シャロームを所有する

私は預言の賜物の回復を願っている。しかし私は預言の賜物を否定する方々を心から尊敬し感謝している。私が預言の賜物を熱心に求めて聖書に従うためなら…私は預言の賜物を否定する方々を不満に思い…全て感謝せよと語る聖書に逆らってよいだろうか?預言を認める牧師先生だけ尊敬し…預言の賜物を否定する牧師先生含む5役者や教団教派の方々を尊敬せず…互いに尊敬しなさいと語る聖書に逆らってよいだろうか?自分が建てたい御言葉を建て上げるために他の御言葉を壊してできた砂の上に自分が建てたい御言葉を建て上げ…家を建ててよいのだろうか?

1ー⑥「互いに『間違っている』『御言葉からずれている』と互いを訴え合っている教団・教派・グループにおいて、どれか1つの教団・教派・グループの教えだけが正しくて、他の教団・教派・グループの教えは『間違っている』『御言葉からずれている』……のだろうか?」

(前回のブログの内容)
神がモーセに預けた十戒の石の板は神のことばであり、神がモーセに預けた十戒の石の板が「2枚」で裏表があり、「4つ」の面があるように、世界は裏表がある2つによって構成されている。世界は「東と西」「南と北」という裏表がある2つによって構成されている。世界は「男と女」という2つと、「父」「母」「息子」「娘」の4つによって構成されている。だから世界は「4」という数字であらわすことができる。……といったことを前回の1ー⑤のブログで書かせていただいた。

「4つ」の線でできる形は四角であり、「3つ」の線でできる形は三角だ。

三角形は「3つ」の線でできていて、△三角形の3つの線は3つとも互いに「接点」「つながっている点」がある。もし、三角形の3つの線のどれかが「接点」「つながっている点」を失うなら、それはもはや正式には三角形ではない。△三角形は「3つの線」が互いに他の2つの線との「接点」「つながっている点」を持っている。

3つの線が互いに「接点」「つながっている点」を持っている三角形をつくることができる「3」という数字は神の「調和」であり神の「秩序」をあらわしている。

……地上の世界をあらわしている数字は「4」であり、「4つ」の線でつくることができる形は四角だ。□四角形は三角形とはちがい、「4つ」の線は他の「2つ」の線とは角のところに「接点」「つながっている点」を持っているが、向かい側にあって平行な他の「1つ」の線とは「接点」「つながっている点」がない。

□四角形をつくっている「4つ」の線にはそれぞれ「接点」「つながっている点」がない他の「1つ」の線が存在しているように、「4」という数字であらわすことができる世界に住む人々にはそれぞれ「理解できる人」と「理解できない人」が必ず存在している。世界に住む人々にはそれぞれ「手をつなぐことができる人」と「手をつなぐことができない人」「手のとどかない人」「理解できない人」がいる。2枚の石の板である十戒には裏面があるように、「4」という数字であらわすことができる世界に住む人々にはそれぞれ「裏面」「死角」「影」「理解できない人」「手をつなぐことができない人」が存在している。

「世界」「人」には互いに「死角」「影」があって、「裏面」を見ることはできないように、「キリストの体であるエクレシア」にも互いに「死角」「影」があって、見ることができない「裏面」がある。

聖霊派」と「福音派」は互いに「裏面」であり、「死角」「影」になっている。

プロテスタント」と「カトリック」は互いに「裏面」であり、「死角」「影」になっている。

……しかし、十戒の石の板の裏も表もどちらの面も「神のことば」「神の作品」「神の栄光」であり、どちらの面もキリストの体だ。

"モーセは向き直り、二枚のあかしの板を手にして山から降りた。板は両面から書いてあった。すなわち、表と裏に書いてあった。
板はそれ自体神の作であった。その字は神の字であって、その板に刻まれていた。"
出エジプト記 32章 15〜16節

十戒の石の板の裏も表もどちらの面も「神のことば」「神の作品」「神の栄光」であるように、「聖霊派」も「福音派」も、他の教団・教派・グループも、どちらの面もキリストの体、キリストの栄光だ。

……しかし、互いにキリストの栄光であり、互いにキリストの体の一部分であり、キリストの体の裏と表であるそれぞれの教団・教派・グループは……まるで旧約聖書の時代に神が遣わした預言者が、にせ預言者やバアルの預言者や異邦人たちに主の御告げを宣告するかのように……

……"互いに呼びかけながら、こう言っている"……"わきまえのない者たち。あなたがたは、いつまで、わきまえのないことを好むのか。あざける者は、いつまで、あざけりを楽しみ、愚かな者は、いつまで、知識を憎むのか。"……何故、神の御心を拒み続け、神の御言葉を拒み続けて不従順な生き方をいつまでたってもやめようとしないのか……

……このように、まるで旧約聖書の時代に神が遣わした預言者が、にせ預言者やバアルの預言者や異邦人たちに主の御告げを宣告するかのように……それぞれの教団・教派・グループがそれぞれの教団・教派・グループを訴えながら………"互いに呼びかけながら、こう言っている"……我々の父母の方があなたがたの父母より正しいのだから、聖書の御言葉からずれてしまっているあなたがたの父母の教えを捨てて、我々の父母の教えに耳を傾けなさい。

福音派聖霊派の父も母も息子も娘も異言を捨てることが神の御心である……と神の御心を預かっている者として預言し、

聖霊派福音派の父も母も息子も娘も異言を受け入れることが神の御心である……と神の御心を預かっている者として預言している。

旧約聖書の時代は「預言者」と「にせ預言者」が対立していたが、今、現代においては、「預言者」と「預言者」が対立していて、互いに互いを「にせ預言者」と見なし合い、互いに訴え合い、互いに主の御心に立ち返らせようとしている。

旧約聖書の時代は主からの油注ぎがある「預言者」と主からの油注ぎがない「にせ預言者」が対立していたが、今、聖霊が注がれている現代においては、主からの油注ぎがある「父母息子娘」が主からの油注ぎがある「父母息子娘」である他の教団・教派・グループと対立していて、互いに互いを「にせ預言者」「バアルの預言者」「異邦の民」と見なし合い、互いに訴え合い、互いに「主の御心」「主の御言葉」に立ち返らせようとしている。

……何故、そのようなことになっているのだろうか……?

旧約聖書の時代には主からの油注ぎは「1人の人」、「1つのグループ」、「片側」だけにしかなかったが……聖霊が注がれている現代のキリストの体であるエクレシアにおいては……主からの油注ぎは1人の人ではなくて「複数の教団・教派・グループの霊的なリーダー」、1つのグループではなくて「複数の教団・教派・グループ」、片側だけでなく、「上下左右裏表」……に主からの油注ぎがあることの理解が薄いからだ。……まだ理解が薄いのは、幼い時期を適切に過ごすためだ。

福音派は「聖霊派」に「聖霊派」の父も母も息子も娘も異言を捨てなさい……と言い……

……聖霊派は「福音派」に「福音派」の父も母も息子も娘も異言を受け入れなさい……と言っている。

……聖霊派のグループにも「主は言われる……と頻繁に言っていて、主は言われる……と言うことを大いに肯定しているグループ」と「主は言われる……と言うことを否定しているグループがある」

……どちらかのグループが偽預言者なのだろうか……?

主が1つのグループの霊的リーダーには「積極的に主は言われると語り、積極的に預言の賜物を用いて、預言の賜物を活性化させ、預言の賜物を活性化させることについて人々に語りなさい」……と教え、

主が別のもう1つのグループの霊的なリーダーには「主は言われると語ることによってどんな問題が生じるかを人々に語り、主は言われると言わないようにする知恵について人々に語りなさい」……と教えていたとしたら……

……どちらのグループのメッセージも主から預かっているメッセージであるから、キリストの体に属する多くの人々にとっての祝福となって繁栄し、神の王国の栄光と祝福が30倍60倍100倍と増え広がり続けていることは自然なことだ。

どちらも主からの「ことば」「教え」「導き」を預かっているのだから、互いに教え合い、互いに幼子のように自分を低くして互いの教えに耳を傾け合い、互いに教えられ合うことによって、どちらも30倍60倍100倍の神の王国の祝福と栄光の実を結び地上に現し増え広がらせることができるようになる。

……しかし、互いに教え合うのではなくて、互いに訴え合うなら……互いに訴え合い、互いに相手の教えを退け合い、互いに相手に自分の教えだけを一方的に教え聞かせようとするなら……どちらも相手を祝福することができることばを神から預かっているのに、相手を祝福することができず、主が相手をとおして与えようとしておられる祝福を自分も受けることができない。

聖霊派福音派に「異言を語れ」と言うことも、福音派聖霊派に「異言を語るな」と言うことも、聖霊派内部で「主は言われる」と言え、「主は言われる」と言うな……と訴え合っていることも……右足に左足になれと言ったり、右足に右手や左手になれと言っているようなものだ……

……キリストの右足教団・教派・グループとキリストの左足教団・教派・グループが互いに「あなたの指は何故、私と同じではないのか、何故、私と指の位置が反対なのか」……と訴え合っている。

キリストの右手教団・教派・グループとキリストの左手教団・教派・グループが互いに「あなたがたの指は中指だけは正しい位置にあるが、その他の指の位置はどれ1つとして正しくない。何故、あなたがたの指は私たちの指と位置が反対になっているのか、あなたがたも私たちと同じ位置にそれぞれの指があるべきだ」……と訴え合っている。

福音派」が「福音派」を教え、「聖霊派」が「聖霊派」を教え、右足が左足ではなく、右手や左手でもなく、右足になるように、右足が右足に教えるのは右足を建て上げることであり良いことだ。

……しかし足の指が右足も左足も右側に親指があったらどうだろうか?

右足の指と左足の指の位置が左右対称ではなく、右足と左足の指がどちらも右端が親指で左端が小指……そんな並び順だったら体が立ったり歩いたりする時のバランスはとりやすいだろうか?

右足と左足が左右対称であるから体のバランスは安定しており、右足が地に着いて体を支えている時に、左足を前に進ませることができ、左足が地に着いて体を支えている時に右足を前に進ませることができる。

……自分の右手で自分の肩に触れることができる。しゃがんで自分の右手で自分の足の指に触れることもできる。体の柔らかい人は右の手のひらで自分の背中のどこでも触れることができるかもしれない。しかし、右の手のひらで触れることがほとんどできないところがある。……自分の右の手のひらで触れることがほとんどできないところは……自分の右腕だ。

……そして、自分の右の手のひらで全く触れることができないところがある……自分の右の手のひらで全く触れることができないところは……自分の右の手のひらの裏側である自分の右手の甲だ。

……しかし、自分の左の手のひらは自分の右の手のひらが触れることがほとんどできない自分の右腕のどこにでもかんたんに楽に触れることができる。自分の右の手のひらが触れることができない右の手の甲は、自分の左の手のひらが最も楽に触れることができる部分の1つに含まれている。

……神が……"からだをこのように調和させてくださった"……ように、キリストの体である教団・教派・グループも互いに互いの「助け手」だ。

"ふさわしい助け手を造ろう。"
創世記 2章 18節

自分たちの教団・教派・グループだけが神の御心、神の御言葉にとどまっていて、他の教団・教派・グループは悔い改めて「神の御心」「神の御言葉」に立ち返るべきだ……

……このようなことは右手に、左手や右足や左足になりなさいと言っているようなものだ……

何故、キリストの体である教団・教派・グループは右手に、左手や右足や左足になりなさいと言っているようなことが神の御心であると思っているのだろうか……?……「右手」をキリストの体の一部分ではなくて、「右手」をキリストの体全体であるかのように思っているからだ。「右手」がキリストの体全体と思っているから「右手」以外はキリストの体の外、キリストの体に属していない部分……と思っているからだ。

自分たちが所属している教団・教派・グループだけが「正しい」「真理」「ずれていない」「まっすぐ」「神に喜ばれている」「本物」「とどまり続けている」……そのように、キリストの体の一部分であるそれぞれの教団・教派・グループが思っている時期は……自分の父母の家に全世界の最もよいものの全てが1つ残らずあるから自分の父母の家の外に出る必要はないと思っている幼子のような時期だ。そして幼子がそう信じ込んでいることはまだ幼子である者にとっては非常に重要だ。幼子にとっては父母とのつながりが父母の家の外にいる他者とのつながりよりもはるかに重要だからだ。

……キリストの体が互いに「キリストの体に属する者になれ」……と言っているが……キリストの体ではなくて『自分たちに属する者となれ』と言っていることを知らず、気づかないまま互いに訴え合っているのはキリストの体がまだ「幼い」「こども」の時期であることのしるしだ。

キリストの体である教団・教派・グループが『自分たちに属する者となれ』と互いに言い合っているのは……互いに自分だけが絶対に正しい前提に立っている幼い男の子と幼い女の子のようだ……

……幼い男の子が幼い女の子に「主が言われる……この日は我らがお砂場でお砂遊びをするための日である」……

……すると幼い女の子が幼い男の子に……「いいえ……主は言われます……今日という日はおままごとに興じるために備えられた日であると……」

……すると幼い男の子が幼い女の子に……「主が言われる……見よ……この晴れ渡った空を、わたしはあなたがたにお砂場で遊ばせるため、雲に命じて雨を降らせなかった。おままごと雨の日でもできるではないか。主がたまわったこの良き天候に恵まれた日をむだにしてはならない……」

……すると幼い女の子が幼い男の子に……「……いいえ、天候に惑わされてはいけません。好機のように見えて、そうでなかった……そのようなことが聖書の中になんと多いことよ……主は天候に惑わされることなく、主の細き御声を聞きわけ、主の御心どおり忠実におままごとをするか試し、待っておられるのです……」

"では、この時代の人々は、何にたとえたらよいでしょう。何に似ているでしょう。
市場にすわって、互いに呼びかけながら、こう言っている子どもたちに似ています。『笛を吹いてやっても、君たちは踊らなかった。弔いの歌を歌ってやっても、泣かなかった。』
というわけは、バプテスマのヨハネが来て、パンも食べず、ぶどう酒も飲まずにいると、『あれは悪霊につかれている』とあなたがたは言うし、
人の子が来て、食べもし、飲みもすると、『あれ見よ。食いしんぼうの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ』と言うのです。
だが、知恵の正しいことは、そのすべての子どもたちが証明します。」"
ルカの福音書 7章 31〜35節

"この時代は何にたとえたらよいでしょう。市場にすわっている子どもたちのようです。彼らは、ほかの子どもたちに呼びかけて、
こう言うのです。『笛を吹いてやっても、君たちは踊らなかった。弔いの歌を歌ってやっても、悲しまなかった。』
ヨハネが来て、食べも飲みもしないと、人々は『あれは悪霊につかれているのだ』と言い、
人の子が来て食べたり飲んだりしていると、『あれ見よ。食いしんぼうの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ』と言います。でも、知恵の正しいことは、その行いが証明します。」"
マタイの福音書 11章 16〜19節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会