シャロームを所有する

私は預言の賜物の回復を願っている。しかし私は預言の賜物を否定する方々を心から尊敬し感謝している。私が預言の賜物を熱心に求めて聖書に従うためなら…私は預言の賜物を否定する方々を不満に思い…全て感謝せよと語る聖書に逆らってよいだろうか?預言を認める牧師先生だけ尊敬し…預言の賜物を否定する牧師先生含む5役者や教団教派の方々を尊敬せず…互いに尊敬しなさいと語る聖書に逆らってよいだろうか?自分が建てたい御言葉を建て上げるために他の御言葉を壊してできた砂の上に自分が建てたい御言葉を建て上げ…家を建ててよいのだろうか?

1ー③「幼子の味覚に苦い野菜(御言葉の教え)を食べることが必要であることをいくら説明しても理解できない無知で無分別で放縦で不従順な幼子(のようなエクレシアでありキリストの体である神の民たち)に野菜(御言葉の教え)を食べない自由を与えることは幼子に死ぬ自由を与える。野菜を食べようとしない幼子に『恐れ』を与えて強制的に野菜を食べさせることは幼子を死から守る。"主を恐れることは知識の初めである"」



キリストの体にはモーセの幕屋の時代と、ダビデの幕屋の時代がある。ダビデの幕屋の時代はモーセの幕屋の時代の後に来る。

ダビデの幕屋の時代はキリストの体である父たち母たちだけでなく子たちも預言を歌う時代だ。ダビデの幕屋の時代には父たちと母たちと子たちみなで奏でるハーモニーがある。

しかし、最初から、父たち母たちと共に子たちがハーモニーを奏でることができるのではない。

ピアニストの父とピアニストの母たちが、ピアノの音すら1度も聞いたことがない幼い子たちの前でピアノを奏でてから、「さあ、一緒にピアノでハーモニーを奏でましょう」……と言って幼い子たちがピアノを奏でることができるだろうか?

まずピアノや音楽についての基礎中の基礎から教える必要があるのと同じように、「ダビデの幕屋の時代」の前に「ダビデの幕屋の時代」が建て上げられるための土台となる「モーセの幕屋の時代」が必要だ。父たち母たち子たちが対等で平和で安心な「ダビデの幕屋の時代」が実現するための土台として、父たち母たちと子たちが対等ではなく、子たちが父たち母たちから厳しく教えられ、子たちが父たち母たちに聞き従うことが要求され続ける「モーセの幕屋の時代」が必要だ。

……だから、「旧約聖書の時代」も「新約聖書の時代」も「使徒預言者、伝道者、牧師、教師、信徒リーダーといった霊的リーダーに子たちが反論することなく聞き従い続けることが要求され続けている現代」も「モーセの幕屋の時代」であり、「父たち母たちから土台的基礎的な教えがキリストの体の土台として築き上げられ続けている時代」であり、「石の板に十戒が書かれたように、キリストの体という心の板に使徒預言者、伝道者、牧師、教師によって旧約聖書新約聖書についての土台的基礎的な教えが書き続けられ、ダウンロードされ続けている時代」だ。だから、これまでの時代においても、現代においても、子たちが預言しようとすることは、大人である父たち母たちによって禁じられていたし、大人である父たち母たちが、預言しようとしている子たちを強制的に黙らせて一方的に教えて聞き従わせるといった聖書的ではない支配的なリーダーシップについて神は忍耐して黙認し続けておられた。……何故だろうか……?

何故なら……もし、そのような一方的で「恐れ」によって支配するリーダーシップがなければ、無知で無分別な幼子のようなエクレシアである神の民たちは神が選び油注いでおられる使徒預言者、伝道者、牧師、教師が語る旧約聖書新約聖書を土台としている御言葉の教えやメッセージをことごとく無視して放縦と不従順の道に進み続けてコースアウトして死んでしまうからだ。

……だから、神は無知で無分別な幼い子のようなエクレシアである神の民たちが、使徒預言者、伝道者、牧師、教師が語っている旧約聖書新約聖書を土台としている御言葉の教えやメッセージによって養われ続けることによって、御言葉についての理解力と知識と分別をしっかりとたくわえて持っている青年に成長する時まで忍耐しながら「恐れ」によって成り立っている支配的なリーダーシップは聖書的ではないけれども、忍耐して黙認し続けておられた。……しかし、神はずっと黙り続けてはおられない。

神の民であるエクレシアが無知で無分別な幼子ではなく御言葉によって養われ成長していて御言葉のたくわえがある青年になった時、神は「恐れ」によって成り立っている支配的なリーダーシップが聖書的ではないことを神の息によって明らかにし、支配的なリーダーシップを成り立たたせるかなめになっている「恐れ」の鎖をレイマの剣で断ち切り、神の恵みとあわれみによって草花のように栄え続けさせておられた支配的なリーダーシップを神の息によって枯らしてしまう。

預言しようとする子たちを、大人である父たちと母たちが強制的に黙らせて一方的に教え聞き従わせるべきである……そのようなことは聖書には書かれてはおらず、そのような聖書の一部分と矛盾していて聖書全体と合わさることができない間違った人間の私的な聖書解釈は草花のように過ぎ去っていく。

"すべての人は草、その栄光は、みな野の花のようだ。
主のいぶきがその上に吹くと、草は枯れ、花はしぼむ。まことに、民は草だ。
草は枯れ、花はしぼむ"
イザヤ書 40章 6〜8節

しかし、主は人間の私的で間違った聖書解釈を幼いエクレシアの離乳食としてしばらくの期間だけ用いてくださることがある。……例えば……以下のような有名なメッセージがある。「イエスキリストが十字架で手に釘を刺されたのは、私たちが手でしてはいけないことをしてしまった罪のため、イエスキリストの十字架のいばらの冠は、私たちが頭で考えてはいけないことを考えてしまった罪のため、イエスキリストが足に釘を刺されたのは、私たちが足で行ってはいけないところに行ってしまった罪のため」……このような解釈は、聖書の解釈としては間違っている。……もしも、この解釈が本当に聖書的に正しいのであれば……それでは、私たちが見てはいけないものを見てしまった目の罪は?私たちが語ってはいけないことばを語ってしまった舌の罪は?私たちが耳を傾けてはいけないことばに耳を傾けてしまった耳の罪は?……ということになってしまう……

…………だが…………

……このように聖書解釈としては間違っているこの福音メッセージを耳にした数えきれないほど多くの人々が涙を流して悔い改めて次々に救われた時代があった。……という話を私が学生の頃くらいに牧師先生から聴かせてもらったことがある。

……だから、聖書解釈としては間違っていても、イエスキリストの福音を視覚的にわかりやすく伝えることが可能なこのメッセージに聖霊が臨みとどまり続け、多くの人々が救われるために大いに用いられていた時代があったということだ。

現代においては、このようなメッセージによって数えきれないほど多くの人々が次々に救われている……といったことを見聞きしてはいない。もし現代でもこのメッセージを語ることで多くの人々が救われるのであれば、現代においても伝道目的の集会で非常に頻繁に語られるメッセージになっていただろうし、どこの教会でもほぼ毎回の礼拝で語られるメッセージになっていただろう。もちろん現代においてもこのメッセージを聴いて救われる人はいるだろう。このメッセージにとどまっていた特別な油注ぎは現代においては過ぎ去っているが、今日においても、このメッセージの中にはイエスキリストの福音があるからだ。

……現代においてはこの聖書解釈が間違っているメッセージによって数えきれないほど多くの人々が次々に救われるようなことはない。しかし……この聖書解釈が間違っているメッセージに聖霊がとどまり続けていて、数えきれないほど多くの人々が次々に救われた時代があった。聖書解釈が間違ってはいるが、視覚的に非常にわかりやすいメッセージによって、堅い食物を食べることができない幼い子を離乳食で親が養うように、聖書解釈としては間違っているが視覚的にわかりやすい伝道メッセージによって主が養ってくださっていた時代があった。しかし、幼い子が成長すれば離乳食からはなれるように、離乳食が必要だった時代は過ぎ去る。そのように人間の私的な間違った聖書解釈はやがて草花のように枯れて過ぎ去る……しかし、期間限定の離乳食や美しい花のように特別な油注ぎによって豊かに繁栄させてくださることもある。

そして、その期間限定の離乳食として用いられ、美しい花のように豊かに繁栄してエクレシアを豊かに繁栄させ続けていた手の釘と足の釘といばらの冠の理由についてのオリジナルの聖書解釈をすることによってうまれたオリジナルメッセージのことば、思いつき、アイデア、啓示を人に与えてくださったのは主だ。聖書解釈が間違ったメッセージは全て悪霊からのもの……?……そうではない。聖霊からのものでなければ数えきれないほど多くの人々が悔い改めて救いの実が実ることはない。……もし、聖書解釈が間違っているメッセージは無価値であると強く確信して信じている誰かから「ああ…そんなメッセージは聖書解釈としては間違いだらけですよ」と告げられていて、もしも、「そうか…このような聖書解釈は聖書解釈としては間違っていたのか…」……と思って、このオリジナルメッセージが誰にも語られることがなくなってしまっていれば……このメッセージを聴いて多くの人々が救われる機会はどうなっていただろうか……?

だから……そのメッセージが聖書解釈として正しいか正しくないか……よりももっと重要なことは……そのメッセージに今、『神の息』がとどまっているだろうか?そのメッセージに今、『神の息』がとどまっていて、神のいのちがとどまっていて、聞く者に神のいのちのインパーテーション(分与)を与えるメッセージであるだろうか……?……ということだ。聖書解釈として正しいか正しくないかだけがわかっていても、今、『聖霊の息』がとどまっているかいないかはわからない。何故なら……聖書解釈が間違っているメッセージであっても、『神の息』である『聖霊』がとどまっていることもあるし、とどまっていないこともあり……反対に聖書解釈としては正しいメッセージであっても、『神の息』である『聖霊』がとどまっていないこともあるし、とどまっていることもある。

"風はその思いのままに吹き、"
ヨハネ福音書 3章 8節

聖書解釈として正しいメッセージであっても、聖霊の息がとどまっていないメッセージであるなら、そのメッセージには御言葉のロゴスの力はあっても、レイマの力がない。レイマとは……今、その人が必要としていることば、今のその人の必要を知っておられる主が、今、その人に語り聴かせるために、今、語っておられる『聖霊の息』を帯びていることば、メッセージ、聖書箇所、その他の知識や情報だ。

紙に書いた文字は過去のことば。今語っていることばは今のことば。非常に薄い紙の前でことばを語ると、非常に薄い紙は揺れる。今のことばは『息の風』を帯びているからだ。

主が語られた「ことば」はロゴスであり、主の『御口のいぶき』を帯びたロゴスはレイマだ。

"主のことばによって、天は造られた。天の万象もすべて、御口のいぶきによって。"
詩篇 33篇 6節

ロゴスの力は聖書全体と矛盾なく合わさる聖書解釈を土台としているメッセージ、聖書箇所、聖書知識、聖書の知恵の中にある。聖書全体と完全に一致していることばにはロゴスの力があるが、聖書の一部分と合わない間違った聖書解釈、一部分が聖書解釈として間違っていることばやメッセージの中にもロゴスの力はあるが、人間の私的解釈という水でロゴスの力はいくらか薄められてしまっている。

親が栄養豊かで良質な野菜を子たちに与え養うように、使徒預言者、伝道者、牧師、教師は、ロゴスの力が伴う聖書的なメッセージ、聖書の解説、聖書箇所、聖書知識、聖書の知恵を与えることによって養ってくれる。

……しかし、もしも使徒預言者、伝道者、牧師、教師が……同じ聖書箇所についての同じメッセージが自分自身やある人やある人々やあるグループにはレイマのインパーテーション(分与)を与えるが……

……自分自身やある人やある人々やあるグループにはレイマのインパーテーション(分与)を与えることができた同じ聖書箇所についての同じメッセージが他の人や他の人々や他のグループにはレイマのインパーテーション(分与)を与えるができないどころか、悪口のように霊肉魂を弱らせてしまうことがあったり、ただの知識や情報の伝達になってしまうこともあることを知らないのであれば……まるで、食物アレルギーということに関する知識は全くないが、食物アレルギーに関する知識以外の食物の栄養に関する知識をほとんど全て知り尽くしている管理栄養士のようだ。

親から「好きな時に、好きなものを、好きなだけ食べなさい」と言われた幼子が幼子自身の味覚に甘いものだけを食べたいだけ食べ続けて幼子の味覚においしいと感じることができない野菜を全く食べずに幼子が死んでしまうよりは……

……こどもがまだ幼く、野菜が必要であることを理解できない期間は……食物アレルギーに関する知識を全く知らない親の家で「好き嫌いせずに野菜も全部残さずに食べなさい」と厳しく言われて、アレルギー反応が出る食物と生きるために必要な野菜が混ざっている食事を無理やりにでも食べさせられ続けている方が、死から守られる。野菜を全く食べずに死ぬよりは、アレルギー反応がある食物が混ざってはいても野菜を全く食べずに死ぬよりは良い。

食物アレルギーに関する知識がゼロで、「好き嫌いせずに全部残さずに食べなさい」と言う親のように……

……同じ聖書箇所のメッセージがレイマとなる人もいれば、レイマとならない人もいることについての理解がゼロで、「全ての聖書の御言葉に従わなければならない」と言い続ける使徒預言者、伝道者、牧師、教師に、無理やりにでも、ありとあらゆる御言葉(野菜)を食べさせられ続ける方が全ての御言葉(野菜)を無視して踏みにじる自由選択を与えられて、全ての御言葉を無視して踏みにじって無知と無分別と放縦と不従順の結果死んでしまうよりは良い。

厳しい親に怒られることを恐れながら、厳しい親に怒られないために嫌々アレルギー反応が発生する食物と嫌いな野菜が混ざった食事を無理やりに食べさせられ続ける方が、無知と無分別と放縦と不従順による死から守られる。

放縦と不従順を好む無知で無分別な幼子が幼子の味覚においしくない野菜を食べることによって死から救い出され守られるためには、親が幼子を愛してくれていることを幼子が知っているだけでは足りない。親が自分のことを愛してくれていることを知っているだけの無知で無分別な幼い子は野菜を食べるようにすすめる親の忠告をことごとく無視し続けて放縦と不従順によって死ぬ。

無知で無分別な幼い子に野菜を食べることがどれだけ必要なことかについて親がことばで解説し説明し説得してもほとんど効果がない。もしも、その幼子の親が管理栄養士であったとしても、幼子の味覚に苦い野菜を拒み続けて死の道を進み続ける無知で無分別な幼子を管理栄養士の知識をいくら教えようとしても止めることはできない。

野菜を拒み続けて死の道を進み続ける無知で無分別な幼子を止めることができるのは管理栄養士のすぐれた豊かな知識やことばではなくて……『恐れ』だ。

野菜を食べようとしない幼子に親が怒ったり、何らかの罰を与えたりすることによって幼子の味覚にとってはおいしくない野菜を食べさせられる以上に幼子にとって耐え難い『恐れ』を与えることによって、無知で無分別な幼子に野菜を食べさせ、野菜を食べることを拒み続けた結果として死んでしまうことから無知で無分別で放縦で不従順な幼子を救い出すことができる。

野菜嫌いな幼子が野菜を食べないと親がこわい……と思う『恐れ』によって幼い子が野菜を食べなかった結果の死から救い出されるように……神の民であるエクレシアも無知で無分別な時期は『恐れ』を与えることによって危険から守られる必要がある。「使徒預言者、伝道者、牧師、教師に反論することは神に逆らうことに等しいことであるので神からひどく罰せられる」……といった本当は聖書的ではない間違った聖書解釈と間違った理解から生じる『恐れ』があることによって、使徒預言者、伝道者、牧師、教師が提供する御言葉(野菜)をなるべく残さずに食べようとするので、全ての御言葉を踏みにじってしまった結果の死を回避することができている。

"主を恐れることはいのちの泉、死のわなからのがれさせる。"
箴言 14章 27節

"主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。
わが子よ。あなたの父の訓戒に聞き従え。あなたの母の教えを捨ててはならない。
それらは、あなたの頭の麗しい花輪、あなたの首飾りである。"
箴言 1章 7〜9節