シャロームを所有する

私は預言の賜物の回復を願っている。しかし私は預言の賜物を否定する方々を心から尊敬し感謝している。私が預言の賜物を熱心に求めて聖書に従うためなら…私は預言の賜物を否定する方々を不満に思い…全て感謝せよと語る聖書に逆らってよいだろうか?預言を認める牧師先生だけ尊敬し…預言の賜物を否定する牧師先生含む5役者や教団教派の方々を尊敬せず…互いに尊敬しなさいと語る聖書に逆らってよいだろうか?自分が建てたい御言葉を建て上げるために他の御言葉を壊してできた砂の上に自分が建てたい御言葉を建て上げ…家を建ててよいのだろうか?

「エバがアダムのあばら骨から創られたように、ロゴスであるイエスキリストからロゴスの一部分を取り出し、取り出されたロゴスの一部分から1人1人は創られている」

神の目には神の御国を建て上げるための働きは全て高価で尊い。優劣はない。

しかし、私の目にはそのようには見えない。私の目には私のカラーがあり、私の目には順位があり、優劣がある。

これを色眼鏡と名付け、「色眼鏡を捨てて信仰によって見なさい」と語るメッセージを耳にすることがある。

しかし、色眼鏡を捨ててはならない。色眼鏡を捨てて地に叩きつけて割ってはならない。

色眼鏡を通してでなければ見えないものもあるからだ。

確かに、私の色眼鏡を通してでは見ることができない「もの」「景色」「神の御国」を信仰の眼鏡によって見ることができる。

しかし、信仰の眼鏡を通してでは見ることができないものを色眼鏡によって見ることができる。

色眼鏡とは「私」だ。

色眼鏡が不要なもので、信仰の眼鏡だけあればいいのであれば「私」はいらない。「私が私であること」は必要ない。もし「皆が同じ」なら「誰でもいい」ことになる。

神は皆を同じにデザインしなかった。神は皆を全知の存在とか全能の存在としてデザインしなかった。

神は「私」「あなた」「その人」「1人1人」を必要としておられる。

私が私であるからこそ私の目に見える「もの」「景色」「神の御国」「神の栄光」がある。

あなたがあなたであるからこそ、私の目には見えないが、あなたの目には見える「もの」「景色」「神の御国」「神の栄光」がある。

もし私が私であることを神が必要としておられないなら、ロゴスとレイマの区別は意味をなさない。

もし、誰でもいいなら、ロゴスをロゴスとレイマに区別しているレイマは必要ない。

何故なら、レイマとは「私」のためのロゴスであるからだ。

もし、私が私であることが必要なくて誰でもいいなら、皆のためのロゴスだけがあればいい。

全てのロゴスの一字一句が皆の心にレイマとして響き渡るなら…

全てのロゴスの一字一句が皆のためのレイマであるなら…

ロゴスとレイマの区別は必要ないどころか、その線引きは存在しなくなる。

しかし、神は私を必要としておられ、あなたを必要としておられ、あなた方1人1人を必要としておられる。

エス様は聖餐式の時、皆にパンを1つずつ配って、「これはわたしの体です」と言うこともできた。しかし、イエス様は1つのパンを裂いて配られた。このことは、皆1人1人、イエスキリストの体の全体ではなくて一部分、イエスキリストの栄光の一部分を受けていて、1つとして同じ部分はないことを表している。

そのように、ロゴスの中に私のためのロゴスがあり、ロゴスの中にあなた方1人1人のためのそれぞれのロゴスがある。

レイマとは私のためのロゴスだ。

レイマとはあなたのためのロゴスだ。

レイマとはその人のためのロゴスだ。

レイマとは1人1人のためのロゴスだ。

そして、その時の私のために与えられたレイマ、その時のその人のために与えられたレイマだけでなく、私が、あなたが、その人が、1人1人が母の胎に宿る前からそれぞれ1人1人のためにすでに備えられていたロゴスがある。

それぞれにすでに割り当てられていたロゴスの一部分の栄光であり、栄光を現す者として、「私を」「あなたを」「その人を」「1人1人を」神がデザインして創った…そのように神が1人1人に分与された栄光として与えておられるロゴスがある。このそれぞれに栄光として分与され割り当てられたロゴスは、私たちがそれぞれ神から受け取っているその他のレイマの中核となっているレイマと言えるだろう。

この中核となっているレイマ、1人1人に割り当てられ栄光として分与されているロゴスは、「神が1人1人に与えて下さっている使命」であり、それ以上に栄光に満ちたものだ。私たち1人1人はイエスキリストの体の一部分、各器官、イエスキリストの栄光の一部分として創られている。

「神から与えられた使命のために生きる」とは1人1人に割り当てられ分与されたロゴスの一部分の栄光を現し建て上げるために生きることだ。

1人1人に割り当てられ分与されたロゴスとは、以下のように言うことができる。

エスキリストは全てのロゴスであり、全てのロゴスの栄光であられる神のことば。

神は私が生まれる前から、私を知っておられ、そのイエスキリストである全てのロゴスから「1つのロゴス」あるいは「いくつかのロゴス」…「ロゴスの一部分」を選んで抜き出し…その取り出したロゴスの一部分の栄光を分与してくださった…神の息、神の栄光を吹き入れて創造してくださった…

ロゴスの一部分の栄光として創られた者として、ロゴスの一部分の栄光を現す者として神は私をデザインし、あなたをデザインし、その人をデザインして1人1人に神御自身であり、神御自身の一部分であるロゴスの一部分、栄光の息を吹き入れて1人1人を創られた。

私たち1人1人は神のいのちの息を吹き込まれた存在だ。神のいのちが吹き込まれたとはどういうことだろうか?

女は男の栄光の現れと聖書に書いてある。(コリント人への手紙第一 11章 7節)だから、女がどのように創られたかを見ることによって、人がどのように創られたのかを見ることができる。

アダムのあばら骨が取り出され、アダムの一部分からエバが創造されたように、神は神御自身の一部分を取り出し人を創造した。

神は神御自身のいのちの息、神御自身の一部分、神御自身でありイエスキリストである全てのロゴスからロゴスの一部分を取り出し、神であるロゴスの一部分を分与して私たち1人1人を創られた。

神御自身であるいのちの息を吹き込み人を創られたとは、エバがアダムのあばら骨を取り出し創られたように、人は神御自身でありイエスキリストである全てのロゴスからロゴスの一部分を取り出し創られたということだ。

神のあばら骨、全てのロゴスであるイエスキリストのあばら骨とはロゴスの一部分。

エス様は渡される夜、1つのパンを裂き、皆に配られた。5つのパンと2匹の魚の時のように余ったパン切れはなかった。

エス様は渡される夜、弟子たちと共に食事をしておられたが、「これはわたしのからだです」と言って裂いて配られたパンは御自分の分として一切れも残すことなく配られた。「これはわたしの契約の血です」と言われた杯も御自分は一口も飲まずに全て分け与えられた。このことは、イエス様は御自分のあばら骨だけでなく体の全てを私たちに与え尽くし、体の全てだけでなく、御自身の全ての血、いのちを私たちに与え尽くしてくださったことを表している。

1つのパンから取り出された同じパンであるが、どれ1つとして同じ部分はない。似ている部分はあっても同じ部分は1つもない。キリストの体の各器官である私たちがそうであるのと同じだ。

人以外の被造物ですら、神のロゴスの栄光を表しているのだから、人が神の栄光であることは当然のことだ。

人以外の被造物は神のロゴスの栄光を表しているだけだが、神が「われわれのかたちとして、われわれに似せて」と仰せられて、ご自身のかたちとして創造された人は、(創世記 1章 26〜28節)神のロゴスの栄光を表すだけでなく、現すことができる。つくることができる。それがない場所にそれを建て上げ現すことができる。それぞれ自分に分け与えられたロゴスの一部分の栄光をこの地上に建て上げ築き上げることによって現し、神の御国をこの地上に建て上げ、築き上げることができる。

エスキリストが受肉した全てのロゴスであるように、「私」「あなた」「その人」「1人1人」はロゴスの一部分が受肉した神の栄光であることを知っているだろうか?

私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られていて、神は私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださった。(エペソ人への手紙 2章 10節)この箇所に書いてある「良い行い」とは神の栄光を現すことであり、

この箇所に書いてある「あらかじめ備えてくださった良い行い」とはそれぞれが割り当てられ分与されているそれぞれのロゴスの一部分の栄光を現すことだ。

皆が同じロゴスの一部分の栄光を分与されているのではない。皆、それぞれ、自分に分与されているロゴスの一部分があり、その栄光がある。

マリアがイエスキリストを身ごもり授かったように、「私」「あなた」「その人」「1人1人」は、神がそれぞれ1人1人に分け与えて下さっているロゴスの一部分の栄光をそれぞれ授かっている。

私や、あなたや、その人は使徒預言者・伝道者・牧師・教師としての分与は受けていないかもしれない。しかし、「私のために」「あなたのために」「その人のために」割り当てられ分与されたロゴスの一部分の栄光を現す者として、私たちは母の胎内に形造られる前から神に知られ、神によって定められ、創られていた。

全ての人、1人1人のために備えられていたロゴス、はじめから割り当てられていたロゴスがある。そうであることを知っていても、知らなくても、1人1人が1人1人のために備えられていたロゴスの一部分の栄光を現し建て上げる者として神によって創造されていることを、そのように1人1人を創造した神は知っておられる。

私たちそれぞれ1人1人はイエスキリストであるロゴスの全ての栄光を映し出す者ではない。

私のためのロゴスを神は備えておられた。私は私に割り当てられ分与されたロゴスの一部分の栄光としてデザインされている。

私という色眼鏡で見る時、私に割り当てられている神のロゴスの一部分が他の人に割り当てられている神のロゴスの一部分よりも栄光に光輝いて見え、他よりもはるかに価値があるように見える。

そして、他が劣っているかのようにさえ見える…そんな時、私は信仰によって、私の色眼鏡を一時的に外し、信仰の眼鏡を装着して神の御国を見る。

「神の目には同じように高価で尊い人たちであり、神の目には同じように高価で尊い働きであり、神の目には同じように尊い神の栄光であるのに、私の目、私の色眼鏡には優劣があるように見えているだけだ…。」そのように考え、そのように信じることで、私は私の色眼鏡を一時的に外し、信仰の眼鏡を装着して見ることができる。栄光に満ちた神の御国を、神の栄光である1人1人を見ることができる。神のシャロームに満ちた神の御国を見ることができる。そして、私という色眼鏡が私に見せていた優越感、敵対心は消えて見えなくなり、私の心に全ての人を尊敬する心、全ての人の存在を感謝する心、全てのことについて感謝する心が私の心の中に出現して泉となり、尊敬と感謝と賛美とシャロームが満ちている神の御国となる。

そして私は、装着している信仰の眼鏡のレンズを通して、私が一時的に外した私という色眼鏡も見ることができる。信仰の眼鏡のレンズを通して、私が一時的に外した、私という色眼鏡を見ながら、以下のような感謝と賛美と礼拝の祈りを神に捧げることができる。

主よ…。私にこの色眼鏡を与えてくださっていることを感謝します。私が私であるからこそ見える景色があることを感謝します。

私が生まれる前にあった全てのことについても、私が生まれてから今まであった全ての事についても感謝します。

私が生まれる前にあった全てのことと、私が生まれてから今まであった全ての事によって私が私であることを感謝します。

私が私であることによって栄光を現し建て上げることができるロゴスの一部分が私に割り当てられ分与されていることを感謝します。

…私のために割り当てられたロゴスの一部分が他の人に割り当てられたロゴスの一部分よりもはるかに光輝いて見える私の色眼鏡を感謝します。

過去から現在の全ての出来事によって私が私となっているからこそ私の目に光輝いて見え、私を引き寄せるロゴスがあります。

過去から現在の全ての出来事によって私が私となっているからこそ、私にある志、ビジョンがあり、私が建て上げたいと願うロゴスがあります。

私がこのロゴスを建て上げたいと願う者として神により創り上げられているように、私の色眼鏡には光輝いているようには見えないロゴスが光輝いて見え、その光輝いて見えるロゴスを建て上げたいと願う者として神により創り上げられている人たちが神の御国の栄光として存在してくれていることを感謝します。

私が母の胎に宿る前も私が生まれてからも、このロゴスの一部分の栄光を現すために私が創られていたことを…私が知る前から…過去から現在の全ての出来事は私がこのロゴスの栄光を現す者となるための道備えとなっていました。その道備えは私が生まれた時からずっと、私が生まれる前からずっと続いていました。

…私が生まれた時からの全ての出来事と、私が生まれる前からの全ての出来事という絵の具によって…

…私という筆で…

…私の時間という紙に…

…私が私であることによって栄光が現される私に割り当てられたロゴスの一部分の栄光を描き続け、現し続けてくださっている主…

…主の御名はとこしえにほむべきかな…

"私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。"
エペソ人への手紙 2章 10節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会

[出エジプト記 26:1]

幕屋を十枚の幕で造らなければならない。幕は、撚り糸で織った亜麻布、青、紫、緋色の撚り糸を用い、意匠を凝らして、それにケルビムを織り出さなければならない。

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会