シャロームを所有する

私は預言の賜物の回復を願っている。しかし私は預言の賜物を否定する方々を心から尊敬し感謝している。私が預言の賜物を熱心に求めて聖書に従うためなら…私は預言の賜物を否定する方々を不満に思い…全て感謝せよと語る聖書に逆らってよいだろうか?預言を認める牧師先生だけ尊敬し…預言の賜物を否定する牧師先生含む5役者や教団教派の方々を尊敬せず…互いに尊敬しなさいと語る聖書に逆らってよいだろうか?自分が建てたい御言葉を建て上げるために他の御言葉を壊してできた砂の上に自分が建てたい御言葉を建て上げ…家を建ててよいのだろうか?

「使徒的預言的な教会で歌われている賛美は預言的なだけで使徒的ではないのは何故なのか…」

使徒的預言的な教会を目指し、使徒的預言的な教会であると自負している教会がいくつか日本にある。見てみると、確かに主が使徒的預言的な教会として選び、油注いでおられる教会だと確認できるし、納得させられる。

使徒的預言的な教会を自負している教会は、確かに使徒的で預言的な教会になっている。

しかし、そのような使徒的預言的な教会で歌われている賛美だけは、使徒的預言的な賛美ではないようだ。

使徒的預言的な教会で歌われている賛美は預言的ではあるが、使徒的と言える程ではない。

使徒的預言的な教会は自分たちが主から与えられたオリジナル賛美を礼拝で歌っている。

聖霊様から与えられたオリジナル賛美を歌っているのだから、その賛美は確かに預言的だ。

しかし、使徒的ではない。何故、使徒的ではないと言えるのだろうか?何故なら、歌詞において、メロディーにおいて、多くの教会の多くの聖徒たちが主に向かってその賛美を歌いたいと思い、多くの教会の多くの賛美リーダーたちが、自分たちが賛美リードする時の選曲の1つにしたいと思うような賛美ではないからだ。

使徒的賛美とは、クリスチャンである誰もが主に向かってその賛美を歌いたいと思い、多くの賛美リーダーたちが、自分たちが賛美リードする時の選曲の1つにしたいと思える賛美であり、実際に多くの教会の礼拝で歌われている賛美が使徒的な賛美なのであって、

自分たちの教会だけが歌っているオリジナル賛美は使徒的賛美ではない。本当に主からの啓示と油注ぎによって与えられたオリジナル賛美であっても預言的なだけで、使徒的ではない。

使徒的預言的な教会で歌われている、主から与えられたオリジナル賛美は確かに、いい賛美ではあるが、もっとメロディーがすぐれている既存の賛美がいくらでもある。

自分の教会のメンバーの誰かが主から与えられた歌なら、歌詞やメロディーがそこまですぐれていなくても礼拝で歌われるだろう。それは、自分たちの教会に主が与えて下さったオリジナル賛美という価値があるからだ。

実際に多くの教会を建て上げていないのであれば、どれ程すぐれて預言的であろうとも使徒的ではない。

使徒的預言的な教会を自負している使徒的預言的な教会は、

「キリストの体である多くの教会を建て上げるために油注がれている既存の賛美」、

「キリストの体を建て上げるために、主がキリストの体に与え、今も増し加え続けてくださっている既存の賛美」をほとんど歌わない。

多分、使徒的預言的な教会は使徒的預言的ではない教会の誰かが作詞作曲した賛美を歌うことによって、

使徒的預言的ではない教会の流れを受けたくない、自分たちの中に入れたくないから歌わないのだろう。

このことからも見られるように、使徒的預言的な教会は排他的で孤立している傾向にある。他の教会から拒絶されて傷ついた結果、自分たちがそうしたくてそうしているのかもしれないし、

主から導かれてそうしているのかもしれない。

使徒的預言的な教会にはマリヤのように主だけを見上げ、主からだけ受けとる役割、使命がある。だから、キリストの体である他の教会よりも、その役割と使命においてすぐれており、そのことにたいする求めが強い。

主が日本にあるキリストの体、日本の教会全体に使徒的預言的な力と啓示を与えてくださる時は、まだ来ていない。日本にあるキリストの体、日本の教会全体が、本格的に世界に遣わされる時が、まだ来ていないからだ。

子供は自分が教育を受けなければならない立場であることを理解し、認めており、受け入れやすいので整えやすいが、

大人は自分が整えられる必要を感じにくく、意識が薄れていて、指図されることを嫌い、自由にふるまうので整えることが難しい。

教会、聖徒たちが使徒的預言的な啓示を理解することは、そのような子供が大人になるような変化を伴う。

日本の教会は整えられる恵みの時の中にあり、義務教育の中にある。義務教育の中にあるといっても、大人たちがどの会社でも要求されることがないほどに、規律の厳しい学校で義務教育を受けている。

どの会社でも要求されないほどに規律の厳しい学校で義務教育を受けながら、同時に、子として親からも、他者からも与えられ、養われ、守られる恵みの時を過ごしている。

海外からのとりなしの祈り、海外からの器による聖書の教え、サポート等を豊かに受け、取り囲まれている。

そして、日本が厳しく整えられる義務教育の恵みの時を終えて、

愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制、御霊の実を追い求め続けていた日本の教会が、使徒的預言的な啓示を理解して、愛、御霊の実だけでなく預言の賜物、御霊の賜物を熱心に求めるようになり、全世界に遣わされるようになる時、

日本に霊的な祝福、サポートを豊かに与えた国々の教会は日本の教会の働きを見て満足し、

厳しい規律により整えられ続けた日本の教会自身も満足し、

神ご自身も満足を得る。