シャロームを所有する

私は預言の賜物の回復を願っている。しかし私は預言の賜物を否定する方々を心から尊敬し感謝している。私が預言の賜物を熱心に求めて聖書に従うためなら…私は預言の賜物を否定する方々を不満に思い…全て感謝せよと語る聖書に逆らってよいだろうか?預言を認める牧師先生だけ尊敬し…預言の賜物を否定する牧師先生含む5役者や教団教派の方々を尊敬せず…互いに尊敬しなさいと語る聖書に逆らってよいだろうか?自分が建てたい御言葉を建て上げるために他の御言葉を壊してできた砂の上に自分が建てたい御言葉を建て上げ…家を建ててよいのだろうか?

1ー④「父母から叱責されることを恐れる『恐れ』の命綱が子たちに必要だった時代。父母の過保護は幼子たちにとって守りの『命綱』『家』となり、父母の過保護は青年となった息子たち、娘たちにとって束縛の『鎖』『サイズが合わなくなったこども服』となる」

神は神の民に「愛」と「自由」と「平和」と「平安」を豊かに与えることを願ったが、まだ神の民が無知で無分別な幼子であった時代に「愛」と「自由」と「平和」と「平安」を与えると無知で無分別な幼子が放縦と不従順を自由に選び続けて死んでしまうので、神は神の民に「自由」ではなくて「十戒」「律法」を与えた。そして、「平和」ではなくて「いのちを脅かす敵である異邦人に攻撃される危険な環境」を与えた。そのようにして「平安」ではなくて『恐れ』を与えた。神の民が無知と無分別と放縦と不従順を自由に選び続けて死んでしまわないためだ。……その結果、新約聖書の時代において、神の民の多くの者たちは放縦とは真反対の非常に厳しい律法主義に傾いてしまうことになっていた。……しかし、そのような厳格な厳しさと深刻なまでの『恐れ』があったからこそ、何世代にも渡って印刷機のない時代を過ごしてきたにも関わらず、旧約聖書の文字の"一点一画"すら失われることなく旧約聖書が現代のキリストの体であるエクレシアに継承されている。

……もしも、新約聖書の時代になる前の時代である旧約聖書の時代の神の民たちに「平和な環境」が与えられ「恐れ」がなくなり、「平安」で満たされていたら、旧約聖書の文字の"一点一画"が失われてしまっていたかもしれないどころか、旧約聖書の文字の大部分が失われていたかもしれない。もちろん全能の神は途中で失われてしまった全ての文字をいくらでも復元することが可能だ。しかし、神が現代のキリストの体であるエクレシアに与えたかったのは、何世代にも渡って継承され続け、何世代もの神の民の手から次の世代の神の民へと手渡され続けることによって保たれ続けた旧約聖書という霊的なDNAだ。

……モーセが書いた文字をAの時代にAグループが書き、Aグループが書いた文字が時間の経過により古くなり過ぎて読めなくなる前に、Bの時代にBグループが書き……そのようにして、印刷機のなかった多くの時代を何世代もの神の民たちが継承し続け、旧約聖書の文字の"一点一画"も失われないように保存し続け、前の世代から、後の世代へと、継承され続けた旧約聖書は「神の民であるエクレシアというキリストの体に代々継承され続けている霊的なDNA」だ。

"また、きょう、私があなたがたの前に与えようとしている、このみおしえのすべてのように、正しいおきてと定めとを持っている偉大な国民が、いったい、どこにあるだろう。"
申命記 4章 8節

"あなたはそれらを、あなたの子どもや孫たちに知らせなさい。"
申命記 4章 9節

"もしあなたがたがキリストのものであれば、それによってアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。"
ガラテヤ人への手紙 3章 29節

神は、神の民でありキリストの体である現代のエクレシアに「愛」と「自由」と「平和」と「平安」を豊かに与えることを願ったが、神の民でありキリストの体である現代のエクレシアがまだ無知で無分別な幼い子であったために、「平和」と「平安」ではなくて、「サタンや悪霊からの攻撃を恐れる恐れ」を与えた。

旧約聖書の時代は異邦人から攻撃され支配される危険を恐れる『恐れ』があったので、神がその時代、その時代に選んで油注いだ指導者に従わざるを得ない……という状況が、無知で無分別で放縦で不従順な幼子のような神の民たちの「守り」「命綱」であった。

現代のキリストの体であり神の民であるエクレシアにおいては、異邦人に支配される『恐れ』ではなくて、悪霊に攻撃されたり支配されることを恐れる『恐れ』が『命綱』になっている。

使徒預言者、伝道者、牧師、教師の教えに従わないことは神に従わないことであるから、徐々に神の守りはなくなり、徐々に神の守りがなくなるだけですんでいるあわれみとこらしめの段階で悔い改めなければ、サタンと悪霊に支配されてしまうことになる」……と父たち母たち、使徒預言者、伝道者、牧師、教師からくりかえしくりかえし先祖代々教え込まれ続けることによって深く植えつけられ続けた『恐れ』が『命綱』となっていて、使徒預言者、伝道者、牧師、教師によって与えられる「御言葉の教え」をことごとく完全に無視して無知で無分別で放縦で不従順な選択を選び続けて死ぬことから守られている。

『恐れ』は無知で無分別で放縦で不従順な幼い子が死から守られるためにはどうしても必要不可欠な『命綱』『鎖』『束縛』『囲い』だ。

しかし……御言葉についてのたくわえと分別を持っている青年となった息子たち、娘たちにとっては父たち母たちから与えられる『恐れ』は必要ない。御言葉のたくわえと分別のある青年となった息子たち、娘たちは『恐れ』がなくても、御言葉を尊ぶことが必要であることをすでに知っており、御言葉を尊び御言葉についての教えを尊ぶので、「御言葉についての教えをことごとく無視し続ける」死の道ではなくて、「御言葉についての教えにとどまる」いのちの道を選択して選ぶことができるからだ。

もちろん、幼子が青年に成長して息子、娘となってからも、父と母の教えは有益であり、息子、娘たちが成長し続けるために必要だ。しかし、息子、娘が幼子であった時のように強制的に従わせようとする必要はない。父と母にとって有益で必要不可欠で、神の御心であり最善であったことが……息子、娘にとってもそうであるとは限らないことを知らない父と母は、父と母にとっては非常に良い食物ではあっても、子にとっては食物アレルギーを引き起こす食物を子に強制的に食べさせてしまうことになる。

神が「その御言葉は後まわしでいいから、今は、この御言葉をあなたのものとするために、この御言葉と向き合いなさい」……と語っておられるかどうか誰が知り得ようか。

父と母が子に実行させようとして語っている御言葉が……子にとって「今、主が父と母に語らせ、子に得させようと働きかけておられるレイマの御言葉」であるか、「今は実行できなくても後で実行できるようになるから今は保留にしておいてもよい御言葉」であるか、誰が知り得よう。

……だから……父と母が子たちに御言葉の教えを与えることは良いことだが……強制してはならない。父と母が子に語った御言葉を子が無視しても、実行しようとしなくても、子に向かって腹を立ててはならない。心の中で子に向かって、この程度の御言葉さえ実行できない『能なし』と言ったり、心の中で子に向かって、この御言葉がどれほど重要な御言葉であるかについて目が開かれていない『ばか者』と言うな。何故なら……父と母はどの御言葉が今、主が子に聞かせ得させようとして今、主が子のために語っておられる息の風を帯びた御言葉であるかを知らないからだ。

"風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。"
ヨハネ福音書 3章 8節

兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。"
マタイの福音書 5章 21〜22節

父と母にとってのレイマが子にとってもレイマになるかもしれない……だから、父と母にとってのレイマを子に語れ。その他にも、子にとって有益だと思える御言葉の教えを子に語れ。

………しかし………

父と母にとってのレイマが子にとってはレイマではないかもしれない……だから、父と母が子に語った御言葉の教えを子が無視しても、実行しなくても、子に向かって腹を立てるな。心の中で『能なし』と言ったり、心の中で『ばか者』と言うな。……父と母はどの御言葉が今、主が子に語っておられる息の風を帯びた御言葉であるかを知らないからだ。

……子たちが野菜(御言葉)が必要であることについての理解と分別がある息子、娘となっているのに、父たち母たちがこれとこれを1つも残さずに全部食べなさい……これとこれは食べてはいけません……と言い続け強制し続けていたらどうだろうか……

父たち母たちにとっては食物アレルギー反応を生じるものを、父たち母たちとちがって、その食物のアレルギー反応がなく、その食物を食べることが息子、娘にとって有益なことであるのに、父たち母たちが禁じ

反対に、父たち母たちにとっては食物アレルギー反応を生じないものを、父たち母たちとちがってその食物を食べるとアレルギー反応を生じてしまい、その食物を食べることが息子、娘にとって有益なことではないのに、父たち母たちが「1つも残さずに食べなさい」と強制し続けていたらどうだろうか……

食物アレルギー反応を生じる食物は人それぞれだ。それなのに、父たち母たちに食物アレルギー反応があるものが、息子、娘たちにとっても有益ではないものであると勝手に決めつけて食べることを禁止し続け……

……父たち母たちに食物アレルギー反応がないものが、息子、娘たちにとっても有益なものであると勝手に決めつけて強制的に食べさせ続けていたらどうだろうか……

……もしくは、父たち母たちだけでなく、ほとんどの息子たち娘たちにとって食物アレルギーではない食物ではあっても、食物アレルギー反応を生じてしまう子が1人だけいるかもしれないし……

……父たち母たちだけでなく、ほとんどの息子たち娘たちにとって食物アレルギー反応を生じる食物ではあっても、食物アレルギー反応を生じず、その食物に含まれている有益な栄養素を得ることができる子が1人だけいるかもしれない。

……父たち母たちと同じメニューを全ての息子たち、娘たちも1つも残さずに全て食べなければならない、外で売られているものは一切食べてはならない。家で提供されるものを家で食べ、外では何も食べてはならない……と『恐れ』を与え強制し続けていたらどうだろうか……

……幼子の頃には最も安全なだけでなく、最善であったことだとしても、成長して息子、娘となった子たちにとっても最善であるとは限らない。

分別のない幼子にとっては父たち母たちの枠の中に閉じ込められていることは死から守られるために必要不可欠な安全、守り、家であったが、成長して青年となり分別を身につけた息子、娘を父たち母たちの枠の中だけに閉じ込め続けることは神が彼ら彼女らに与えておられる可能性を縮小させてしまう。

例えば……牧師先生の教えの枠の中だけにとどまり続けることを強制し続け閉じ込め続けるなら、子たちの中に、「使徒」「預言者」「伝道者」となるはずの息子、娘たちがいた場合、「使徒」「預言者」「伝道者」になる可能性から遠く引き離されることになる。

使徒」「預言者」「伝道者」となるはずの息子、娘たちは、牧師先生の枠の中にはないもの、牧師先生の枠の外に存在している「使徒」「預言者」「伝道者」の枠の中にあるものに触れる必要がある。

もちろん、「使徒」「預言者」「伝道者」の枠の中にあるものだけでなく「牧師」「教師」の枠の中にあるものも必要だ。

……だから、「使徒」「預言者」「伝道者」「教師」が書いている本を牧師である私が読んで自分の信徒たちに教えている……という牧師先生もいるかもしれない……

……それは牧師先生の好みに合う部分だけを食べて、牧師先生が食べた部分をくちうつしで信徒にたべさせているようなものだ……乳離れしたばかりの幼子にとっては父や母からのくちうつしは幼子にとって安全、守り、祝福となるだろう……しかし、青年となった息子や娘に父や母からのくちうつしで食べさせようと、息子、娘に近づいてきた父や母の顔を息子、娘は受け入れるだろうか?……息子、娘の心は傷つき、不快に思うだろう。父や母が幼子ではなくなった自分を幼子のようにあつかおうとしたからだ。

"朝早くから、大声で友人を祝福すると、かえってのろいとみなされる。"……と聖書にあるように、良いことであっても、時や状況や相手の年齢等によって祝福が祝福ではなくなり、乳離れしたばかりの幼子にとっては良いことであっても、青年となった息子、娘にとっては侮辱となる。

……人が生きるためには、野菜(御言葉)が必要であることが理解できていて分別のある青年となった息子たち、娘たちには『恐れ』の命綱は必要ない。『恐れ』の命綱が必要なのは、人が生きるためには、野菜(御言葉)が必要であることを理解することができない無知で無分別で放縦で不従順な幼子たちだけだ。

……神は、愛する子たちをありとあらゆる最高級の食品が並んだ食卓に座らせる王のようなお方だ……

……王は、まだ幼い愛する我が子たちを、ありとあらゆる最高級の食品が並んだ食卓に座らせ、自由に食べなさいと言った。幼子たちは幼子の味覚に甘いものしか食べず、野菜を食べようとはしなかった。野菜を食べようとしない我が子たちを見た王は、管理栄養士たちに、野菜が必要であることについて、我が子たちに説明するように命じたが、幼子たちの理解力では「野菜が必要であること」について理解することができなかった。だから、王は、まだ幼い愛する我が子たちに「野菜も食べなさい」と大きな声で叱って『恐れ』を与えることによって幼子たちに強制的に野菜も食べさせた。

大きな声で叱られることを恐れる『恐れ』のゆえに野菜も食べ続けた幼子たちは健康に成長し続けて青年となった。我が子たちが青年となったので、王は青年となった我が子たちに、野菜が必要であることについて管理栄養士たちに説明するように命じた。すでに青年となっている息子たち、娘たちは幼子の頃の理解力では野菜が必要であることを教えられても幼子の頃には理解できなかったが、青年となった息子、娘たちは野菜が必要であることを管理栄養士たちから説明され教えられて「野菜が必要でなくてはならないものであること」について理解することができた。だから、王は愛する我が子たちを、ありとあらゆる最高級の食品が並んだ食卓に座らせ、「自由に食べなさい」と言った。愛する我が子たちを恐れさせていた「野菜も食べなさい」と王が大きな声で叱責する声は、もはや過ぎ去った。青年となった愛する我が子たちと王の食卓に愛と喜びと楽しみと感謝と平和と平安が満ちている。

"主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。"
箴言 1章 7節

"愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。"
ヨハネの手紙第一 4章 18節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会