シャロームを所有する

私は預言の賜物の回復を願っている。しかし私は預言の賜物を否定する方々を心から尊敬し感謝している。私が預言の賜物を熱心に求めて聖書に従うためなら…私は預言の賜物を否定する方々を不満に思い…全て感謝せよと語る聖書に逆らってよいだろうか?預言を認める牧師先生だけ尊敬し…預言の賜物を否定する牧師先生含む5役者や教団教派の方々を尊敬せず…互いに尊敬しなさいと語る聖書に逆らってよいだろうか?自分が建てたい御言葉を建て上げるために他の御言葉を壊してできた砂の上に自分が建てたい御言葉を建て上げ…家を建ててよいのだろうか?

1ー⑤「キリストの体であるそれぞれの教団・教派・グループが他の教団・教派・グループの内におられる主を仰ぎ見るようになる時、キリストの体であるそれぞれの教団・教派・グループは互いに祝福となる。……"あなたの名は祝福となる。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される"」


仰ぎ見られるべきお方は主ただおひとりだけだ。仰ぎ見られるべきお方は主ただおひとりだけであることは神が『旧約聖書の時代のはじめから要求していた神のルール』だ。

キリストの体である全ての神の民は主ただおひとりだけを仰ぎ見なければならない。人間は人間を仰ぎ見てはならない。……幼子のためには、父と母を仰ぎ見る期間を創造主が『はじめ』から備えておられるが……幼子ではない全ての者……青年となった「息子たち」も、「娘たち」も親となった「父たち」も、「母たち」も、主ただおひとりだけを仰ぎ見なければならない。仰ぎ見られるべきお方は主ただおひとりだけであることは、『はじめからあった神のルール(要求)』であるからだ。

"初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて、"
ヨハネの手紙第一 1章 1節

……キリストの体である神の民が主ただおひとりだけを仰ぎ見るようになる時、キリストの体は1つになることができる……

……「我々は主ただおひとりだけを仰ぎ見ている」……と思うだろうか……?

……キリストの体である私たちは、「主ただおひとりだけを仰ぎ見なければならない」と語られていることばを、主が聖書によって『はじめから』『要求』しておられる『深さ』『濃度』で実行することはまだできていない。……だからキリストの体である私たちにはまだ教団・教派・グループの間に隔ての壁が存在していて、キリストの体は1つになることができていない……

……キリストの体である神の民が主ただおひとりだけを仰ぎ見ているなら、キリストの体である教団・教派・グループの間にある隔ての壁はなくなり、キリストの体は1つになることができる。

キリストの体である教団・教派・グループの間に隔ての壁がまだ存在していて、キリストの体がまだ1つになることができていないのは、「主ただおひとりだけを仰ぎ見なければならない」と語られていることばを主が聖書によって『はじめから』『要求』しておられる『深さ』『濃度』で実行できていない「行い」「現実」「現状」のゆえに結ばれている「結果」「実」だ。

「我々は主ただおひとりだけを仰ぎ見ている」……と思うことができているのは……「主ただおひとりだけを仰ぎ見なければならない」……ということばによって神が『はじめから』語っておられる『神のルール』『神の要求』の『深さ』『濃度』をまだ知らないからだ。キリストの体である神の民がまだ知らないのは、神がまだ神の民に啓示してはっきりと知らせておられないからだ。神がまだ啓示してはっきりと知らせておられなかったのは、キリストの体である神の民がまだ幼子の時期にあったので「耐える力」「聞く力」がまだなかったからだ……"イエスは、このように多くのたとえで、彼らの聞く力に応じて、みことばを話された。"
マルコの福音書 4章 33節

"わたしには、あなたがたに話すことがまだたくさんありますが、今あなたがたはそれに耐える力がありません。
しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。"
ヨハネ福音書 16章 12〜13節

"この方について、私たちは話すべきことをたくさん持っていますが、あなたがたの耳が鈍くなっているため、説き明かすことが困難です。
あなたがたは年数からすれば教師になっていなければならないにもかかわらず、神のことばの初歩をもう一度だれかに教えてもらう必要があるのです。あなたがたは堅い食物ではなく、乳を必要とするようになっています。
まだ乳ばかり飲んでいるような者はみな、義の教えに通じてはいません。幼子なのです。"
ヘブル人への手紙 5章 11〜13節

……「主ただおひとりだけを仰ぎ見なければならない」とは「主だけを父とし、教師とし、先生としなければならない」という意味であり、「主だけが父であり、教師であり、先生なのであって、あなたがたはみな互いに兄弟姉妹であることを互いに認め合わなければならない」……ということだ。……これは「使徒預言者、伝道者、牧師、教師」たちが「師」として「先生」として、キリストの体である神の民たちを教え、キリストの体である神の民という生ける石の板に「新約聖書の御言葉」と「旧約聖書の御言葉」が全てのキリストの体である神の民のDNAとして深く刻み込まれた時に神が開いてくださる新しい時代だ。……"しかし、あなたがたは先生と呼ばれてはいけません。あなたがたの教師はただひとりしかなく、あなたがたはみな兄弟だからです。
あなたがたは地上のだれかを、われらの父と呼んではいけません。あなたがたの父はただひとり、すなわち天にいます父だけだからです。
また、師と呼ばれてはいけません。あなたがたの師はただひとり、キリストだからです。"……このように、イエスキリストは現代のキリストの体ですらも難易度の高い要求を語っておられる。イエスキリストは新約聖書の時代に、こんなにも難易度の高い要求を『今』しなさい……と言ったのではない。……そうではなくて……「これが旧約聖書の時代の『はじめから』神が神の民に『要求しているルール』の『深さ』『高さ』『濃度』ですよ」……と明らかに語られ解き明かされただけだ。……『旧約聖書の時代のはじめから』神が神の民に『要求しているルール』の『高さ』はまだまだハードルが高過ぎることを知っていて、イエスキリストは『旧約聖書の時代のはじめから神が神の民に要求しているルール』のハードルの高さを明らかにし……「キリストの体である神の民が十分に成熟した時に神から要求されること」……「キリストの体である神の民が十分に成熟した時に到達できる段階」……について、まだずっと先のことについて明らかに語っておられる……

……オリンピック選手に例えるなら、「神の御心はあなたが金メダルをとることだ」……と現時点では地区予選でも1着はほど遠い「イエスキリストの弟子選手」「神の民選手」「キリストの体選手」……に言っておられるようなものだ。

エスキリストは「最終到達地点」の影も片りんすらも全く見えていなかった時代に「最終到達地点」について語っておられる。現代のキリストの体にたいしても『今、』"あなたがたは先生と呼ばれてはいけません。"……とか……"われらの父と呼んではいけません"……とか……"師と呼ばれてはいけません"……とかを『今、』要求しておられるのではない。もし『今、』要求しておられるなら……「先生」と呼ばれ、呼ばせている『今の』5役者たちに油注ぎはなかっただろう……しかし、「先生」と呼ばれ、呼ばせている『今の』5役者の方々は神から豊かに油注がれ続けている。幼子たちが父、母を仰ぎ見るように、まだ幼いキリストの体が5役者たちを、「先生」「師」と呼び、仰ぎ見ることが必要不可欠な「段階」「時期」「時代」であったからだ。

キリストの体である息子たち、娘たちがまだ幼い時期は「父」「母」「息子」「娘」という「4つの石の板」が互いに内側を向き合い、互いに見つめ合い、互いを知り合い、互いに親密さを深め合うことが必要不可欠な「段階」「時期」「時代」だ。

世界は「4」という数字であらわすことができる。世界は2枚の石の板によって構成されている。

モーセが神から受け取った十戒の石の板は「2」枚。2枚の石の板には「表」と「裏」があり「4」つの面がある。……"モーセは向き直り、二枚のあかしの板を手にして山から降りた。板は両面から書いてあった。すなわち、表と裏に書いてあった。
板はそれ自体神の作であった。その字は神の字であって、その板に刻まれていた。"
出エジプト記 32章 15〜16節

モーセが神から受け取った十戒の石の板は「神のことば」だ。そして、世界は「神のことば」によって創造されている。

世界は「裏」と「表」の「両面」がある「2」枚の石の板によって構成されている。

世界は「東」「西」「南」「北」の「4つ」によって構成されている。

世界は「東西」という両面がある石の板と、「南北」という両面がある石の板で構成されている。

聖書は世界の隅は8つでもなく6つでもなく、5つでもなく、「4つ」「4隅」であると語っている。……"この後、私は見た。四人の御使いが地の四隅に立って、地の四方の風を堅く押さえ、地にも海にもどんな木にも、吹きつけないようにしていた。"
ヨハネの黙示録 7章 1節

世界の構成要素は「男」と「女」の「2つ」であり……「父」「母」「息子」「娘」の「4つ」によって構成されている。

「父」「母」という世代の反対面には「息子」「娘」という異なった世代がある。

「父」「息子」という性別の反対面には「母」「娘」という異なった性別がある。

人間の体は「前」「後」「右」「左」「上」「下」の「6つ」で構成されており、「右手」「左手」「右足」「左足」「胴体」「顔」の「6つ」で構成されている。だから、1人の人は「6」という数字であらわすことができる。

「東西南北」の「4」であらわせる世界の時間は「24時間」によって構成されている。人である「6」を東に1つ、西に1つ、南に1つ、北に1つ置くと、6×4=24時間となる。

24時間は12×2であり「12時間が2枚」によって構成されている。

世界が両面のある2枚の石の板で構成されているように、キリストの体も両面のある2枚の石の板によって構成されている。

キリストの体には「聖霊派」と「福音派」の両面がある。「プロテスタント」と「カトリック」の両面がある。「異邦人のエクレシア」と「ユダヤ人」の両面がある。

「異邦人のエクレシア」の中に「プロテスタント」と「カトリック」があり、「プロテスタント」の中に「聖霊派」と「福音派」があり、「聖霊派」の中に「ペンテコステ派」「カリスマ派」「使徒的預言的の回復派」等の教団・教派・グループがあり、「福音派」の中に「ルーテル派」「バプテスト派」「ホーリネス派」等の教団・教派・グループがある。

福音派の教団・教派・グループにも、聖霊派の教団・教派・グループにも、神から霊的リーダーに任命され油注がれている父たち母たちがいる。

それぞれの教団・教派・グループの父たち母たちが自分たちの教団・教派・グループに所属している「信徒」「息子」「娘」たちの前に立ちはだかり、自分たちの教団・教派・グループに所属している「信徒」「息子」「娘」たちが外界を見ることがないように視界をさえぎっている。

だから、それぞれの教団・教派・グループの「父たち」「母たち」「息子たち」「娘たち」は自分たちの裏側である「他の教団・教派・グループ」という石の板に神が書いておられる「文字」「ことば」を見ることができない。

しかし、まだ幼子である「息子たち」「娘たち」にとっては自分たちの父と母だけを仰ぎ見ることの方が必要だ。まだ幼子である「息子たち」「娘たち」にとっては自分たちの父と母によって外界が全く見えなくなるほどに視界を覆われていることが必要だ。まだ幼子である「息子娘」には「父母」を仰ぎ見る「時期」「段階」「時代」が必要だ。

……人は「主おひとりだけを仰ぎ見なければならない」……しかし、神はまだ幼子である息子や娘に「主ただおひとりだけを仰ぎ見なければならない」と要求されることはない。幼子にとっては父と母を仰ぎ見ることが必要であるからだ。神は全ての人間の幼子をそのようにデザインし設計し形造り創造しておられる。

全ての人間は幼子の時期には父や母よりも、はるかに背が低い。創造主は、全ての人間は幼子である時期には、父や母が幼子の前に立つと幼子の視界が覆われて外界を見ることができなくなって、父や母を仰ぎ見ることしかできなくなるように全ての人間をデザインし創造しておられる。創造主は、全ての人間は幼子である時期には父や母を仰ぎ見るように定めておられるからだ。

「息子娘」がまだ幼子である「時期」「段階」「時代」には、「父母」という石の板に書かれている文字を仰ぎ見ること、自分たちが所属している教団・教派・グループの父母からの「教え」が「息子娘」という石の板に書かれることが重要だ……

……キリストの体である教団・教派・グループはそのようにして、「5役者」「父母」という石の板と「信徒」「息子娘」という石の板が互いに向き合い、「父母」の教えが「息子娘」という石の板に書かれ、「父母」となった「息子娘」から次の世代の「息子娘」という石の板に書かれ、自分が所属している教団・教派・グループに「あるもの」を父母から継承し、相続し、次の世代に手渡され続けることによって、それぞれの教団・教派・グループは成長し続けた……

……そして、それぞれの教団・教派・グループの「信徒たち」「息子たち」「娘たち」が幼子ではなく御言葉の知識のたくわえと分別のある青年となった時、内側だけに向いていた「父」「母」「息子」「娘」という石の板は内側だけでなく外側にも向くことができるようになり、自分たちの裏側である他の教団・教派・グループとの「交流」「つながり」が回復される。

自分たちが所属している教団・教派・グループが神の王国の「全て」「行き止まり」ではないこと、自分たちが所属している教団・教派・グループの裏側である他の教団・教派・グループも「神のことば」が書かれた「石の板」「神の作品」であり、他の教団・教派・グループが自分たちが所属している教団・教派・グループが見ることができない裏側の文字を見せてくれること……他の教団・教派・グループとつながることによって、神の王国との新しい「つながり」「祝福」「油注ぎ」が、それぞれの教団・教派・グループから他の教団・教派・グループに流れるようになり、他の教団・教派・グループは他の教団・教派・グループによって祝福される。

"あなたを祝福する者をわたしは祝福し、"
創世記 12章 3節

……どのようにして教団・教派・グループが互いに祝福し合うことができるようになるのだろうか……?

……それぞれの教団・教派・グループの「父母息子娘」たちが自分たちこそが他の教団・教派・グループの「父と母」であると見なし、他の教団・教派・グループを自分たちが教えさとすべき「息子娘」と見なすのではなく、

それぞれの教団・教派・グループの「父母息子娘」たちが自分たちを「息子娘」とみなし、他の教団・教派・グループの「父母息子娘」たちを自分たちを教えさとしてくれる「父母」と見なし、それぞれの教団・教派・グループが互いにへりくだって「父母」を仰ぎ見て「父母」の「教え」を慕い求める「幼子」のように互いに自分を低くする時……

……それぞれの教団・教派・グループが、それぞれの教団・教派・グループの中におられる主を認め、それぞれの教団・教派・グループが、それぞれの教団・教派・グループの中におられる主を仰ぎ見て主の御前にひれ伏す時……

……壁となっていた全ての石の板がひれ伏して隔ての壁が平らにされる時……

シャロームの王の王国のシャロームがキリストの体である全ての教団・教派・グループに流れ満ち渡るようになる。

"そこで、イエスは小さい子どもを呼び寄せ、彼らの真ん中に立たせて、
言われた。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、入れません。
だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です。"
マタイの福音書 18章 2〜4節

"主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。
すべての谷はうずめられ、すべての山と丘とは低くされ、曲がった所はまっすぐになり、でこぼこ道は平らになる。
こうして、あらゆる人が、神の救いを見るようになる。』」"
ルカの福音書 3章 4〜6節

"キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、
ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、
また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。
それからキリストは来られて、遠くにいたあなたがたに平和を宣べ、近くにいた人たちにも平和を宣べられました。
私たちは、このキリストによって、両者ともに一つの御霊において、父のみもとに近づくことができるのです。"
エペソ人への手紙 2章 14〜18節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会