シャロームを所有する

私は預言の賜物の回復を願っている。しかし私は預言の賜物を否定する方々を心から尊敬し感謝している。私が預言の賜物を熱心に求めて聖書に従うためなら…私は預言の賜物を否定する方々を不満に思い…全て感謝せよと語る聖書に逆らってよいだろうか?預言を認める牧師先生だけ尊敬し…預言の賜物を否定する牧師先生含む5役者や教団教派の方々を尊敬せず…互いに尊敬しなさいと語る聖書に逆らってよいだろうか?自分が建てたい御言葉を建て上げるために他の御言葉を壊してできた砂の上に自分が建てたい御言葉を建て上げ…家を建ててよいのだろうか?

「神が、まず最初にルーテル派を100年かけてしっかりと建て上げ、次にバプテスト派を100年かけてしっかりと建て上げ、次にホーリネス派を100年かけてしっかりと建て上げ、次に聖霊派を100年かけてしっかりと建て上げておられる理由。この順序でなければならなかった理由。この順番で1つ1つ順序正しく建て上げる必要があった理由。愛と知恵に満ちた全知全能の完全な主権者である神は常に最善をなされるので、無意味なこと、神を愛する神の民にとって無益なことなんて過去にも現在にも未来にも1つもない」


古い皮袋は新しいぶどう酒を受け入れることができないが、

古い皮袋が新しい皮袋の土台であり、古い皮袋の中にこそ、深く熟成したぶどう酒があり、古い皮袋の中でぶどう酒は深く深く熟成し続けることについて前回のブログで書かせていただいた。

新しい皮袋だけでなく、ぶどう酒を熟成させ続ける古い皮袋もなければ、新しいぶどう酒である新しい※レストレーション(※聖書に書いてあるが見失われていた真理を回復させ建て上げる働き) の時は来ない。

ぶどう酒を深く深く熟成させ続けている父の伝統的教えのぶどう酒をあきるほど飲み続けた子が、新しいぶどう酒にうえ渇くことによって、次に来る新しいぶどう酒の器となる。

ぶどう酒を深く深く熟成させ続けた父の伝統的教えをしっかりと土台に持つ子が、新しいぶどう酒である新しいレストレーション を建て上げる器となることができる。

新しいぶどう酒である新しいレストレーションは、それ以前に回復された1つ1つのレストレーションをなくてはならない土台としている。

もしかしたら……聖霊派の方々の中にはこう思っている方々がいるかもしれない……もっとはやい時期から異言をはじめとする9つの御霊の賜物が神の民の中に回復されていれば、今とは比較にならいくらいに多くの人々が救われていたはずなのに……。

……しかし、聖霊派が強調して建て上げ続けている「異言をはじめとする9つの御霊の賜物」は……ホーリネス派、福音派が建て上げ続けている「聖い行い」=「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」=「御霊の9つの実」が土台になっている。

📖"しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、
柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。"
ガラテヤ人への手紙 5章 22〜23節

聖霊派が強調している「異言をはじめとする9つの御霊の賜物」は≪奇跡の力≫であり、

ホーリネス派や福音派が強調している「愛をはじめとする9つの御霊の実」は『証しの力』だ。

『証し』だけでなく≪奇跡≫も必要だし、≪奇跡≫だけでなく『証し』も必要だ。

大勢の人々が信じ救われるためには≪奇跡≫が必要だ。しかし、大勢の人々が≪奇跡≫を見て信じ救われても、クリスチャンたちが≪奇跡≫を見せることができるだけで、「愛をはじめとする9つの御霊の実」=『証し』を見せることができないなら、≪奇跡≫を見て信じ救われた大勢の人々はかんたんに散らされてしまう。

……しかし、人々に≪奇跡≫を見せることができないのであれば、大勢の人々が信じ救われることはない。

……だが、人々に≪奇跡≫を見せることができなくても、人々に「愛をはじめとする9つの御霊の実」=『証し』を見せることができるなら、少数の人々は救われる。そして……「愛をはじめとする9つの御霊の実」=『証し』を自分自身の目ではっきりと見た人々はかんたんにつまずいて散らされてしまうなんてことにはならない。

≪奇跡≫は「すぐに」「大勢の人々」を救うことができるが……「愛をはじめとする9つの御霊の実」=『証し』を見せることができないのであれば、救われた人々は「すぐに」「かんたんに」散らされてしまう。

人々に≪奇跡≫を見せることができないのであれば、愛をはじめとする9つの御霊の実の『証し』によって、人々が信じ救われるためには「長い日数や年月が必要となる」……何故なら多くの人々は、その証しが本物かどうかをしばらくの期間、疑い続けるからだ……だが…『証し』が本物であることを自分自身の目ではっきりと見た者たちはかんたんに散らされるようなことはない。

……だから、≪奇跡≫があれば大勢の人々が「すぐに」救われるが、『証し』がないなら…底に穴のあいたタンクに大きなバケツで水を入れるようなものだ。注がれる量は多いが「すぐに」失われてしまう量も非常に多い。

≪奇跡≫がなくても、『証し』があるなら…底に穴のあいていないタンクに小さなコップで水を入れるようなものだ。注がれる量は少ないが失われる量も少ない。

……タンクの底の穴をふさぐことと、タンクに多くの水を入れることができる大きなバケツ……どちらが必要だろうか?

……どちらも必要だ。

……では……どちらが先に必要だろうか?

……タンクに多くの水を入れることができる大きなバケツもある方がいいが、タンクの底の穴をふさぐことが先に必要だ。だから、多くの人々を救うことができる≪奇跡の力≫よりも先に、救われた人々をつまずかせ散らしてしまわないための『証しの力』が先に必要だ。

だから、聖霊派が建て上げられる前に、ホーリネス派が建て上げられる必要があった。神は最も適切な最善の順序で1つ1つのレストレーションを建て上げておられる。

しかし、人々がつまずき散らされないために必要な『証し』の前に必要なものがある。

「証しの力」の前に必要なものとは『水のバプテスマの理解』だ。

『水のバプテスマの理解』=『まだ救われていなくて神の家族になっていなかった人々が救われて神の家族に加えられた人々が神の家族の一員となることの理解」が建て上げられることが「証しの力」の前に必要だ。

≪奇跡≫によって救われ、『証し』によって、「この人たちは素晴らしい人たちだ」と認めていて、一緒にいたいと願い、共にいることに心から同意していても……「この人たちは全く別次元の人たちで、自分たちとは遠くかけ離れた人たち」…という理解のままでは、神の家族の祝福と恵みを共有する神の家族の一員として成長することができない。

だから、「奇跡の力」の前には『証しの力』が必要で、『証しの力』の前には≪神の家族に加えられることの理解≫=水のバプテスマの理解が建て上げられるためのレストレーションが必要だ。

だから、聖霊派が建て上げられる前にはホーリネス派が建て上げられている必要があり、ホーリネス派が建て上げられる前にはバプテスト派が建て上げられている必要があった。

しかし、バプテスト派が建て上げられる前に、ルーテル派が建て上げられている必要があった。

何故なら、「奇跡」で多くの人々が救われ、「証し」によって多くの人々が共に集まる集まりにとどまり続けていて、「神の家族たちと祝福を共有している神の家族の一員である理解」があっても、神の家族の誰1人として救いの確信がないのでは根本的に成り立たないからだ。

救われているから、「互いに神の家族」なのであり、救われているから「証しの力がある」のであり、救われているから「奇跡を行う力」もある。

だから、「奇跡」の前に「証し」が必要であり、

「証し」の前に、「水のバプテスマについての理解」=「神の家族たちと祝福を共有している神の家族の一員である理解」が必要であり、

「水のバプテスマの理解」の前に、『救われている確信』が必要だ。

……だから、まず、最初に「行いではなくて、イエスキリストの御名を信じる信仰によって救われている確信」が必要だ。

次に、イエスキリストの御名によって救われている確信のある人々の中に、「神の家族の一員として加えられるようになることの理解」が必要だ。

次に、神の家族の一員として加えられた者たちが神の家族たちをつまずかせ散らしてしまわない言動を着ること=証しの力が必要だ。

次に、短時間で非常に多くの人々を救うことができる奇跡の力が建て上げられることも必要だ。

……だから神は、まず最初にルーテル派をしっかりと建て上げ、次にバプテスト派をしっかりと建て上げ、次にホーリネス派をしっかりと建て上げ、次に聖霊派をしっかりと建て上げておられる。

……だから、もしも、ルーテル派、バプテスト派、ホーリネス派が建て上げられる前に、聖霊派が最初に建て上げられてしまっていたら……

……仮に、聖霊派が異言をはじめとする9つの御霊の賜物の奇跡で非常に多くの人々を救うことができていたとしても、救いの確信があいまいとか、互いに神の家族である理解があいまいとか、言動に9つの御霊の実=証しがない…といったことになっていたのでは神の国は成り立たない。

……だから、全ての教団教派の最も根本的な土台として、まず最初に『自分自身の救い』=「行いではなくイエスキリストを信じる信仰によって救われている確信」=「信仰義認」のレストレーションがルーテル派によってしっかりと建て上げられている必要があった。

次に、『救われていなかった人々がイエスキリストの御名を信じる信仰によって救われて神の家族に加えられることの理解』=「水のバプテスマについての理解」のレストレーションがバプテスト派によってしっかりと建て上げられる必要があった。

もし、ホーリネス派の前に、バプテスト派が先に建て上げられていなかったら、「神の家族の一員としてふさわしい言動をしていなければ神の家族の一員とは認めない」などといったことになっていたかもしれない。だから、人間がそのような思考に傾きやすいことを知っておられる神はホーリネス派の前にバプテスト派を100年以上もの年月をかけてしっかりと建て上げ続けておられる。

神が、ルーテル派を100年以上かけてしっかりと建て上げて、次にバプテスト派を100年以上かけてしっかりと建て上げて、次にホーリネス派を100年以上かけてしっかりと建て上げてくださったにもかかわらず……

……私が属している聖霊派の方々の中には、「自分の行いは聖くないから救いの確信がない方々」…とか、「自分にはあの人たちのように奇跡を行う力がないから自分は神の家族の中で役立たずだ…と思っている方々」とか、「多くの奇跡で多くの人々を救ってはいるが、愛をはじめとする御霊の実がないために、多くの人々をつまずかせ散らしてしまっている方々」を見聞きすることはめずらしくない。

神は、ルーテル派を100年以上かけてしっかりと建て上げて、次にバプテスト派を100年以上かけてしっかりと建て上げて、次にホーリネス派を100年以上かけてしっかりと建て上げておられるにもかかわらず……このようなありさまになっているのだから……ルーテル派、バプテスト派、ホーリネス派が建て上げられる前に聖霊派が最初に建て上げられてしまっていたら……どのようなありさまになっていたことか……

私は福音派の方々について見聞きする機会はほとんどないが、きっと、ルーテル派の方々であれば「自分の行いは聖くないから救いの確信がない」方々はほとんどいないのだろう。

バプテスト派の方々であれば、「自分はあの人たちのようにはできないから自分は神の家族の中で役立たずだ…と思っている」方々はほとんどいないのだろう。

ホーリネス派の方々であれば「多くの自慢できることがたくさんあるけど、愛をはじめとする御霊の実がないために、多くの人々をつまずかせ散らしてしまっている」方々はほとんどいないのだろう。

……聖霊派の中では薄められてしまっている理解、確信を福音派の方々は薄められることなくしっかりと保ち続け、建て上げ続け、熟成させ続けておられるのだろう。

だからこそ、聖霊派だけでなく、ルーテル派も、バプテスト派も、ホーリネス派も必要不可欠な存在だ。

聖霊派聖霊派のぶどう酒を保ち続け、建て上げ続け、熟成させ続けているが、ルーテル派のぶどう酒は薄まってしまっている。バプテスト派のぶどう酒は薄まってしまっている。ホーリネス派のぶどう酒は薄まってしまっている。

中華料理とイタリアン料理と和食とインド料理とフランス料理とを全てマスターできていたとしても、中華料理専門の人の中華料理には劣る。イタリアン料理専門の人のイタリアン料理には劣る。

聖霊派がルーテル派のぶどう酒も、バプテスト派のぶどう酒も、ホーリネス派のぶどう酒も全て濃厚に保ち続けるのは難しい。当然だ。人間の手は2つしかない。全てを1人で持つことも、マスターすることもできない。

だから、聖霊派だけでなく、カトリックも、ルーテル派も、バプテスト派も、ホーリネス派もその他、「イエスキリストが主である」…と告白している全ての教団教派グループは神の国、キリストの体にとって必要不可欠な存在であり、肺や腎臓や肝臓のように必要不可欠な各器官だ。

ルーテル派の次に、バプテスト派、バプテスト派の次に、ホーリネス派、ホーリネス派の次に聖霊派を建て上げられた愛と知恵に満ちた全知全能の完全な主権者である神は、最も最善の順番で順序正しくしっかりと建て上げておられ常に最善をなしておられるので……

……「神」にとって、「今、神の民である者」にとって、「これから、神の民となる者」にとって、益とならないことなど、過去にも、現在にも、未来にも1つも存在できない。何故なら、愛と知恵に満ちた全知全能の神が完全な主権者であるからだ。

愛と知恵に満ちた全知全能の神が完全な主権者であるから、全ての過去、現在、未来には意味があり、全ての順序には意味があり、無益なことなんて1つもない。

"神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。"
ローマ人への手紙 8章 28節

"私は賢い建築家のように、土台を据えました。"
コリント人への手紙第一 3章 10節

"私も、すべてのことを初めから綿密に調べておりますから、あなたのために、順序を立てて書いて差し上げるのがよいと思います。尊敬するテオピロ殿。"
ルカの福音書 1章 3節

"以上がイスラエル人の軍団ごとの出発順序であって、彼らはそのように出発した。"
民数記 10章 28節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会