シャロームを所有する

私は預言の賜物の回復を願っている。しかし私は預言の賜物を否定する方々を心から尊敬し感謝している。私が預言の賜物を熱心に求めて聖書に従うためなら…私は預言の賜物を否定する方々を不満に思い…全て感謝せよと語る聖書に逆らってよいだろうか?預言を認める牧師先生だけ尊敬し…預言の賜物を否定する牧師先生含む5役者や教団教派の方々を尊敬せず…互いに尊敬しなさいと語る聖書に逆らってよいだろうか?自分が建てたい御言葉を建て上げるために他の御言葉を壊してできた砂の上に自分が建てたい御言葉を建て上げ…家を建ててよいのだろうか?

「③成熟した幼子は神の全きシャロームの中で生きる③キリストの体が『私たちも、私たちに負いめのある人たちをみな赦しました』と祈ることによって≪主の祈り≫のことばを地上にならせる権威に満ちた油注ぎを相続するために、イエスキリストは十字架により敵意と隔ての壁を打ち壊された」

1️⃣
エスキリストが教えて下さった≪主の祈り≫のことばを見ることによって、神に贖われ神の子とされたキリストの体である私たちがどれほど偉大な力と権威があるかについて見ることができる。

聖書に以下のように書いてある。"何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。
私たちの願う事を神が聞いてくださると知れば、神に願ったその事は、すでにかなえられたと知るのです。"(ヨハネの手紙第一 5章 14〜15節)…これはなんと偉大な力と権威だろうか…。神の御心にかなうことを願いさえすればその願いを神がかなえてくださるとは…しかも主は「主の祈りが地上になることが神の御心だから祈りなさい」とキリストの体である私たちにもうすでに教えて下さっているではないか。

だから≪主の祈り≫は…"何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。私たちの願う事を神が聞いてくださると知れば、神に願ったその事は、すでにかなえられたと知るのです。"…と聖書に書いてあるみことばと合わせて1つにすることができる。何故なら「神の御心にかなう願い」という大きな枠の中には≪主の祈り≫以外にも色々なことがあるが、その「神の御心にかなう願い」という大きな枠の中に≪主の祈り≫が確実に含まれているから≪主の祈り≫を祈りなさいとイエスキリストはキリストの体である私たちに教えてくださったからだ。

だから聖書は以下のように語っていることになる…「神のみこころにかなう≪主の祈り≫をするなら、神はその≪主の祈り≫を聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。私たちの≪主の祈り≫を神が聞いてくださると知れば、神に願ったその≪主の祈り≫は、すでにかなえられたと知るのです。」

…これはなんという偉大な権威、なんという偉大な力だろうか…キリストの体である私たちが≪主の祈り≫を祈れば、≪主の祈り≫に書いてあるほどの神の偉大さに満ちたことがこの地上になるとは…

2️⃣
この≪主の祈り≫によって、キリストの体である私たちは蛇やさそりを踏みつけ、サタンを踏み砕くことができる。

そして、この≪主の祈り≫によって異邦人教会とアブラハムの子孫であるユダヤ人がどちらも完全に成長したキリストの花嫁として整えられていて、キリストの体全体が1つとなって≪主の祈り≫を祈り『祝福あれ。主の御名によって来られる方に』と叫ぶ時、イエスキリストが再臨してくださって、サタンの頭を完全に踏み砕いてくださる。

≪主の祈り≫こそがキリストの体である私たちに与えられている最も神の偉大さに満ちた権威であり、最も神の偉大さに満ちた力だ。

キリストの体である私たちには≪主の祈り≫をこの地上にならせる権威が与えられている。

≪主の祈り≫の力と権威に満ちた油注ぎがキリストの体である私たちに流れる時、キリストの体である私たちのために備えられていた最も偉大な権威と最も偉大な力を得ることができる。

3️⃣
しかし、キリストの体である私たちはまだ、「まさに私たちは≪主の祈り≫がこの地上になるのを見た」と言えるほどの≪主の祈り≫の力と権威に満ちた油注ぎによってこの地上に現される神の栄光を見てはいない。キリストの体である私たちはまだ≪主の祈り≫の力と権威と栄光の欠片しか見てはいない。

キリストの体である私たちのために備えられている≪主の祈り≫の力と権威に満ちた油注ぎをキリストの体である私たちが取り戻して豊かに相続する時、キリストの体によって今まで地上に現されていた力と権威と栄光とは比べられないほどの力と権威と栄光がこの地上に現されるようになる。その力と権威と栄光は、神の宮の先の栄光である初代教会よりもはるかにまさる。

私たちキリストの体は初代教会の頃にあった力と権威と栄光を回復させて終わりではない。もし、初代教会がキリストの体にとってのベストであったなら、神は何のためにサタンに初代教会を分裂させることを許可されたのか?神は何のためにサタンに初代教会を分裂させ、キリストの体を麦のようにふるいにかけることを許可し、キリストの体である私たちを≪教会の分裂≫という燃えさかる炉の中を通らせなさったのだろうか…キリストの体である私たちが≪教会の分裂≫という燃えさかる大きな炉の中を何世代にも渡ってくぐり抜けた先に初代教会の時ですらも比べものにならないほどのベストがあるからだ。

初代教会から生まれた子供のような≪キリストの体である私たち≫が幼かった頃は、初代教会ほどの力と権威と栄光はなかった。初代教会から生まれた子供のような≪キリストの体である私たち≫がそれぞれ大人になった今でも初代教会ほどの力と権威と栄光はほとんどないかもしれない。しかし、初代教会から生まれた子供のような≪キリストの体である私たち≫がそれぞれ大人になっているだけでなく、それぞれが互いにそれぞれの器官として1つの体となるなら、初代教会の時すら比べものにならないほどの力と権威と栄光がこの地上に現されるようになる。

確かに今までの時代も、今の時代も、キリストの体はこの地上に力と権威と栄光を現し続けていることは事実だ。しかし、もう1つの事実がある。1つのパンであるはずのキリストの体はバラバラに裂かれ、パンの欠片となってしまっている。1つのパンであるはずのキリストの体がバラバラに裂かれてしまっているパンの欠片となっていた今までですらも、この地上にこれほどの力と権威と栄光を現し続けることができているなら、キリストの体であるそれぞれの教団教派やそれぞれのグループが1つのパンとなるなら、どれほどの力と権威と栄光がこの地上に現されるようになることだろう。

キリストの体がバラバラに裂かれてパンの欠片やパンくずとなっていようとも、キリストの体であるパンの欠片やパンくずはこの地上にいる人々に豊かないのちを与える。今までの地上の歴史の中で、キリストの体であるそれぞれの教団教派やそれぞれのグループが、イエスキリストのパンの欠片としてこの地上にこれほどのいのちと豊かさを与えることができているなら、キリストの体であるそれぞれの教団教派やそれぞれのグループが、天から下って来た生ける1つのパンとなるなら、初代教会すらも比べものにならないほどの神の御国の力と権威と栄光がこの地上に現されるようになる。

4️⃣
キリストの体である私たちは1つのパンであり、1つの体だ。

何故ならイエスキリストがキリストの体である私たちを1つのパン、1つの体とするために十字架にかかってくださったからだ。イエスキリストは十字架にかかる前に、「彼らがみな1つとなる」ことを願い求めて父なる神に祈りを捧げてくださった。聖書に御心にかなう願いはすでにかなえられていると書いてある。だから、イエスキリストが「彼らがみな1つとなる」ことを願い求めて父なる神に捧げてくださった祈りはすでにかなえられている。…「かなえられている?まだかなえられていないではないか」と思うだろうか?イエスキリストが父なる神に捧げた祈りはすでにかなえられている。私たちの目にはまだかなえられていないように見えているだけだ。≪真理の領域≫においてそれはすでにかなえられている。目に見える地上の現実の領域においてまだかなえられていないだけだ。

しかし、≪真理の領域≫は何者にも変えることはできない。≪真理の領域≫は神のことばの領域であり、神の約束の領域であるからだ。何者も神のことばと、神の約束を変えることはできない。「わたしはある」と言われた方が「ある」と言われたことを誰もなくならせることはできない。しかし、「ある」という事実を変えてなくならせることはできないが、まるでないものであるかのようにしてしまうことはできる。神が「ある」と言われたものを、私たちに与えられている≪信仰の領域≫で「ない」と信じるなら、「ある」はずのものを、この地上の現実の領域においてはまるでないものであるかのようにしてしまうことができる。

神が「ある」と言われたものであっても、私たちの目に見えるこの地上の現実に「まだない」ことを理由に私たちが私たちに与えられている≪信仰の領域≫でも「ない」と信じるなら、神が「ある」と言われたものは「ある」のに、まるでないもののようになっているこの地上の現実の上に立ち歩き生きることになる。…このように神が「ある」と言われた≪真理の領域≫を目に見える現実という名のおおいでおおい隠し、現実という名のふたでふたをして、現実という名のふたの上に立ち歩き生きることはできる。しかし、現実という名のおおいがかけられているだけで、≪真理の領域≫である神のことば…イエスキリスト…神の約束は…昨日も今日もいつまでも同じで変わることなく「ある」

神のことば(神の約束)とかけ離れた強大な山のような現実があろうとも、地上の現実が≪真理の領域≫の上にあるのではなく、≪真理の領域≫が地上の全ての現実の上にあり、地上の全ての現実をおおいつくしている…それが昨日も今日も変わることのない事実だ。神のことば(神の約束)とかけ離れた強大な山のように見える現実がどんなに「ない」かのように見せかけていようとも、この地上に神が「ある」と約束したものは「ある」…この地上に神が「ならせる」と言ったことは「なる」だけでなく、もうすでに「なっていること」を私たちに与えられている≪信仰の領域≫で認め「ある」と信じれば、≪真理の領域≫に「ある」ものはこの地上に『現れる』…この地上にすでに「あったもの」が『現れる』…この地上の現実の上にあったものが『現れる』…神が光がなかった領域に「光あれ」と言って光が「ある」ようになさったように、神の似姿である私たちキリストの体は、神が「ある」と言ったものは「ある」と信じ語ることによって、この地上でまるで全くないもののようになっていたけれども、実際には、すでにこの地上に「あったもの」を『現す』ことができる。

5️⃣
どんな強大な山のような現実も、≪真理の領域≫の下にある。どんな強大な山のような現実も≪真理の領域≫の水でおおいつくされている。ノアの時代に"水は、いよいよ地の上に増し加わり、天の下にあるどの高い山々も、すべておおわれた。"(創世記 7章 19節)と聖書に書いてあるように…地上の現実のすべての山々は≪真理の領域≫の水と海の下に沈み、おおわれている。しかし、キリストの体である私たちが≪真理の領域≫ではなくて地上の現実の上に立ち歩き生きるなら、この地上の強大な現実は大いなる山のような存在となる。だが…どんな現実の山々よりも、天の現実は高く、海の水のように地上の現実の山々をおおいつくしていると信じるなら…地上の全ての強大な現実の山々は天の現実の海の中でひれ伏し、天の現実の海の中に沈んで消えて、まるではじめからなかったもののようになり、キリストの体である私たちはこの地上の強大な現実の山々をおおいつくしている≪真理の領域≫である天の現実の水の上、天の現実の海の上に立ち、まるで平らな道を歩いているかのように、現実のすべての山々の上を歩き生きることができる。

光が来る時、やみが消え去るように、天の現実についての啓示の光がキリストの体である私たちに来る時、キリストの体である私たちは地上の現実の山々を全て海に投げ込み、海の中に沈めて、ひれ伏させることができるようになる。

6️⃣
キリストの体であるそれぞれの教団教派やそれぞれのグループが1つのパン、1つの体であることは≪真理の領域≫にすでに「ある」ことであり、すでに天の現実となっている。何者も天の現実を変えることはできない。

しかし、キリストの体であるそれぞれの教団教派やそれぞれのグループが「あなたはいらない」と互いに言い合い、「あなたがたはいらない」と互いに言い合いながら、隔ての壁がないはずのキリストの体の中に隔ての壁を≪信仰の領域≫の中で築き上げ続けているので、地上の現実においても隔ての壁はまだ残されたままになっているかのように存在し続けている。

エスキリストが隔ての壁を打ち壊したので、キリストの体の中に隔ての壁はすでになくなっているが、≪信仰の領域≫において「ない」はずの隔ての壁を「まだある」と信じ認めているので、「ない」はずの隔ての壁は地上の現実の領域に「まだある」ことになっている。イエスキリストが打ち壊した隔ての壁がまだある地上の現実の上にキリストの体が立ち歩き生きているので、イエスキリストが打ち壊した隔ての壁が地上の現実ではまだ残されたままになっているかのように存在し続けている。

7️⃣
しかし、神の目から見て、キリストの体全体がまだ幼い時代には、キリストの体にないはずの隔ての壁が存在していることは必要なことであった。それは広い広いキリストの体の中で幼子が迷子にならないためだ。キリストの体の手に属する者が、私はキリストの体の手に属する者だという霊的アイデンティティーを忘れたり、失ったりして迷子にならないためだ。自分はキリストの体のどの部分に神が置いてくださった者であるのかを見失わないためだ。隔ての壁である囲いがなければ幼子はどこまででも遠くへ行けてしまう。

この地上においてもこのようなことを見ることができる…例えば…医者を目指す者が医学の勉強よりも歌うことに時間を費やしていて医者になれるだろうか?あるいは、歌手を目指す者が歌うことよりも医学の勉強に時間を費やしていて歌手になれるだろうか?

キリストの体においても、それぞれの幼子には…神が計画し、デザインしたとおりの者として形造られ建て上げられる時まで、自分がとどまるべき群れ、場所、自分がとどまるべき群れの教え、自分がとどまるべき領域がある。

キリストの体は1つだが、キリストの体には各器官がある。各器官とはそれぞれの教団教派やそれぞれのグループのことだ。そして各器官の中にはそれぞれの部分があるように、それぞれの教団教派やグループの中にもいくつかのグループがあり、いくつかのグループの中に1人1人がいる。

各器官と各器官の部分がまだ神の目から見て幼かった時代には、各器官や各器官の部分が混ざり合い、混乱しないために、各器官と各器官の間には隔ての壁が存在し続けていることを神は忍耐して見過ごしておられた。

神の目に各器官が各器官として整っていて、各器官に属する者たちが、各器官に属する者たちとして整っていて、自分はどの器官のどの部分であるかを、誰にも奪い取ることができないほどにはっきりと知っている者たちがキリストの体の中で建て上げられ整った時、それぞれの教団教派やそれぞれのグループとを互いに隔てていた敵意と隔ての壁はこの地上の現実においても打ち壊されるようになる。聖書に…"野生種であるオリーブの木から切り取られ、もとの性質に反して、栽培されたオリーブの木につがれたのであれば、これらの栽培種のものは、もっとたやすく自分の台木につがれるはずです。"(ローマ人への手紙 11章 24節)…と書いてある。切り取られてももっとたやすくつがれる…と書いてある。キリストの体はそれ以上にたやすく1つになる。私たちの目にはどのようにして1つになることなんてできるだろうか…と見えるが、もっとたやすく以上にたやすく1つになる。キリストの体は切り取られていない。はじめからずっと1つのままだ。イエスキリストが十字架によって、キリストの体の中にある敵意と隔ての壁を打ち壊してくださったので、敵意と隔ての壁はすでになく、すでに1つとされている。≪真理の領域≫においてキリストの体である私たちは1つとされている。その天の現実は昨日も今日も変わることがない。その天の現実をキリストの体である私たちが知る時、見る時、≪真理の領域≫にすでにあったものがこの地上に現されるようになる。

8️⃣
それぞれの教団教派やそれぞれのグループとを互いに隔てていた敵意と隔ての壁が打ち壊される時、キリストの体は≪主の祈り≫の力と権威と栄光に満ちた油注ぎの一部分であり、パンくずのような部分的なものではなく…≪主の祈り≫の力と権威と栄光に満ちた油注ぎを豊かに相続することができるようになる。

それぞれの教団教派やそれぞれのグループとを互いに隔てていた敵意と壁が残されたままになっているのであれば、キリストの体は≪主の祈り≫の力と権威と栄光に満ちた油注ぎを豊かに相続することができず、パンくずのような一部分しか与えてもらうことはできない。

何故なら、キリストの体である私たちが≪主の祈り≫の力と権威と栄光に満ちた油注ぎを豊かに受けるには条件があるからだ。敵はその条件が何であるかを知っている。キリストの体である私たちが≪主の祈り≫の力と権威と油注ぎを豊かに受けるための条件は…≪主の祈り≫のことばの中にはっきりと書かれていて、聖書の中にはっきりと現されている…キリストの体である私たちは主の祈りのことばの中に…『私たちも、私たちに負いめのある人たちをみな赦しました』…ということばがあることを知っているはずだ。

主の祈りは『私たちも、私たちに負いめのある人たちをみな赦しました』…と言えるようになった者たちに主が与えてくださる権威に満ちた祈りだ。

『私たちも、私たちに負いめのある人たちをみな赦しました』…と言えない者たちは≪主の祈り≫を地上にならせることができる油注ぎを相続する条件を満たしていない。しかし、『私たちも、私たちに負いめのある人たちをみな赦しました』…と言えない者たちではあっても≪主の祈り≫が地上になることを熱心に願い求め続けるなら、あわれみ深い神は≪主の祈り≫を地上にならせる油注ぎを相続する資格のない者たちに、≪主の祈り≫を地上にならせることができる油注ぎのパンくずを与えてくださる。

しかし、『私も、私に負いめのある人たちをみな赦しました』と言えるようになった者、自分に負いめのある人たちをみな赦した者が≪主の祈り≫を祈る時、≪主の祈り≫が今まで以上に地上になるようになるのを見ることができるようになる。そして…キリストの体である誰か個人である「私」ではなくて、キリストの体である「私たち」が『私たちも、私たちに負いめのある人たちをみな赦しました』と、主の御前で口先だけでなく、私たちに負いめのある人たちをみな赦したうえで≪主の祈り≫を私たちキリストの体が祈るなら…これこそがまさに≪主の祈り≫の力だ…神の御国が地上に来た…と言えるほどの神のみわざと神の栄光を見るようになる。

『私たちも、私たちに負いめのある人たちをみな赦しました』…このことばの実行がキリストの体の中で実行されている深さに応じて、キリストの体は≪主の祈り≫の力と権威と油注ぎにさらに深く満たされ、さらに偉大な神の御国の栄光がこの地上に現されるようになる。

神の目から見て…『私たちも、私たちに負いめのある人たちをみな赦しました』…このことばの実行がキリストの体の中に満ちるようになった時…キリストの体である私たちが祈る≪主の祈り≫によって、最も完全な神の御心であり、最も完全な神の御国の栄光と力と権威であるイエスキリストが再びこの地上に来てくださる。

「全ての人を赦すことができる者となるために必要な鍵」は「人は全知全能の神ではないので誰もさばくことができないこと」について知ることだ。人が人をさばくことは…人が全知全能の神ではないのに、全知全能の神のようになろうとすることであり、善悪を知る知識の木の実をくちにすることと同じだ。


"私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。"
マタイの福音書 6章 12節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会

"私たちの罪をお赦しください。私たちも私たちに負いめのある者をみな赦します。"
ルカの福音書 11章 4節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会

"キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、
ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、
また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。"
エペソ人への手紙 2章 14〜16節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会

"この宮のこれから後の栄光は、先のものよりまさろう。万軍の主は仰せられる。わたしはまた、この所に平和を与える。--万軍の主の御告げ--」"
ハガイ書 2章 9節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会

"水は、いよいよ地の上に増し加わり、天の下にあるどの高い山々も、すべておおわれた。"
創世記 7章 19節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会

"まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海に入れ』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。
だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。
また立って祈っているとき、だれかに対して恨み事があったら、赦してやりなさい。そうすれば、天におられるあなたがたの父も、あなたがたの罪を赦してくださいます。」*"
マルコの福音書 11章 23〜25節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会