シャロームを所有する

私は預言の賜物の回復を願っている。しかし私は預言の賜物を否定する方々を心から尊敬し感謝している。私が預言の賜物を熱心に求めて聖書に従うためなら…私は預言の賜物を否定する方々を不満に思い…全て感謝せよと語る聖書に逆らってよいだろうか?預言を認める牧師先生だけ尊敬し…預言の賜物を否定する牧師先生含む5役者や教団教派の方々を尊敬せず…互いに尊敬しなさいと語る聖書に逆らってよいだろうか?自分が建てたい御言葉を建て上げるために他の御言葉を壊してできた砂の上に自分が建てたい御言葉を建て上げ…家を建ててよいのだろうか?

6️⃣クリスチャン一世と二世の時代には「預言の賜物の活性化についての知識」は『親や牧師先生に依存させることを弱める聖書の御言葉や真理』であるから…奥義として隠されていなければならなかった…何故なら…クリスチャン一世の時代は牧師と聖書から聴き土台がつくられる時代であり…クリスチャン二世の時代は牧師と聖書と親から聴きクリスチャン一世がつくった土台が強固に固められる時代であるからだ…しかし…クリスチャン三世の時代は牧師と聖書と親から聴くだけでなく預言の賜物を探し求め活性化させることができるようになる時代だ

 

前回のブログで現代は約2000年間続いている「新約の旧約時代」であり、旧約時代は新約時代が開かれるための道を整える期間であるのと同じように約2000年間続いている現代の「新約の旧約時代」はこれから『新約の新約時代』が開かれるために道を整えるための期間であり、子たちが学校で基礎的なことを学ぶ期間であることについて書かせていただき……『新約の新約時代』にはキリストの体である「教団・教派・グループ」が1つのキリストの体となり「主の祈り」を地上にことごとく実現させる時がはじまることについて書かせていただき……旧約時代は目に見えるイエスキリストがまだ地上を歩いておられない時期であったように……約2000年間続いている「新約の旧約時代」である現代も『キリストの体が1つのキリストの体となって地上を歩く時代』である『新約の新約時代』はまだ開かれていない……「新約の旧約時代」に見ることができるのは「(旧約)石打ち」≒「(新約の旧約:現代)指導者の心から発する怒りと叱責」であり……「(旧約)口伝律法」≒「(新約の旧約:現代)教会秩序」であることについて書かせていただいた。

6️⃣【①旧約時代も新約の旧約である現代も「親と幼子」の時代だったので……親からの叱責により無知な幼子を守る必要がある時代だったが……新約の新約時代は「親たちと成人して幼子ではなくなった子たち」の時代であり……親が子を叱責して一方的に教える時代ではなく……親と子が互いに尊敬し合い互いに教え合う時代だ】

約2000年間続いている現代の「新約の旧約時代」は「親と幼子」の時代であり、今近づいてきている『新約の新約時代』は「親と成人して幼子ではなくなった子」の時代だ。

聖書は「はじめ」から互いに尊敬し合うことを要求している〔ローマ12:10〕……しかし……「親と幼子」の時代に「神が優先なさること」は「親と幼子が互いに尊敬し合いながら互いに教え合うこと」……ではなくて……「親からの叱責により弱い無知な幼子が一方的に教えられ守られること」だ。「親と幼子」の時代には「弱い無知な幼子が守られること」が優先される必要があるため、親や牧師先生含む5役者は『旧約聖書の時代の預言者のように』『一方的に教え従わせること』が「  ※許可  (※許可は永遠に続くことではなく一時的であり期間限定)」されていて……旧約時代の頃には、あまりにも神の御教えに従わない者は指導者と親が子を石打ちにすることが許可されていたように〔申命記21:18-21〕……現代では親や指導者の心から怒りや叱責という目に見えない石が発せられることによって子たちや信徒を強制的に従わせることも許可されていた……「弱く無知な幼子」が守られるためだ……

……だが……神とイエスキリストであり神のことばである聖書は昨日も今日も「はじめ」から変わらない……聖書は……「はじめ」から…… "腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。"……と語っている。

親や牧師先生に依存することを強制されることが必要な幼子の時代が過ぎ去って、子たちが幼子ではなくなって成人した時に……天から子たちが幼子ではなくなって成人した時のための新しい聖書が天から与えられる……のではなくて……神はキリストの体に完成した聖書を「はじめ」から与えておられる……しかし……『親や牧師先生に依存させることを弱める聖書箇所』には覆いをかけておられるので……書いてあるし見えるけど見えない……読めるけど読めない……理解できるけど理解できないようになさることが神の知恵であり……神の奥義だ……幼子が成人して幼子ではなくなる時まで『親や牧師先生に依存させることを弱める聖書の御言葉や真理』は奥義としてエクレシアの目から隠され続けている必要があった……「親からの叱責により弱い無知な幼子が一方的に教えられ守られること」が優先される必要があった。

【②幼子が成人した時かどうかを知る】

幼子が成人して幼子ではなくなった時代になったかどうかを……どのように知ることができるだろうか?教会の信徒の全員が牧師先生になったら成人した時だろうか?教会の信徒の全員が大人になったら成人した時なのだろうか?……エクレシアには今後も牧師先生がいて信徒がいて、大人がいて幼子がいる。……では幼子が成人して幼子ではなくなった時代になったかどうかを……どのように知ることができるだろうか?……キリストの体が幼子ではなくなった時代は……「信徒の中に牧師先生ではないけど牧師先生と同じくらいか牧師先生以上に聖書の御言葉を知っている者たちがエクレシアの中に現れてきた時」であり……現代はすでに……信徒の中に牧師先生ではないけど牧師先生と同じくらいか牧師先生以上に御言葉を知っている者たちがエクレシアの中に現れてきている……だから『親や牧師先生に強制的に従わせ依存させることを弱める聖書の御言葉や真理』が奥義として隠され続けていなければならなかった時代は過ぎ去りはじめている。

『親や牧師先生に強制的に従わせ依存させることを弱める聖書の御言葉や真理や教え』は……「預言の賜物の活性化」だけでなく……「5役者である使徒について理解することによって、使徒と牧師それぞれの役割がどのようなことであるかについて知ること」などなど他にも色々あるが……

「牧師先生含む5役者ではなくても預言の賜物を活性化させ預言の賜物を用いることができるようになること」は『親や牧師先生に強制的に従わせ依存させることを弱める聖書の御言葉や真理』の1つと言えるだろう。「預言の賜物の活性化」については多くの国々のエクレシアに浸透し理解されているが……日本のエクレシア(教会:クリスチャン)のほとんどの方々が「預言の賜物の活性化」なんてことばは聞いたこともないと返答することだろう。

国々のエクレシアには「預言の賜物の活性化」についての知識があるのに、何故、日本のエクレシアには「預言の賜物の活性化」についての知識がないのだろうか?……何故なら「預言の賜物の活性化」についての知識は『親や牧師先生に強制的に従わせ依存させることを弱める聖書の御言葉や真理』の1つであるからだ。

『親や牧師先生に強制的に従わせ依存させることを弱める聖書の御言葉や真理』の1つである「預言の賜物の活性化」についての知識は……親がクリスチャンであるだけでなく……親も親の親もクリスチャンである子たちがエクレシアの中に現れてくる時までは奥義として隠されていなければならない。クリスチャン一世(アブラハム)の世代は「牧師先生」と「聖書」から聴かなければならないので、預言の賜物の活性化は奥義として隠されている必要があった……クリスチャン二世(従順なイサク)の世代は「牧師先生」と「聖書」と「クリスチャン一世である親」から聴かなければならないので、預言の賜物の活性化は奥義として隠されている必要があった……しかし……「牧師先生」と「聖書」と「クリスチャン一世である親の親」と「クリスチャン二世である親」から聴くという土台のあるクリスチャン三世(求めるヤコブ)の世代がエクレシアの中に現れてくる時に預言の賜物の活性化が奥義として隠され続けていなければならなかった「親と幼子の時代」は過ぎ去りはじめる。……クリスチャン三世が日本のエクレシアにいなかったり、まだ少なかった時代には「預言の賜物の活性化についての知識」は奥義として隠されていなければならなかった。「牧師先生」と「聖書」から聴くことを土台としなければならないクリスチャン一世の時代……「牧師先生」と「聖書」と「クリスチャン一世の親」から聴くことを土台としなければならないクリスチャン二世の時代……は「基礎」「土台」がつくられる時代だ。預言の賜物は「基礎」「土台」の上に置かれるべきものだ。預言の賜物は非常に素晴らしいが……間違った預言をしてしまう可能性が常にあり……吟味が必要な不安定なものなので……「基礎」「土台」がつくられるべきクリスチャン一世や二世の時代に間違った預言のことばが「基礎」「土台」にパン種のように混ざってしまわないために「預言の賜物の活性化の知識」は奥義として隠されている必要があった……しかし……今、日本のエクレシアを見ると……クリスチャン一世、二世だけではなくて、三世も四世も見ることができる……だから……日本においても「預言の賜物の活性化についての知識」が奥義として隠され続けていなければならなかった「親と幼子の時代」は過ぎ去りはじめようとしている……"私は賢い建築家のように、土台を据えました。"
コリント人への手紙第一 3章 10節

"天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。"
伝道者の書 3章 1節
"引き裂くのに時があり、縫い合わせるのに時がある。黙っているのに時があり、話をするのに時がある。
愛するのに時があり、憎むのに時がある。戦うのに時があり、和睦するのに時がある。"
伝道者の書 3章 7〜8節
"神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行われるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。"
伝道者の書 3章 11節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会