シャロームを所有する

私は預言の賜物の回復を願っている。しかし私は預言の賜物を否定する方々を心から尊敬し感謝している。私が預言の賜物を熱心に求めて聖書に従うためなら…私は預言の賜物を否定する方々を不満に思い…全て感謝せよと語る聖書に逆らってよいだろうか?預言を認める牧師先生だけ尊敬し…預言の賜物を否定する牧師先生含む5役者や教団教派の方々を尊敬せず…互いに尊敬しなさいと語る聖書に逆らってよいだろうか?自分が建てたい御言葉を建て上げるために他の御言葉を壊してできた砂の上に自分が建てたい御言葉を建て上げ…家を建ててよいのだろうか?

1ー②「旧約聖書の時代から、何世代もの父たち母たちだけが預言し続け教え続け、子たちはみな聞き従い続けることだけが要求され続けた時代に、築き上げられ積み重ね続けられた信仰と土台的基礎的な教えの土台は山が落ちてきても壊れない。山が落ちてきても壊れない安定した土台の上に、父たち母たちだけでなく子たちみなが神の王国の王であり祭司である油注ぎと預言とダビデの幕屋が建て直されて、地と地にある高い山々が揺り動かされる時代を人々は見る」

(前回のブログの内容)
「子たちみな」が父たち母たちと共に預言によって現代のキリストの体であり神の民であるエクレシアを成長させることができる時代を実現させるためには、何世代にも渡る道備えと段階が必要だった。その段階と道備えとは……「1人の父(アブラハムモーセ等)だけが預言して神の民たちに教える旧約聖書の時代」→「1人か2人くらいの父たちだけ(まれに女性)が預言して神の民たちに教える旧約聖書の時代」→「イエスキリストが父なる神の栄光と神の王国の栄光と旧約聖書を解き明かす新約聖書の時代」→「使徒たちが聖霊によってイエスキリストについて教える新約聖書の時代」→「使徒預言者、伝道者、牧師、教師、教えの賜物がある信徒リーダー等といった父たち母たちだけが旧約聖書新約聖書に書かれていることについて神の民たちに、預言やメッセージ等によって教えている時代(現代)」という何世代にも渡って積み重ねられ築き上げられた土台的基礎的教えの土台は今、現代においても築き上げられ続けていて、この何世代にも渡って積み重ねられ続けている「土台的基礎的教え(DNA)」を継承し相続している子たちみなが父たち母たちと共に預言によって現代のキリストの体である神の民、エクレシアを成長させることができるようになる時代が実現するようになる……といったことが前回の1ー①のブログで書かせていただいた内容だ。

土台となる「基礎的土台的な教え」は大人である父たち母たちの預言やメッセージや教えだけでつくられなければならなかった。何故なら……土台で最も重要なことは美しさや輝きではなくて「安定」であるからだ。それは黒と白と直線だけで描かれた図形のようなものに思えるかもしれない。それでいい。土台で重要なことは「安定」であるからだ。父たち母たちだけでなく子たちも共に土台をつくれば、「カラフルで様々な美しい模様が描かれた土台」をつくることができるかもしれない。しかし、「カラフルで呼吸を忘れるほど非常に美しい模様が描かれてはいるけど非常に不安定な土台」よりも、「見た目はどうであろうと安定した土台」が必要だ。そして、「見た目は美しくなくても、非常に安定した土台」の上に……使徒預言者、伝道者、牧師、教師、信徒リーダー、「父たち母たちだけでなく子たちみなの預言」によって築き上げられ建て上げられる「カラフルで呼吸を忘れてしまうほどに美しいキリストの体」という「神の王国の栄光に満ちた」「建物」が地上に現れるようになるのを人々は見る。

しかし、美しさではなく、安定が最優先されていた段階であった旧約聖書の時代においては……リーダーが2人以上ではなくて1人だった。何故なら……リーダが1人しかいない方が、ずれのない安定した土台をつくることができるからだ。リーダーの人数が多ければ多いほどずれのない安定した土台をつくることは難しくなる。だから神は1人のアブラハムという人物を選んでから試し、合格した1人のアブラハムという人物のDNAを持ったイスラエルの民をうまれさせ、そのイスラエルの民から1人のモーセという人物を選んでから試し、合格した1人のモーセという人物だけを民のリーダーとならせ、1人のリーダーであるモーセに神は語り、1人のモーセが神から預かった預言のことばに聞き従うことが神の民たちに要求された。

1人のリーダーが黒色と白色だけで土台をつくるよりも複数の者たちが複数のカラーによって色々な模様を描く方が人々の心を楽しませ喜ばせる土台をつくることができるだろう。しかし……土台にとって最も重要なことは「安定」だ。土台の「安定」が最優先されていた時代においては、子たちのアイデアやビジョン等は聞き入れられずに拒絶され、神が選び神が油注いでおられる1人のリーダーが言うとおりに少しもはみ出ることなく少しもずれることなく線をなぞるようにつくらなければならなかった。定められている枠の中だけで、定められている順番で、あらゆることが定められていて定められたとおりに定められたとおりのことをしなければならなかった。そのように定められていたとおりにモーセの幕屋はつくられた。モーセの幕屋には定められた順番と手順があった。

モーセの幕屋はまるで1曲目の賛美はこの歌で2曲目の賛美はこの歌で何曲目のこの賛美の後に牧師先生のメッセージ……と最初からプログラムが決まっている集会のようだ。

しかし、ダビデの幕屋にはモーセの幕屋のような順番と手順はない。ダビデの幕屋には隔ての壁は1つも存在しない。ダビデの幕屋には前も後ろもない。ダビデの幕屋ではモーセの幕屋の「はじめ」と、モーセの幕屋の「おわり」が1つになっている。モーセの幕屋の「はじめ」は「大庭」であり、モーセの幕屋の「おわり」は「至聖所」だ。ダビデの幕屋では、アルファでありオメガであり、「はじめ」であり「おわり」であるイエスキリストの十字架の贖いによって全ての隔ての壁が打ち壊されていて、モーセの幕屋の「はじめである大庭」と「おわりである至聖所」が1つになっている。イエスキリストが十字架の贖いを成し遂げてくださったことにより、「大庭」に「至聖所」の「契約の箱」=『主の臨在』が来た。

だからダビデの幕屋には「至聖所となった大庭」と「契約の箱」がある。ダビデの幕屋には「大庭」に入る者とされた者たちの『賛美』と「至聖所の神の契約の箱」=『主の臨在』がある。ダビデの幕屋には『賛美』と『主の臨在』がある。では、ダビデの幕屋には大庭と至聖所だけで、モーセの幕屋にあった洗盤も、パンもないのだろうか?……ダビデの幕屋にもモーセの幕屋にあった洗盤もパンもある。ダビデの幕屋の大庭の賛美の中に住んでおられる『主の臨在』の中にモーセの幕屋にあった洗盤もパンもある。ダビデの幕屋の大庭で賛美している者たちの上に『主の臨在』が臨み「深い悔い改め」の恵みが臨む。……それがダビデの幕屋の「洗盤」だ。

ダビデの幕屋では、今日は「洗盤」とか、今日は「パン」とか、「手順とか順番とかは決まっていない。ダビデの幕屋の大庭で賛美している者たちの上に、主が主の臨在の中で洗盤の恵みを与えたい時に洗盤の恵みを与え、主がパンの恵みを与えたい時にパンの恵みを与える。

まず悔い改め等、次にパン等、全ての手順を終えてから至聖所に入れるとかではなくて、ダビデの幕屋においては、主が与えたい時に与えたい恵みを与える。主が語らせたい時に、語らせたい人の上に臨み、語らせたいことばを語らせる。主が臨みたい人の上に臨み、主が用いたい人を用いたいように用いて、大庭にいる人々に触れたい方法で触れ、主が与えたいインパーテーション(分与)を与えたい人に与える。ダビデの幕屋では父たち母たちだけでなく、子たちもみな王である祭司であるからだ。ダビデの幕屋の中にいて、まだイエスキリストを信じていない人の上に突然主の霊が臨み預言が語られることだってあるだろう。

ダビデの幕屋で私たちがすると最初から決まっていることは「主の大庭の臨在の中で主を賛美をすること」だけだ。……「ダビデの幕屋で王であり祭司である主の民が主の大庭の臨在の中で主を賛美していると、主が与えたい時に与えたい恵みを与えてくださる」……それがダビデの幕屋だ。

現代に建て直されるダビデの幕屋は、2人か3人の小さなダビデの幕屋もあれば、大規模なスタジアムのライブコンサートと癒しの大伝道集会クルセイドが合わさったような大きなダビデの幕屋もあるだろう。

スタジアムのライブコンサートと癒しの大伝道集会クルセイドが合わさったような大規模なダビデの幕屋では、これまでの時代のように、1人の油注がれた使徒的(世界的)伝道者を通って癒しが人々に流れるのではない。

王であり祭司である父たち母たち子たちというキリストの体を通って癒しが人々に流れる。

……そのようなキリストの体であり王であり祭司である父たち母たち子たちの預言によって織り出されるケルビムのような栄光に満ちたダビデの幕屋の栄光を地上に来たらせ、地上と地上にある高い山々を揺り動かすキリストの体という神の王国の建物は……安定させることを最優先するために旧約聖書の時代から何世代もの期間、選ばれた少数の父たち母たちリーダーたちにより積み重ねられ建て上げ続けられていて非常に安定していて山が落ちてきても壊れない土台の上に建て上げられる。

"幕屋を十枚の幕で造らなければならない。すなわち、撚り糸で織った亜麻布、青色、紫色、緋色の撚り糸で作り、巧みな細工でそれにケルビムを織り出さなければならない。"
出エジプト記 26章 1節

"その日、わたしはダビデの倒れている仮庵を起こし、その破れを繕い、その廃墟を復興し、昔の日のようにこれを建て直す。
これは彼らが、エドムの残りの者と、わたしの名がつけられたすべての国々を手に入れるためだ。--これをなされる主の御告げ--"
アモス書 9章 11〜12節

"『この後、わたしは帰って来て、倒れたダビデの幕屋を建て直す。すなわち、廃墟と化した幕屋を建て直し、それを元どおりにする。
それは、残った人々、すなわち、わたしの名で呼ばれる異邦人がみな、主を求めるようになるためである。"
使徒の働き 15章 16〜17節

"キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、
ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。"
エペソ人への手紙 2章 14〜15節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会