シャロームを所有する

私は預言の賜物の回復を願っている。しかし私は預言の賜物を否定する方々を心から尊敬し感謝している。私が預言の賜物を熱心に求めて聖書に従うためなら…私は預言の賜物を否定する方々を不満に思い…全て感謝せよと語る聖書に逆らってよいだろうか?預言を認める牧師先生だけ尊敬し…預言の賜物を否定する牧師先生含む5役者や教団教派の方々を尊敬せず…互いに尊敬しなさいと語る聖書に逆らってよいだろうか?自分が建てたい御言葉を建て上げるために他の御言葉を壊してできた砂の上に自分が建てたい御言葉を建て上げ…家を建ててよいのだろうか?

「神の御国には古いぶどう酒と新しいぶどう酒の両方が必要」

古いぶどう酒と古い皮袋は悪いもの、不要なもの、無益なものなのだろうか?

もし、そうだと信じているなら、「私に土台は不要だ」と言っていることになる。

古いぶどう酒とは「今の多くの既存の教会の土台となっている聖書的な教え」であるからだ。古いぶどう酒とは多くの既存の教会の中に広く行き渡り理解されている聖書のことばについての知識、神の御国についての知識のことだ。

神が既存の教会に与えておられる知識、多くの既存の教会に広く行き渡っている聖書のことばについての知識、神の御国についての知識…これが古いぶどう酒だ。

新しいぶどう酒は今ある土台の上にこれから建て上げられる神の御国の知識、まだ建て上げられていない神の御国の知識、まだ多くの既存の教会において共通理解とはなっていない神の御国についての知識…これが新しいぶどう酒だ。

だから、新しいぶどう酒と古いぶどう酒に優劣はないし、新しい皮袋と古い皮袋にも優劣はない。どちらも神の御国に必要な存在だ。

もし、古いぶどう酒や、古い皮袋が神の御国に必要ないものであるなら…古くなったら腐るもの、価値がなくなるものになぞらえてイエス様がたとえ話しを語っておられないのは何故なのか?

神のことばには一貫性がある。全ての被造物は一貫性のある神のことばによって創造されている。全ての被造物は神の栄光を見ることができるものとして創造されていて、神の栄光を表している。一貫性のある神のみことばによって創造された被造物が神のみことばと矛盾することはない。

だから被造物であるぶどう酒も神の栄光を表し、神の御国の栄光を表している。ぶどう酒は新しいぶどう酒も古いぶどう酒も美味しくなるものとして、神のことばによって創造されている。

長い時間をかけて熟成した古いぶどう酒にはその古いぶどう酒の美味しさがあり、新しいぶどう酒にはその新しいぶどう酒の美味しさがある。ぶどう酒はそのような神の御国の栄光を表すものとして神のみことばによって創造されている。

少し、ぶどう酒について情報を調べてみると、ぶどう酒に賞味期限はないという情報が書かれているのを見ることができた。

ぶどう酒に賞味期限がないことはまさに神の御国の栄光の表れだ。歴史が古く長い教団教派も、歴史が比較的新しく短い教団教派にも優劣はなく、両者は神の御国の栄光であり、神の御国に必要な存在だ。

歴史が比較的新しく短い教団教派…と言うと、ペンテコステ派聖霊派の方々が、「いや、私たちは使徒たちの初代教会からずっと続いています」と心の中で思うかもしれない。

使徒たちの初代教会からずっと続いているのは、他の教団教派も同じだ。ペンテコステ派聖霊派も他の教団教派も、イエスキリストによって、アブラハムから…アブラハムの前からずっと続いている歴史と祝福を相続している。アダムが神を見失ってしまう出来事が起こる前に持っていた祝福も相続している。

不要な歴史は存在しない。もし不要な歴史であれば、神は必要な歴史からスタートさせることができる。

エスキリストが人として来られた時代の前が不要なのであれば、アダムがエデンのそのを追い出されて、すぐにイエスキリストが来ていただろう。もしも、そうすることが最も良いのであれば、神はそうすることができるお方だ。

だが、神はそうはなさらなかった。そうしたくても、そうできないからそうなさらなかったのではない。もしも、そうすることが最も良いのであれば、神はそうすることができるお方だ。

神は神のみことばを減らすことをなさらなかった。創世記からはじまり、その後のどのみことばも必要不可欠で、不要なものは1つもない。

使徒の時代の後のカトリックの時代がなく、使徒の時代がずっと続く方が最善であれば神はそうすることができるお方だ。あるいは、カトリックの時代の後に福音派の時代がなく、ペンテコステ派聖霊派の教団教派ができていた方が最善だったのであれば神はそうすることができるお方だ。

だが、神はそのようにはなさらなかった。不要な教団教派は存在しない。教団教派に優劣はない。

神の目に古いぶどう酒も古い皮袋も高価で尊い

神の御国にとって、古いぶどう酒、古い皮袋は高価で尊い

だから、私たち聖徒にとって古いぶどう酒、古い皮袋は高価で尊い

他の教団教派の存在を尊敬し感謝できていないなら、エデンの園に置かれていたアダムのように、完全な神の御国に置かれていて祝福を相続していながら、そうでないかのように生きることになる。

古い皮袋が新しいふどう酒を受け入れることはないだろう。しかし、新しいふどう酒を受け入れることができないことが古い皮袋の価値を下げることにはならない。

古い皮袋は新しいぶどう酒を受け入れることができないので新しい皮袋だけあればいいということにはならない。

エス様は古いぶどう酒は新しいぶどう酒に劣ると語ってはおられない。イエス様はそのようには語っておられないのに、そのようにこの聖書箇所を理解し、解釈しているなら、それは「人の教え」だ。聖書のことばであっても神が意図しておられない間違った解釈は「人の教え」だ。「人の教え」も無益ではないが、神のみことばの方がはるかに力がある。

古い皮袋の価値はその中にある古いぶどう酒、長い年月をかけて熟成されたその深みにある。

同じみことばであっても、同じ聖書的な教えであっても読めば読むほど、聞けば聞くほど深まり続ける。読めば読むほど、聞けば聞くほど決して廃れず、新しい感動、さらに深い感動を得ることができる。そうなると信じているなら、長血の女性がイエス様から力を引き出して得たように、信じている通りにみことばの力を引き出して得ることができる。神のみことばに賞味期限はない。古いぶどう酒に賞味期限はない。

新しい歌を主に歌えと聖書に書いてある。何度も歌った歌、何度も歌った歌詞であっても、心に新しい感動があるなら、それはいつだって新しい歌だ。

もし、他の教団教派の方々にたいして、「あなたたちが知っていることは私たちは全部知っています。私たちはあなたたちが知らないことも知っています」と心の中で言っているのであれば…そのような思考がイエスキリストの栄光、神の御国の栄光だと思うのですか?

他の教団教派の教会は聖徒にとって必要不可欠な基礎となり土台となっているみことばを蒔き、建て上げ、神の栄光を現し続けている神の栄光。神のみことばに優劣はない。

多くのみことばを知っていることと、いくつかのみことばを深く知っていること、両者の間に優劣はない。神の目には両者共に神の栄光。神の目には両者共に高価で尊い。神は信仰によって神が見るように見れるようになった分だけ神の御国のぶどう酒で満たし、神の御国で満たしてくださる。