それゆえ、人は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となる。」
この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです。"
エペソ人への手紙 5章 30〜32節

キリストの体であるそれぞれの「教団・教派・グループ」が互いに互いの内におられる主にひれ伏し、それぞれの「教団・教派・グループ」の間にあった隔ての壁が崩れ、それぞれの「教団・教派・グループ」に神が与えておられる「祝福」、「油注ぎ」、「力」、「栄光」、「恵み」、「証し」、「知恵」がエステル記のプリムの日の贈り物のように互いに贈り交わされるようになり、それぞれの「教団・教派・グループ」を流れる川となり、それぞれの「教団・教派・グループ」が互いにそれぞれの「教団・教派・グループ」にとってのふさわしい『助け手』となる時、敵は除かれ、キリストの体は神の王国のシャロームの中で安息を得る。

"自分たちの敵を除いて休みを得た日、悲しみが喜びに、喪の日が祝日に変わった月として、祝宴と喜びの日、互いにごちそうを贈り、貧しい者に贈り物をする日と定めるためであった。"
エステル記 9章 22節

それぞれの「教団・教派・グループ」が互いに「私たちこそが1番神の御心にかなった働きをしているのだから、あなたたちは、私たちを手伝いなさい。」……と言い合うことはなくなり、それぞれの「教団・教派・グループ」は互いに互いの内におられる主にひれ伏し、それぞれの「教団・教派・グループ」は互いにそれぞれの「教団・教派・グループ」のために神が与え備えておられたふさわしい助け手となり、「彼」=「イエスキリスト」にふさわしい助け手となる。

"神である主は仰せられた。「人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。」"
創世記 2章 18節

"あなたは祝福となりなさい。わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者をのろう。地のすべての部族は、あなたによって祝福される。"
[創世記 12:2,3]
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会 

私たちは律法の監督の下に置かれ、閉じ込められていましたが、それは、やがて示される信仰が得られるためでした。
こうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。私たちが信仰によって義と認められるためなのです。
しかし、信仰が現れた以上、私たちはもはや養育係の下にはいません。
あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです。
バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです。
ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。"
ガラテヤ人への手紙 3章 23〜28節

"しかし、以前は遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスの中にあることにより、キリストの血によって近い者とされたのです。
キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、
ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、
また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。"
エペソ人への手紙 2章 13〜16節

"それゆえ、城壁のない町々に住むいなかのユダヤ人は、アダルの月の十四日を喜びと祝宴の日、つまり祝日とし、互いにごちそうを贈りかわす日とした。"
エステル記 9章 19節
"自分たちの敵を除いて休みを得た日、悲しみが喜びに、喪の日が祝日に変わった月として、祝宴と喜びの日、互いにごちそうを贈り、貧しい者に贈り物をする日と定めるためであった。"
エステル記 9章 22節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会