シャロームを所有する

私は預言の賜物の回復を願っている。しかし私は預言の賜物を否定する方々を心から尊敬し感謝している。私が預言の賜物を熱心に求めて聖書に従うためなら…私は預言の賜物を否定する方々を不満に思い…全て感謝せよと語る聖書に逆らってよいだろうか?預言を認める牧師先生だけ尊敬し…預言の賜物を否定する牧師先生含む5役者や教団教派の方々を尊敬せず…互いに尊敬しなさいと語る聖書に逆らってよいだろうか?自分が建てたい御言葉を建て上げるために他の御言葉を壊してできた砂の上に自分が建てたい御言葉を建て上げ…家を建ててよいのだろうか?

🔟主のことばには「山の頂上」と「山の頂上に行くための道」がある…『地上の誰も父と呼ぶな』『殺してはならない』と主が言われたことばは主が指し示す「山の頂上」「神のビジョン」だ……『使徒、預言者、伝道者、牧師、教師が聖徒たちの父であることを認め従いなさい』『律法に背く者は石を投げて殺されなければならない』…と主が旧約時代のモーセや現代の使徒、預言者、伝道者、牧師、教師に語らせたことばは『山の頂上に行くために必要な道』だ…まったく反対のことを言っているが…どちらも主のことばだ…主は昨日も今日も変わらない…

前回のブログで……イエスキリストは"あなたがたは地上のだれかを、われらの父と呼んではいけません。あなたがたの父はただひとり、すなわち天にいます父だけだからです。"……と言われたこと……父なる神おひとりの他にどんな世界的な使徒預言者、伝道者、牧師、教師であってもだれひとりとして聖徒たちの「父」ではない……ことについて書かせていただいた。

🔟【①新約聖書の時代にイエスキリストが「地上の誰かを父と呼ぶな」と言われたことばも……現代の使徒預言者、伝道者、牧師、教師が「私たちは父だ」と語っていることばも主から来ている】

エスキリストは"あなたがたは地上のだれかを、われらの父と呼んではいけません。あなたがたの父はただひとり、すなわち天にいます父だけだからです。"……と言われたのに……キリストの体である国々の油注がれた使徒預言者、伝道者、牧師、教師が「使徒預言者、伝道者、牧師、教師は聖徒たちの父である」と語っているのは……敵にだまされてしまっていて敵から来ている偽りのことばを語ってしまっていた……ということなのだろうか?……そうではない……確かに主が油注いでおられる国々の使徒預言者、伝道者、牧師、教師に「使徒預言者、伝道者、牧師、教師は聖徒たちの父である」と語り語らせ教え教えさせておられたのは主であり……主の働きであり……主からの流れであり…主からのムーブメントであり……主から流れているぶどう酒であって敵からの流れではない。

「地上の者を私たちの父だと言ってはならない」と約2000年前に語っておられた主が……約2000年間……使徒預言者、伝道者、牧師、教師に与えておられる主からの油注ぎによって「使徒預言者、伝道者、牧師、教師は聖徒たちの父である」と語らせ教えさせキリストの体であるエクレシアを導かせ続けておられたことは……まるで反対のことであり……矛盾していることであるかのように思えるかもしれないが……『山には頂上があること』と『山の頂上に行くには道が必要であること』を見れば理解することができるようになる……

……新約聖書の時代に「地上の誰のことも父と言うな」と語った主が……現代の使徒預言者、伝道者、牧師、教師に「私たちは父だ」と語らせておられることは……主に矛盾や不正があるということなのだろうか?……主はご自分のことばが不適切で間違いだったので訂正しなければならなくなったということなのだろうか……?

……主は昨日も今日も変わらない……

……旧約聖書の時代に十戒により「殺してはならない」と語った主が……モーセに「律法に背く者は石を投げて殺せ」と語らせておられたことは……主に矛盾や不正があったということなのだろうか?……主はご自分のことばが不適切で間違いだったので訂正しなければならなくなったのだろうか……?

……主は昨日も今日も変わらない……

……主の御言葉には「山の頂上」と「山の頂上に行くための道」がある……

……『地上の誰も父と呼ぶな』『殺してはならない』と主が言われたことばは主が指し示す「山の頂上」=「神のビジョン」だ……『エクレシアは使徒預言者、伝道者、牧師、教師が父であることを認め従いなさい』『律法に背く者は石を投げて殺されなければならない』……と主が旧約時代のモーセや現代の使徒預言者、伝道者、牧師、教師に語らせたことばは『山の頂上に行くために必要な道』だ……「殺すな」↔️「殺せ」……「地上の誰も聖徒たちの父ではない」↔️「使徒預言者、伝道者、牧師、教師は聖徒たちの父であると認め従いなさい」……まったく反対のことばを言っているが……どちらも主のことばだ……主に矛盾や不正はない……主はご自分のことばを訂正しない

……主は昨日も今日も変わらない……


🔟【②旧約聖書の時代に神が指し示しておられた『神のビジョン』=『山の頂上』】

主はまず主のビジョンを語る……主が指し示しておられるビジョンと神の民の現状がまだあまりにも遠く遠くはなれている時に……主は『主のビジョン』について語り……山の頂上を指し示して『山の頂上』について語る……

神は出エジプトさせた民に「神のビジョン」「山の頂上」について語った。神が出エジプトさせた民に語った「神のビジョン」「山の頂上」は……『十戒』だ……

……『十戒』は神が旧約聖書の時代に語った「神のビジョン」「山の頂上」だ……

……十戒の「殺してはならない」は出エジプトした民に神が指し示しておられた「神のビジョン」「山の頂上」だ……

……しかし出エジプトした神の民たちは「十戒」の全てにアーメンと言って心から同意できる民としてはまだ整えられておらず……心があまりにも遠く遠くはなれていた……

……だから「十戒」の全てに心からアーメンと言って心から同意できる民として整えられるため……出エジプトした神の民に神が指し示しておられる山の頂上に行くためには……『頂上に行くための道』『頂上に近づくための道』が必要だ……

……1度頂上に到着してしまえば……歩いてきた『後ろの道』をもはや歩くことはない。……幼子が自転車に乗ることができるようになるためには『補助輪』が付いた自転車や三輪車に乗る段階が必要だ。……補助輪のない自転車に乗れるようになったら……『補助輪』はもはや必要なくなる……

出エジプトした神の民に与えられた「律法」は『山の頂上に近づくための道』であり『自転車の補助輪』のようなものだ。出エジプトした神の民が「殺してはならない」ということばを含む十戒に心から同意する民となるためには「律法」という『道』『補助輪』が必要だった。……「律法に背く者に石を投げて殺しなさい」ということばを含む「律法」が……「殺してはならない」ということばを含む「十戒」=「神のビジョン」「山の頂上」に近づくための『道』として『補助輪』として必要だった……

……そして出エジプトした神の民が十戒を完全に実行できる民にはまだなってはいなかったが……十戒のことばに心から同意する民としては整えられていて……十戒を実行できていない自分に心を痛める民に変えられていた時代に……イエスキリストが来られ……もはや「律法を守ろうとしない者に石を投げて殺す」ということを含む『律法』という『補助輪』はもはや必要ないことを神の民に告げ……もはや誰も「石を投げて殺してはならない」……もはや異邦人を殺してはならないことを告げられ……もはや「律法」という後ろの道を歩いてはならない……後ろにもどってはならない……神が指し示す「山の頂上」「神のビジョン」に近づかせるために……神が……これまで歩かせておられた「律法」という『後ろの道』をもはや歩いてはならない……「律法」という『補助輪』をもはやつけていてはならないことを告げられた。


「殺してはならない」含む「十戒」は『旧約時代の民』に神が指し示しておられた「神のビジョン」「山の頂上」だ……山の頂上に行くためには「律法に背く者は石を投げて殺せ」含む「律法」が必要だった……

「地上の誰のことも父と呼ぶな」含む「イエスキリストの教え」は『現代のキリストの体であるエクレシア』に神が指し示しておられる「神のビジョン」「山の頂上」だ……山の頂上に行くためには「エクレシアは使徒預言者、伝道者、牧師、教師が父であることを認め従え」含む「教会秩序」が必要だった……

"殺してはならない。"
出エジプト記 20章 13節

"かたくなで、逆らう子がおり、父の言うことも、母の言うことも聞かず、父母に懲らしめられても、父母に従わないときは、
その父と母は、彼を捕らえ、町の門にいる町の長老たちのところへその子を連れて行き、
町の長老たちに、「私たちのこの息子は、かたくなで、逆らいます。私たちの言うことを聞きません。放蕩して、大酒飲みです」と言いなさい。
町の人はみな、彼を石で打ちなさい。彼は死ななければならない。あなたがたのうちから悪を除き去りなさい。イスラエルがみな、聞いて恐れるために。"
申命記 21章 18〜21節

"イエスは身を起こして言われた。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」"
ヨハネ福音書 8章 7節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会