シャロームを所有する

私は預言の賜物の回復を願っている。しかし私は預言の賜物を否定する方々を心から尊敬し感謝している。私が預言の賜物を熱心に求めて聖書に従うためなら…私は預言の賜物を否定する方々を不満に思い…全て感謝せよと語る聖書に逆らってよいだろうか?預言を認める牧師先生だけ尊敬し…預言の賜物を否定する牧師先生含む5役者や教団教派の方々を尊敬せず…互いに尊敬しなさいと語る聖書に逆らってよいだろうか?自分が建てたい御言葉を建て上げるために他の御言葉を壊してできた砂の上に自分が建てたい御言葉を建て上げ…家を建ててよいのだろうか?

7️⃣まだ「土台」「基礎」がなく親に依存すべき幼子のようなエクレシアには「牧師先生に依存させること」を弱める「預言の賜物の活性化についての知識」は奥義として隠されている。「土台」「基礎」のあるエクレシアには「預言の賜物の活性化についての知識」が与えられて牧師先生に依存しなければならない強制力が弱まる時が来る…「預言の賜物の活性化の知識」によりおごり高ぶって親や牧師先生を見下し侮る者にとっては命綱を自ら簡単にひきちぎって失う自由が与えられる時となり…親や牧師先生を尊敬し感謝する者は多くの実を結ぶ時となる

 

 

前回のブログでクリスチャン一世の時代は「牧師先生」と「聖書」から聴くことでキリストの体としての「基礎」「土台」をつくりあげる時代であり、クリスチャン二世の時代は「牧師先生」と「聖書」と「クリスチャン一世である親」から聴くことで「基礎」「土台」を強固にする時代であるため……「牧師先生や親に依存させることを弱めることになる聖書箇所や預言の賜物の活性化等の知識」は奥義として隠されていなければならない時代だった……しかし……今の時代は日本のエクレシアにもクリスチャン一世や二世や三世や四世が共にいることはさほどめずらしいことではない時代となってきているので……預言の賜物の活性化ということばを聴く者たちの割合が少しずつ増えてきている……といったことについて書かせていただいた。

クリスチャン一世の方々の時代に「基礎」「土台」をつくりあげ、クリスチャン一世と二世の方々の時代に「基礎」「土台」は強固に固められていて……どっしりと安定している。「基礎」「土台」がまだ強固に固められていないクリスチャン一世や二世だけがエクレシアの「働き人」であった時代は……エクレシアが『親と幼子の時代』だったので「牧師先生や親に依存させることを弱めることになる聖書箇所や預言の賜物の活性化等の知識」は奥義として隠されていなければならなかった。……幼い子には「夜遅い時間に外出してはならいなどという法律はないという事実や知識」は隠されていなければならない。法律以下の権威しかない家庭のルールによって弱く無知な幼子は守られている必要がある。

牧師先生たちの常識や牧会の仕方ノウハウや牧師先生たちがつくった教会秩序の中には聖書と矛盾することや聖書に書かれていないことも含まれていて神の秩序である聖書からズレている……しかし……聖書解釈や聖書理解がズレている不完全な人間がつくった不完全なルールの下に置かれていることの方が幼子にとっては安全であり必要なことであることを神は知っておられる……だから……聖書と矛盾している教会秩序や牧師先生たちの常識やルールという不完全で……完全な聖書の秩序と比べると……不完全な秩序の下に……子たちが幼子である期間は預けておられた……弱く無知な幼子が守られるためだ。

……しかし……子たちが幼子ではなくなった時期に子たちはやがて……「夜遅い時間に外出してはならいなどという法律はないという事実や知識」を知るようになる……しかし……夜遅い時間に外出してはならいなどという法律はないということは……人目の少ない夜の暗闇にまぎれて悪を行おうとする者たちも夜遅い時間に自由に外を出歩くことができる……ということでもある……だから親は法律が禁止していない「門限という禁止」を弱く無知な幼子に与えることによって守ろうとしてくれる……

……しかし……子たちは幼子ではなくなった時に家庭のルールを破っても法律違反にはならないことを知るようになる……

……しかし……家庭のルールの下に置かれた弱く無知な幼子ではなくなることは……「家庭のルールを破りたいなら破りなさい……家庭のルールを破っても法律違反ではない……しかし……法律ではない家庭のルールを破って行動して生じた結果は『自己責任』として背負わなければならない」……ということだ。『自己責任』ということばがあまりに重すぎて背負うことができない弱い無知な幼子は親が許可する「範囲」「枠」にとどまっていなければならない。

聖書は「牧師先生に絶対に服従しなさい」……とは語っていない。……聖書は「牧師先生に絶対に服従しなさい」とは語っていないのだから……牧師先生に絶対服従しなくても聖書に違反したことにはならない……神から示され語られた……と思っている誰かの選択を牧師先生は強制的にやめさせることはできない。……本当に神から示され語られているかもしれないからだ……

今、日本のエクレシアはクリスチャン一世とクリスチャン二世とクリスチャン三世や四世が働き人となっている時代であり……エクレシアに「土台」「基礎」があり……エクレシアが幼子ではなくなっている時代であり「預言の賜物の活性化についての知識」が子たちの目から奥義として隠されているべき時代が過ぎ去ろうとしている時代だ。

「預言の賜物の活性化についての知識」を日本のエクレシアが得ると……「神から示された語られた」と言って牧師先生の意見に逆らい反論する者たちが急増することになることだろう。……そして……本当に神から示され語られている者たちは時が来ると多くの実を結ぶようになり……神から示され語られていないのに神から示され語られたと思い込んでいる者たちは霊や肉や魂の死や損害を自己責任として刈り取り自分の身に背負うことになる。……神は幼子の自由の一部分を親に奪い取らせて幼子を守ることを優先し……幼子ではなくなった子たちには自由を与え……自己責任をおのおのの背に負わせる。

「預言の賜物の活性化についての知識」が隠されたまま今後もずっと牧師先生に依存することを強制されている方が安全ではあるだろう。しかし……預言の賜物はいつまでたってもほとんど実を結ぶことはないままになってしまう……

親を侮る子が「夜遅くに外出して家の門限を破っても法律違反ではない」……といった「知識」を得ることは……死んでしまうかもしれないくらい非常に危険なことだ……だが……そのような法律を知らない方が安全な者たち、侮る者たちの目から『だけ』法律を隠し続けるなどということはできない。

神の御言葉を侮り、牧師先生を侮る者が「預言の賜物の活性化についての知識」を得ることは非常に危険なことだ……だからといって「預言の賜物の活性化についての知識」を隠し続けると……「預言の賜物」によって実を結ぶことができる者たちの目からも隠し続けなければいけないことになる。

エクレシアがまだ幼かった時代は「預言の賜物の活性化」を知ることが益になる者の目からすらも厳重に隠されている必要があった。「預言の賜物の活性化についての知識」を侮る者たちと侮らない者たちの『どちらか』に『だけ』見せるということはできない。……「預言の賜物の活性化についての知識」を……どちらの目からも隠され続けていなければならなかった『幼子の時代』が過ぎ去り……どちらの目にも見えはじめる時代が近づく時……「預言の賜物の活性化についての知識」を得ておごり高ぶり牧師先生を見下す者が「預言の賜物の活性化についての知識」を得ることは命綱を自分でかんたんにちぎることができるようになって……霊や肉や魂の滅びや大損害に向かって走り出す自由が与えられるようなものだ……

日本のエクレシアに「預言の賜物の活性化についての知識」が隠されていて牧師先生の権威や教会秩序が強固な壁や鎖のようであった時代が過ぎ去り……誰でも自由に選択できる時代が近づくと……御言葉を侮り、牧師先生を侮る者たちの命綱は鎖ではなくなり……ますますかんたんにちぎりやすくなる……無知な幼子のためには「野菜も食べなさい」と叱り守ってくれる親の権威は鎖や高い城壁のようだが……幼子ではなくなった者は親の叱責を退けて野菜を食べない選択をし続けることもできる……しかし……その刈り取りは後の日に……その身に下ることになる。

エクレシアがまだ幼子であった時代は牧師先生に強大で強固な権威を与え、牧師先生の強大で強固な権威によって守られていたが……預言の賜物の活性化についての知識と理解がエクレシアに入ってくると……牧師先生の強大で強固だった権威は弱まり……命綱は鎖ではなくなり……かんたんにちぎることができるようになり……命綱をちぎって自由を高くかかげて家からとびだした結果あまりにも大きな損失を刈り取ることになってしまった者に与えられることばは……"読まなかったのですか"……だ。野菜を食べないと不健康になる……病気になる……と聞いたことがなかったのですか?知らなかったのですか?

御言葉を侮るな……親を侮るな……牧師先生を侮るな……と聞いたことがなかったのですか……?"読まなかったのですか"

"イエスは彼らに言われた。「ダビデとその連れの者たちが、食物がなくてひもじかったとき、ダビデが何をしたか、読まなかったのですか。"
マルコの福音書 2章 25節

"あなたがたは年数からすれば教師になっていなければならないにもかかわらず、神のことばの初歩をもう一度だれかに教えてもらう必要があるのです。"
ヘブル人への手紙 5章 12節

預言の賜物の活性化についての知識を知ったことによっておごり高ぶり、牧師先生を見下し侮り……鎖を引きちぎってしまうような者たちが守られるために「預言の賜物の活性化についての知識」が隠され続けていた時代はいつまでも続かない。「預言の賜物の活性化についての知識」を得ることで実を結ぶことができる者たちさえも強くつなぎとめることになってしまうからだ。聖書の御言葉の真理の光が……子たちをつなぎとめていた牧師先生の強く強固な鎖や高い城壁のようだった権威は鎖ではなくて糸であったことを明らかにする時……預言の賜物によって実を結ぶことのできる者たちはますます多くの実を結ぶことができるようになり……神の御言葉を侮り、牧師先生を侮る者はますます多くの霊や肉や魂の滅びや大損失を刈り取ることになる時代が近づいてくる……

「預言の賜物の活性化についての知識」を神は日本のエクレシアの目からいつまでも奥義として隠したままにはなさらない。

"隠れているのは、必ず現れるためであり、おおい隠されているのは、明らかにされるためです。"
マルコの福音書 4章 22節

"基礎的なことを再びやり直したりしないようにしましょう。
神がお許しになるならば、私たちはそうすべきです。"
ヘブル人への手紙 6章 2〜3節

"御霊の賜物、特に預言することを熱心に求めなさい。"
コリント人への手紙第一 14章 1節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会