シャロームを所有する

私は預言の賜物の回復を願っている。しかし私は預言の賜物を否定する方々を心から尊敬し感謝している。私が預言の賜物を熱心に求めて聖書に従うためなら…私は預言の賜物を否定する方々を不満に思い…全て感謝せよと語る聖書に逆らってよいだろうか?預言を認める牧師先生だけ尊敬し…預言の賜物を否定する牧師先生含む5役者や教団教派の方々を尊敬せず…互いに尊敬しなさいと語る聖書に逆らってよいだろうか?自分が建てたい御言葉を建て上げるために他の御言葉を壊してできた砂の上に自分が建てたい御言葉を建て上げ…家を建ててよいのだろうか?

「②成熟した幼子は神の全きシャロームの中で生きる②教えの剣によって引かれた境界線の囲いによって守られる≪分割の時代≫の後に繋ぎ会わせる≪平和の時代≫が開かれる」

1️⃣
神が奥義として隠しておられた真理が啓示される時、新しい時代が開かれる…その時代にはまだ隠されていた真理が啓示されることによって後の時代が開かれる。後の時代になってもまだ隠されたままであった真理がさらに啓示されることによってさらに次の時代が開かれる。そのようにして隠されていた真理が1つ1つ啓示されることによって1つ1つの新しい時代が開かれ、神の御心の計画は順序正しく1つ1つ成就し前進し続けている。

私たちは「神が全ての人を愛してくださっていることついて皆が知るべきだ」と思っている。何故ならこのことは神がキリストの体である私たちにすでに現し与えてくださっている啓示であるからだ。

しかし、神が全ての人を愛してくださっているという真理の啓示は旧約聖書の時代には今の時代ほどには現されてはいなかった。新約聖書の時代にイエスキリストが生ける神の啓示として地上に来てくださった時、「神が全ての人を愛してくださっている」という真理が神の民に現された。

旧約聖書の時代にも神は神の民を愛しておられた。しかし、旧約聖書の時代には神が神の民を愛しておられることを神は新約聖書の時代ほどには現すことなく隠しておられた。神は旧約聖書の時代には「義の神、聖い神、救いの神、全能の神」としては御自身を現し啓示しておられた。だが「神は愛に満ちた神」であるという真理の啓示は隠しておられたため、「私たちの神は愛の神ではなくておそろしい神だ」と多くの神の民が間違った思い込みをすることを神は旧約聖書の時代には忍耐して見過ごしておられた。何故、神は旧約聖書の時代には「愛の神」であることを隠し「神は愛の神ではなくておそろしい神だ」と多くの神の民が間違った思い込みをするままにしておられたのだろうか?

何故なら旧約聖書の時代は旧約聖書のことばを印刷することがまだできない時代であったからだ。印刷技術がまだなかった旧約聖書の時代には手書きで旧約聖書のことばを1文字も増やすことなく、1文字も減らすことなく、1文字も間違えることなく、全く同じに保つ必要があった。しかも途方もない年月に渡って、最初に書かれた文字と全く同じであるというその完成度を完全に保ち続けなければならなかった。もし旧約聖書の時代の人々が私たちと同じように「神は愛なり」と理解していたなら、今の時代を生きる私たちの手にある旧約聖書は私たちの手にある今の旧約聖書の完成度には到底及ばないものとなっていたことだろう。そのように私が思う理由は、過去に私が以下のようなことばを牧師先生から聞いたことがあるからだ。「私たちの時代は聖書の誤字脱字を見つけて報告すればお金がもらえて、それがちょっとした小遣い稼ぎになっていた…」

「神は愛なり」と知っているからこそ、神を愛する者たちは誤字脱字だらけの聖書をつくろうとはしない。誤字脱字のない素晴らしい聖書をつくろうとする。しかし誤字脱字は避けられない。何故なら人間はミスをするものであるからだ。しかし、ミスすることが当然の人間でありながら、旧約聖書の時代に旧約聖書のことばを1文字もミスすることなく途方もない年月に渡って書き残し保ち続けることができたのは、神の助け…ももちろんあるだろうが…命を削るほどの緊張感の中にあって命がけで正確に書き残し続けたからだ。「私たちの内の誰かが1文字でも書き損じるようなことがあれば神に打たれて一瞬にして息絶えるかもしれない…」そのように思いながら命をすり減らすほどの緊張感の中で命がけで書いてくれた神の民たちがいたからこそ、今の完成度を保っている旧約聖書が私たちの手にある。

今の旧約聖書を私たちに得させるために神は旧約聖書の時代の神の民には「神は愛に満ちている」という真理の啓示を知ることができないようにおおいをかけて隠しておられ、多くの神の民が「神は愛の神ではない」と間違った理解を持ち続けることを神は忍耐して見過ごしておられた。

2️⃣
今の時代に生きている私たちが今の完成度の旧約聖書を得るために「神は愛の神ではない」と間違った理解を持ち続けることを神は旧約聖書の時代には忍耐して見過ごしておられたように…今までの時代はキリストの体の中に「さばき」があることを神は忍耐して見過ごしておられた…何故なら幼子が守られ、健全に成長するためには境界線となる≪囲い≫が必要であるからだ。

幼子のはじめの頃はベビーベッドの≪囲い≫に守られていることが必要だ。幼子が成長するとベビーベッドの≪囲い≫は幼子の境界線ではなくなり、家がその成長した幼子にとっての境界線となり、囲いとなる。

そのように幼子には境界線となる≪囲い≫が必要であるように、キリストの体のそれぞれの部分全体がまだ幼かった時代にはキリストの体にも境界線が必要であった。

キリストの体には手の部分だけでなく、足の部分があり、手の部分、足の部分だけでなく他の部分もある。

キリストの体の手の部分には手の部分にとっての≪囲い≫となる境界線がある。足の部分には足の部分にとっての≪囲い≫となる境界線がある。手の部分に属する群れがいる≪囲い≫の内側は足に属する群れにとっては≪囲い≫の外であり、足の部分に属する群れがいる≪囲い≫の内側は手の部分に属する群れにとっては≪囲い≫の外となっている。

体に手の部分や足の部分があるように、キリストの体には「福音派」や「聖霊派」がある。手は足より高い位置にあるが、足は体の土台だ。手と足に優劣はないように、「福音派」と「聖霊派」には優劣はない。しかし、「福音派」は「聖霊派」をさばき、「聖霊派」は「福音派」をさばいている。

互いにさばき合っている福音派聖霊派の両者にたいして神が厳粛なさばきを下すことなく、忍耐しながらそのままにして見過ごしておられた理由は…聖霊派の親が福音派をさばいていることばが聖霊派の幼子たちにとっての≪囲い≫となっていて、福音派の親が聖霊派をさばくことばが福音派の幼子たちにとっての≪囲い≫となっているからだ。

神は聖霊派の≪囲い≫の中にいるべき者を聖霊派の≪囲い≫の中に置き、福音派の≪囲い≫の中にいるべき者を福音派の≪囲い≫の中に置いておられる。

それは、神によって聖霊派に属する者として選ばれ油注がれている者が聖霊派に属する者たちの群れの中で聖霊派に属する者たちの教えを聞きながら聖霊派に属する者として成長するためであり…同様に、神によって福音派に属する者として選ばれ油注がれている者が福音派に属する者たちの群れの中で福音派に属する者たちの教えを聞きながら福音派に属する者として成長するためだ。

手を足に置いても、手と足が混ざり合うことはないが、神によって聖霊派に属する者として選ばれていて、聖霊派に属する者として形造られるべき幼子が聖霊派をさばいている福音派の教えを聞くことはまだ幼子である者にとっては混乱となる…同様に、神によって福音派に属する者として選ばれていて、福音派に属する者として形造られるべき幼子が福音派をさばいている聖霊派の教えを聞くことはまだ幼子である者にとっては混乱となる。

足と手が両方ある方が良いが…もし、足が足として形造られることを手の存在が妨げ、つまずかせるなら、足が足として形造られる時まで手と足を引き離し、同様に、手が手として形造られることを足の存在が妨げ、つまずかせるなら、手が手として形造られる時まで手と足を引き離すほうが体全体にとって良いことだ。

"もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切って、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに落ちるよりは、よいからです。"
マタイの福音書 5章 30節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会

だから、手は足のようにはならずに手として形造られ健全にまっすぐ成長するために、同様に、足は手のようにはならずに足として形造られ健全にまっすぐ成長するために、福音派福音派として形造られ成長するために、聖霊派聖霊派として形造られ成長するために…聖霊派福音派が互いにさばき合い、互いに互いを囲いの外に閉め出し合うことを神は忍耐して見過ごしておられた。

聖霊派福音派が聖書的な生き方をしていないと言ってさばき、福音派聖霊派が聖書的な生き方をしていないと言ってさばいている。聖霊派の中にもいくつかのグループがある。例えば、教会秩序と牧師を尊ぶグループと教会秩序と牧師を尊ばないグループがあって、両者はどちらも聖霊派ではあるが互いに聖書的ではないと言い合いさばきあっている。そのさばきが聖霊派の≪囲い≫の中に≪囲い≫をつくっている。≪囲い≫の中にいくつかの≪囲い≫があり、その≪囲い≫の中のいくつかの≪囲い≫の中にもいくつかの≪囲い≫があって…囲いの中の囲いの中の囲いの中の囲いがあることによってそれぞれの幼子は守られ、それぞれの幼子が行く道にふさわしく教育され健全に成長することができる。そのように幼子は…宇宙の、地球の、世界の、どこかの国の、どこかの都道府県の、どこかの町の、どこかの家で守られ、健全に成長することができるように神が備え計画しておられる。

神がキリストの体の中にさばきがあることを忍耐して見過ごしておられたのはそれぞれの幼子のために神が計画し備えてくださったそれぞれの囲いの中で守られ、健全に成長することができるためだ。

3️⃣
≪囲い≫とは教えのことであり、教えによって境界線が引かれ≪囲い≫がつくられる。それぞれの幼子のための、それぞれの霊的リーダーを神が備えておられ、それぞれの霊的リーダーが「これは聖書的だが、これは聖書的ではない」と言って教えることによって、それぞれの霊的リーダーが聖書的だと思っている教えの境界線が引かれ、その境界線、その≪囲い≫の中でそれぞれの幼子は守られ健全に成長することができる。

しかし…「これは聖書的で、これは聖書的ではない」と言うことによって、それぞれが聖書的であると思うことと、聖書的ではないと思うこととの間に境界線を引き、聖書的ではないと思うものを「さばきの心」と「さばきのことば」で切り分けることは、キリストの体を切り分け分割していることと同じだ。

キリストの体全体の≪囲い≫の内と外を区別しようとして「ここから先はキリストの体の外」と勝手に決めつけて、キリストの体の外に引いたつもりのラインが、キリストの体の外(|⬜️|)ではなくキリストの体の内(🔳)にラインが引かれていたとしたら…キリストの体に切り傷をつけ(🔳)、キリストの体を切り裂き、キリストの体の一部分を切り捨てるに等しいことをしてしまっていることになる。

そして、その刈り取りとして…互いに神の御国の栄光の一部分、神の御国の力の一部分を失い、一部分を失った神の御国しか持っていないために、キリストの体が本来できるはずのことができない状態のままになっていて、それぞれのキリストの体の部分にそれぞれの問題と壁があって神の国と神の御国の福音の前進を妨げている。

福音派はキリストの体ではないのだろうか、聖霊派はキリストの体ではないのだろうか、あなたが聖書的ではないと思うことを聖書的だと言う人はキリストの体ではないことになるのだろうか…

あなたにとって聖書的なことと、あなたにとって聖書的でないこととの間にあなたが線を引き、それを境界線とすることができるのだろうか…そのようにして神の御国を切り分けることができるのだろうか…

神の御国は完全であり、神の御国には完全な勝利がある。イエスキリストは十字架の贖いにより、キリストの体である私たちに神の御国の完全な勝利を与えてくださっている。しかし、神の御国の一部分を切り捨ててしまっているのであれば、神の御国の完全な勝利を相続することはできない。

それはまるでグーちょきパーの3つがあるジャンケンのようだ。キリストの体のグーの部分の群れにはパーの問題が高い山のような壁となり、キリストの体のチョキの部分の群れにはグーの問題が高い山のような壁となり、キリストの体のパーの部分の群れにはチョキの問題が高い山のような壁となっている。

神の御国には完全な勝利がある。神の御国にはグーもチョキもパーもあって完全に勝利することができる。キリストの体にはグーもチョキもパーも神の賜物としてすでに与えられている。キリストの体である私たちは互いが互いに神から与えられた神の賜物であるからだ。だから、グーはいらないからチョキになれと言ってはならない。グーちょきパーのどれか1つでも失うならキリストの体全体は敵に完全に勝利することができなくなってしまうからだ。

それぞれのキリストの体の部分が、キリストの体全体のための神の賜物となることによって…それぞれのキリストの体がグーの賜物、チョキの賜物、パーの賜物を所有し合い、所有させ合うなら、キリストの体全体はグーの壁をブレイクスルーし、チョキの壁をブレイクスルーし、パーの壁をブレイクスルーすることができるようになる。

神の目から見て、キリストの体のそれぞれの器官があるべき形に形造られるまでの期間、キリストの体の中に「善悪の知識の木の実」による「さばきの剣」と「分別の剣」と「分割の剣」によって「いばらとあざみの刈り取り」が生じ続けることを神は忍耐して見過ごしておられた。手は手として形造られるためには手の群れがいる囲いの中に一緒にいなければならない。足が足として形造られるためには足の群れがいる囲いの中に足の群れと一緒にいなければならない。しかし、神の目から見て、手が手として形造られ、足が足として形造られ、キリストの体のそれぞれの部分がそれぞれの部分として形造られた時、キリストの体の中に引かれていた境界線は囲いであったり、山のように高い壁であったり、谷のように深い溝ではなくなり、キリストの体の部分は互いに出会い、互いの顔からおおいがとられて、顔と顔を合わせるようになり、互いにイエスキリストの御顔を見るようになる。さばきの剣によってキリストの体の中に引かれていた切り傷は癒される。イエスキリストは全ての人の病の癒しのために十字架にかかられただけではなく、裂かれたキリストの体全体が癒され1つとなるために十字架にかかってくださったからだ。

荒野で叫ぶ者の声がする。主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ…主の道とはどこか…主の通られる道とはどこにあるのか…主の通られる道はキリストの体だ。キリストの体こそ主が通られる道だ。キリストの体を通って主は栄光の王としてこの地に入って来られる。キリストの体の中にあるすべての谷はうずめられ、すべての山と丘とは低くされ、曲がった所はまっすぐになり、でこぼこ道は平らになる。こうして、あらゆる人が、神の救いを見るようになる。ハレルヤ。

神はイエスキリストの肉体を敵が裂くことを許した。私たちを贖い、キリストの体とならせるために…神はイエスキリストの体である私たちを敵が分裂させることを許した。分裂したキリストの体が1つとなる栄光をこの地のあらゆる人が見るようになり、あらゆる人が、神の救いを見るようになるために。ハレルヤ。

"神は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました。"
使徒の働き 17章 26節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会

"目が手に向かって「あなたはいらない」と言うことはできないし、頭が足に向かって「あなたがたはいらない」と言うこともできません。"[コリント人への手紙 第一 12:21]聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

"そのことは預言者イザヤのことばの書に書いてあるとおりである。「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。
すべての谷はうずめられ、すべての山と丘とは低くされ、曲がった所はまっすぐになり、でこぼこ道は平らになる。
こうして、あらゆる人が、神の救いを見るようになる。』」"
ルカの福音書 3章 4〜6節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会

"あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
もし互いの間に愛があるなら、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」"
ヨハネ福音書 13章 34〜35節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会

"わたしにはまた、この囲いに属さないほかの羊があります。わたしはそれをも導かなければなりません。彼らはわたしの声に聞き従い、一つの群れ、ひとりの牧者となるのです。"
ヨハネ福音書 10章 16節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会