シャロームを所有する

私は預言の賜物の回復を願っている。しかし私は預言の賜物を否定する方々を心から尊敬し感謝している。私が預言の賜物を熱心に求めて聖書に従うためなら…私は預言の賜物を否定する方々を不満に思い…全て感謝せよと語る聖書に逆らってよいだろうか?預言を認める牧師先生だけ尊敬し…預言の賜物を否定する牧師先生含む5役者や教団教派の方々を尊敬せず…互いに尊敬しなさいと語る聖書に逆らってよいだろうか?自分が建てたい御言葉を建て上げるために他の御言葉を壊してできた砂の上に自分が建てたい御言葉を建て上げ…家を建ててよいのだろうか?

5️⃣約2000年前の「新約時代」にはイエスキリストが地上を歩いておられたが……約2000年後の「新約の新約時代」にはキリストの体である教団教派が「私たちも私たちに負い目のある人を『みな』赦しまし『た』と断言することができるようになっていて主の祈りをことごとく成就させることができる力と権威を相続していて分裂していない1つのキリストの体となって御国を来たらせながら地上を歩くのを全世界が見ることができる「新約の新約時代」の扉が開かれるためには約2000年間の分裂していた「新約の旧約時代」の期間が必要だった

 

 

前回のブログで新約聖書の時代から約2000年間続いている現代の教会は新約時代ではあるが……現代の教会には旧約時代との共通点があり……現代の教会はまだ「新約時代の『旧約時代』であることについて書かせていただいた。

5️⃣【①「旧約時代のエクレシア」と「新約の『旧約時代』である現代のエクレシア」との共通点】

神の民は長い長い旧約聖書の時代に整えられ続け……新約聖書の時代に来られるイエスキリストのための道備えをしなければならなかった。……神の民は子が学校で学ぶように長い長い旧約聖書の時代という基礎的なレッスンを受ける必要があった。……では……異邦人のエクレシアである私たちは?……神の民は長い長い旧約聖書の時代という基礎的なレッスンを受ける期間が必要だったのに……約2000年前に生まれた異邦人のエクレシアは飛び級することができていたのだろうか?……約2000年前に生まれたばかりの異邦人のエクレシアにも基礎的なレッスンを受けるための長い長い時代が必要であることを神は知っておられる……

……約2000年前に生まれたばかりの異邦人のエクレシアは約2000年間……長い長い基礎的なレッスンを現代においても受け続けている……

……新約聖書以降に約2000年間続いている現代は……新約時代ではあるが……2000年前にはじまった異邦人のエクレシアのための基礎的なレッスンのために備えられた期間であり……旧約時代との共通点がある「新約の『旧約時代』だ……

約2000年前に新約聖書の時代の扉が開かれる前に……長い長い旧約聖書の時代という道備えが必要であったように……

『新約の『新約時代』の扉が開かれる前にも……新約聖書の時代から約2000年間続いていて現代も続いている「新約時代の『旧約時代』という道備えが必要であることを神は知っておられる。

新約聖書の時代から約2000年間続いている現代は旧約聖書の時代との共通点のある「新約の『旧約時代』だ……

……旧約時代に『見ることができる』のは……「石打ち」と「口伝律法」だ……「新約の『旧約時代』である現代のエクレシアにも……現代のエクレシアの「石打ち」があり……現代のエクレシアの「口伝律法」がある……

……現代のエクレシアには旧約聖書の時代の「石打ち」のかわりに「指導者の怒りと叱責」があり……

……現代のエクレシアには旧約時代の「口伝律法」のかわりに「教会秩序」がある。

共通点①……「旧約聖書の時代に神に選ばれた指導者が投げていた石打ち」≒「現代の新約時代に神に選ばれた指導者が心の中から発している怒りと叱責」

共通点②……「旧約時代の口伝律法(聖書に書かれていないルール)」≒「現代の新約時代の教会秩序(聖書に書かれていないルール)」

共通点①である「旧約聖書の時代に神に選ばれた指導者が投げていた石打ち」と「現代の新約時代に神に選ばれた指導者が心の中から発している怒りと叱責」が……まだ幼子であるエクレシアにとっては……野菜を拒絶する幼子が親の怒りや叱責によって野菜を強制的に食べさせられることによって健康が守られいのちが守られるように……命づなであること……については前回のブログでこれまで以上に大いに強調して書かせていただいたし……野菜が必要であることをまだ理解できない幼子にとっては……野菜を強制的に食べさせられることは『命づな』だが……野菜が必要であることを理解できている青年に「この野菜を食べなさい」と強制することは『束縛の鎖』である……といったことについても前回のブログで書かせていただいた。

共通点②の「旧約時代の口伝律法」も「現代の新約時代の教会秩序」も聖書に書かれていないルールではあるが……悪いものではなく『良いもの』であり『良い知恵』だ。

聖書を見ると口伝律法には「パンを食べるときに手を洗う」……というルールがあったようだ。聖書には「食事の前には手を洗いなさい。食事の前に手を洗わない者は罪に定められる」……みたいなことは書かれていない。……もし、「食事の前に手を洗わないこと」が罪であったとしたらイエスキリストは、「食事の前に手を洗わない罪」を背負うためにも十字架にかかってくださったことになるが……「食事の前に手を洗わないこと」は罪ではないので、その必要はない。しかし、父や母に「食事の前に手を洗いなさい」と言われた子が父母を敬っていないことが理由で食事の前に手を洗わなかったのであれば……"あなたの父と母を敬え。"と語っている聖書に違反しているとみなされるのではないだろうか。

「食事の前に手を洗うこと」は『良いこと』であり『良い知恵』であり、「食事の前に手を洗うこと」によって肉体の健康が守られる。

健康について、人間関係について、その他のことについて、聖書には書かれていない『良いこと』や『良い知恵』がある。だから、聖書は
"すべての真実なこと、すべての誉れあること、すべての正しいこと、すべての清いこと、すべての愛すべきこと、すべての評判の良いこと、そのほか徳と言われること、称賛に値することがあるならば、そのようなことに心を留めなさい。"……と語っている。

しかし聖書に書かれていない良いことや良い知恵は『人の教え』であるから聖書のルールと同列ではない。どんなに有益な教えであったとしても『人の教え』は聖書のルールの下にある。……口伝律法も教会秩序も良いことや良い知恵であり、有益なものではあるが、『人の教え』であり聖書の下にあるものだ……

……それぞれの家庭の親の教えや助言や忠告や教訓は有益なものではあるだろう……しかし……それぞれの家庭の親の教えや助言や忠告や教訓を無視しても法律違反にはならない。法律と同列ではなく法律の下にあるものであるからだ。

口伝律法が聖書の下にあるものであるように……教会秩序も聖書の下にあるものではあるが……バランスの良い教会秩序によって教会は分裂しにくくなるし、教会秩序は教会の見た目を良くしたり、環境を整えるために有益だ。……もちろん内側が整っていることの方が重要だが……外側も整っていることは多くの人々にとって徳が高められることであり【良いこと】であり【徳】であると言えるだろう。

"「あなたのお弟子たちは、なぜ長老たちの言い伝えを犯すのですか。パンを食べるときに手を洗っていないではありませんか。」"
マタイの福音書 15章 2節

"最後に、兄弟たち。すべての真実なこと、すべての誉れあること、すべての正しいこと、すべての清いこと、すべての愛すべきこと、すべての評判の良いこと、そのほか【徳】と言われること、称賛に値することがあるならば、そのようなことに心を留めなさい。"
ピリピ人への手紙 4章 8節

 

5️⃣【②旧約時代に「見ることができるもの」と「見ることができないもの」】

旧約時代に『見ることができる』のは……「石打ち」と「口伝律法」だ……

……旧約時代に『見ることができない』のは……「この地上を歩いておられるのを人々が見ることができるイエスキリスト」だ……

新約時代ではあるが同時に旧約時代でもある現代も……「この地上を歩いておられるのを人々が見ることができるイエスキリスト」の時代の扉はまだ開かれていない。……と言うと……このように思う方々がおられるかもしれない……「イエスキリストはエクレシアといつも共におられ今もこの地上を歩いておられる」……アーメン。そうです。そのとおりです。同意します。ハレルヤ……しかし……新約聖書の時代にはイエスキリストを信じず受け入れず拒絶している人々が見ることができる肉体のあるイエスキリストがこの地上を歩いておられた時代だった。

『新約の新約時代』は……イエスキリストを信じず受け入れず拒絶している人々であっても見ることができる肉体のあるイエスキリストがこの地上を歩いているのを人々が見ることができる時代だ。

『新約の新約時代』は分裂していないキリストの体がこの地上を歩く時代だ。

『新約の新約時代』はイエスキリストを信じず受け入れず拒絶している人々を含む全世界の身分の高い者も低い者もありとあらゆる人々がキリストの体である「教団・教派・グループ」が分裂しておらず……1つのキリストの体となって……この地上を歩いているのを見ることができる時代だ。

"あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
もし互いの間に愛があるなら、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」"
ヨハネ福音書 13章 34〜35節

 

5️⃣【③聖書に書いてある主の祈りは「私たちも私たちに負い目のある人を『みな』赦しまし『た』」と断言できることが前提で書かれている】

2000年前の「新約時代」にはイエスキリストが地上を歩いておられたが……「新約時代」から約2000年後の「新約の新約時代」はキリストの体である「教団・教派・グループ」が分裂しておらず1つのキリストの体となって地上を歩くのを全世界が見ることができる時代だが……今はまだ「新約の新約時代」の扉は開かれていない。……何故なら……主の祈りをことごとく成就させる力と権威がまだキリストの体であるエクレシアが相続できていないからだ。……キリストの体であるエクレシアが「私たちも私たちに負い目のある人を『みな』赦しまし『た』」と断言することができるようになった時に……主の祈りをことごとく成就させることができる力と権威を相続することができるようになる……

……キリストの体が分裂しておらず1つのキリストの体となっていて、「私たちも私たちに負い目のある人を『みな』赦しまし『た』」と断言できるようになった時に……キリストの体が『主の祈り』をことごとく成就させ御国を来たらせ続けながら地上を歩いているのを全世界が見ることができる時代である「新約時代の新約時代」がはじまる……

聖書に書かれている主の祈りは……「私たちも私たちに負い目のある人を『みな』赦しまし『た』」と断言できるようになっていることが前提で書かれている。

聖書に書いてある主の祈りは……「"私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しまし【た】。"」……と書いてあり……我らに罪をおかす者を我らが赦すごとく⬅️という未来形ではなくて……我らが赦し【た】ごとく⬅️という過去形になっているので……「まだ赦していないけれど 赦しますので」……とか……「まだ赦していないけど赦そうとする努力をしますので」……と祈ることしかできない段階では……主の祈りをことごとく成就させることができる力と権威と実現の約束をまだ相続することはできていない。

聖書に書いてある主の祈りの聖書箇所はもう1つある……「"私たちも私たちに負いめのある者を【みな】赦します"」……と書いてあり……我らに罪をおかす者を我らが赦すごとく⬅️からは【みな】=【1人残らず全ての人を】が減らされてしまっているので……「あの人だけは赦すことができないけれど他の人たちは赦しますので」……と祈ることしかできない段階では……主の祈りをことごとく成就させることができる力と権威と実現の約束をまだ相続することはできていない。

主の祈りの成就は……聖書に書いてある主の祈りの2つの聖書箇所の「ハードルの低い部分だけ」を取り出してミックスして混ぜてつなげてつくった「我らに罪をおかす者を我らが赦すごとく」……と祈る主の祈りを祈る者たちのためにあるのではなくて……

キリストの体である者たちが……すでに1人残らず赦すことを実行済みであることを神の御前で断言できるようになっていて……「我らに罪をおかした者を『みな』=『1人残らず全ての人』を我らが赦し『た』ごとく」……と祈ることができるようになった時に……主の祈りをことごとく成就させることができる力と権威と実現の約束を相続したキリストの体が地上を歩くのを全世界が見ることができる「新約の新約時代」がはじまる……

……これまでの約2000年間に地上で現され続け拡大し続けていた主の祈りの力と権威と勝利は「非常に偉大な栄光」であったが……その「非常に偉大な栄光」すらも「まだ幼い幼子の手に分け与えられていたパンくず」だった……と思える程の『計り知れない偉大な栄光』を地上に来たらせるキリストの体が地上を歩くのを全世界のありとあらゆる人々が見ることができる「新約時代の新約時代」がはじまる。

"私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦し【ました】"
マタイの福音書 6章 12節

"私たちの罪をお赦しください。私たちも私たちに負いめのある者を【みな】赦します。」"
ルカの福音書 11章 4節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会