シャロームを所有する

私は預言の賜物の回復を願っている。しかし私は預言の賜物を否定する方々を心から尊敬し感謝している。私が預言の賜物を熱心に求めて聖書に従うためなら…私は預言の賜物を否定する方々を不満に思い…全て感謝せよと語る聖書に逆らってよいだろうか?預言を認める牧師先生だけ尊敬し…預言の賜物を否定する牧師先生含む5役者や教団教派の方々を尊敬せず…互いに尊敬しなさいと語る聖書に逆らってよいだろうか?自分が建てたい御言葉を建て上げるために他の御言葉を壊してできた砂の上に自分が建てたい御言葉を建て上げ…家を建ててよいのだろうか?

「キリスト教の教団教派グループは……カトリック→ルーテル派→バプテスト派→ホーリネス派→聖霊派…といった順序で、それぞれの教団教派グループに枝分かれしていった歴史を持っている。それは前の教団教派グループのタブーを次の新しい教団教派グループが破るということがくりかえされる歴史であったと言えるだろう。聖書がタブーとしていないもの、神がタブーとしていないものを人間が『人間の教え』によってタブーとして封じ続けることはできない」


キリスト教の教団教派グループは……カトリック→ルーテル(福音派)→バプテスト(福音派)→ホーリネス(福音派)→ペンテコステ(聖霊派)…といった順序で、それぞれの教団教派グループに枝分かれしていった。

キリスト教がローマの国教となっていたカトリックの時代に、「イエスを信じる信仰によってのみ救われる」という聖書の真理が神から啓示されてルーテル派はスタートした。

しかし、プロテスタントのグループにルーテル派しかまだ存在していなかった時代に、「イエスを信じる信仰によってのみ救われる」ことは確かにアーメンだが、「水のバプテスマも必要だ」という聖書の真理が神から啓示されてバプテスト派がスタートした。

私は大学の教授から、ルーテル派の牧師がバプテスト派の者に水のバプテスマを授けるかのように思わせておいて、バプテスト派の者を水の中で溺れ死にさせた出来事が歴史上にあることを授業で教わったことがある。

そのようなことが歴史上あったとされていることが大げさな作り話であったとしても、ルーテル派とバプテスト派の間がよほど不仲で互いの間にある溝がよほど深かった事実がなければ、大学の教授が授業で使用する教科書に歴史上にあった事実として記載されるようなことにはならないだろう。

ルーテル派の牧師が水のバプテスマを授けるふりをして、水の中で溺れ死にさせるほどに、プロテスタントのグループがルーテル派だけしかなかった時代において、バプテスト派の者たちは、異物のように思われ、神に逆らう異端と見られていたのだろう。

……何故だろうか?……

何故なら、バプテスト派はルーテル派が忌み嫌ってタブーとし続けていたタブーを破ったからだ。

……「イエスを信じる信仰によってのみ救われる」と強く確信し信じていたルーテル派にとって、「イエスを信じる信仰によってのみ救われる」ことは確かにアーメンだが、水のバプテスマも必要だ…と主張するバプテスト派は、「イエスを信じる信仰によってのみ救われる」ということを否定する異端であるかのように見られていたことだろう。

そして、バプテスト派が増え広がって繁栄していた時代に、「イエスを信じる信仰によってのみ救われる」ことは確かにアーメンだし、「水のバプテスマが必要である」ことも確かにアーメンだが、「聖い行いも必要だ」という聖書の真理が神から啓示されてホーリネス派がスタートした。

ルーテル派とバプテスト派の両者にとって「聖い行いも必要だ」と主張するホーリネス派は、「イエスを信じる信仰によってのみ救われる」ということを否定する異端であるかのように見られていて、タブーを破る者たちと見られていたことだろう。

そして、ホーリネス派が増え広がって繁栄していた時代に、「イエスを信じる信仰によってのみ救われる」ことは確かにアーメンだし、「水のバプテスマが必要である」ことも確かにアーメンだし、「聖い行いが必要である」ことも確かにアーメンだが、「聖霊バプテスマによって与えられる異言が必要だ」という聖書の真理が神から啓示されて聖霊派がスタートした。

これまでのキリスト教の歴史において、それまでの教団教派グループがタブーとしていたタブーを破る新しい教団教派グループがスタートすることによって、キリスト教の教団教派グループは枝分かれしていった。

新しい教団教派グループが破るタブーとは聖書がタブーとしているタブーではなくて、人間がタブーとすることをタブーとしている『人間の教え』だ。

以前の教団教派グループのタブーを破る新しい教団教派グループが神の御国の祝福を相続できているのは、破られているタブーが聖書のタブーではなくて、人間がつくったタブーであるからだ。

聖書がタブーとしていることを破るグループは神の御国の祝福を相続することはできない。

エスキリストはその時代の神の民がタブーとしていたタブーを破った。イエスキリストが破ったタブーは聖書がタブーとしていたことではなくて、人間がタブーとしていたタブーだ。

エスキリストが破ったのは、聖書に書いてある律法ではなくて、聖書に書かれていない口伝律法と言われているものであるといった説明を私は聴かせてもらったことがある。

そうであるなら、口伝律法とは、聖書に書いてある律法に人間が後から付け足しをした人間の教えだ。

ルーテル派は「イエスを信じる信仰によってのみ救われる」という聖書に書かれている真理を柱、土台として持っていたが、そこに、「だから水のバプテスマも良い行いも必要ない」という聖書に書かれてはいない『人間の教え』を付け足し、聖書がタブーとしていないタブーをタブーとして持つようになった。

そのように、ルーテル派は「イエスを信じる信仰によってのみ救われる」という真理を柱、土台として強く強調するために、「水のバプテスマなど必要ない」…と信じていた時代があって、「水のバプテスマも必要だ」と言うバプテスト派はタブーを破る異端であるかのように思われていた時代があったのだろう。

口伝律法の中には、聖書に10分の1を捧げるように指定されていないものの10分の1を捧げることが含まれているといった説明を私は聴かせてもらったことがある。

……聖書に書いてある10分の1を強調して聖書が指定していないものの10分の1を付け足した口伝律法も……

……聖書に書いてある「イエスキリストを信じる信仰によって救われる」という「信仰義認」を強調して、聖書に書いてある「水のバプテスマ」や「良い行い」を不要としたり、行いのない信仰は死んでいると書いてあるヤコブ書を他よりも劣ったものと見なすことも……

……聖書に書いてある一部分を尊び強調するために、聖書に書いてある一部分を認めないことも……

……聖書に書いてある一部分を尊び強調するために、聖書に書いていないことを人間が後で付け足したりしていることも……聖書には書かれていない『人間の教え』だ。

聖書は「水のバプテスマ」をタブーとしているだろうか?聖書は「水のバプテスマ」をタブーとしておらず、聖書は「水のバプテスマ」を廃止してはいない。

だから、「水のバプテスマ」は現代においても聖書に書かれている生きた真理であるという啓示が与えられて、バプテストのグループがスタートした。

ルーテル派は「水のバプテスマ」を回復させようとするバプテスト派のことを、神に逆らう異端と思い迫害して封じようとしたが、封じることはできなかった。

聖書がタブーとしていないことを人間がタブーとして封じることはできないからだ。

私は福音派の方々と接した機会はほとんどないが、

聖霊派の牧師先生がバプテスト派の牧師先生と一緒にいた時、バプテスト派の牧師先生から「先生は私がタバコをすったらつまずきますか?」と質問されて、「いいえ」と返答すると、「では失礼して」…と言ってタバコをすいはじめた…といった体験談を聴かせてもらったことがある。

……ルーテル派とバプテスト派は「イエスを信じる信仰によってのみ救われる」ので「良い行いをしようと努力する必要はない」とか「良い行いをしようと努力すべきではない」といったことを共通のタブーとしているのだろうか……

ルーテル派の牧師先生がバプテスト派の者を溺れ死にさせたようななんらかの迫害が、バプテスト派によってホーリネス派にたいしてなされたのかどうかについて見聞きしたことは今のところまだないが、

……もしも仮にそうであったとしても、聖書は「良い行い」をタブーとしているのだろうか?

聖書は「良い行い」をタブーとしておらず、聖書は「良い行い」を廃止してはいない。

現代においても「良い行い」は、聖書に書かれている生きた真理であるという啓示が与えられて、ホーリネスのグループがスタートした。

聖書がタブーとしていないことを人間がタブーとして封じることはできないからだ。

聖書がタブーとしていない「水のバプテスマ」も「良い行い」も「異言」もクリスチャンにとってタブーなものとか、クリスチャンにとって不要なものであるかのように人間が封じようとしても封じ続けることはできない。

……では何故、聖書が封じていないものが封じられ失われていた時代を神は「良し」としておられた時代があったのだろうか?

全能の神は、ルーテル派、バプテスト派、ホーリネス派、聖霊派がそれぞれ回復させた「信仰義認」「水のバプテスマ」「聖い行い」「異言」を短期間で全部同時に回復させる啓示を与えることもできたが、愛と知恵に満ちた全能の神はそうはなされなかった。

神は「信仰義認」「水のバプテスマ」「聖い行い」「異言」を長い時間と年数をかけて1つずつ順番に築き上げてくださった。

それは、小学校、中学校、高校、大学の勉強をいっぺんに教えることはしないのと同じようなことだ。

小学校の教えがなければ、中学校の教えは理解できない。中学校の教えがなければ、高校の教えは理解できない。高校の教えがなければ、大学の教えは理解できない。

中学校の教えは小学校の教えを土台としている。高校の教えは小学校と中学校の教えを土台としている。大学の教えは小学校と中学校と高校の教えを土台としている。中学校、高校、大学の教えを身につけるために必要不可欠な土台となるのは小学校の教えだ。

それと同じように、ルーテル派が回復した「信仰義認」は全ての教団教派グループにとって必要不可欠な土台だ。

ルーテル派はルーテル派の教理である「信仰義認」を認めることをルーテル派に所属している者たちに要求する。

バプテスト派はバプテスト派の教理である「水のバプテスマ」を認めることをバプテスト派に所属している者たちに要求する。

ホーリネス派はホーリネス派の教理を認めることをホーリネス派に所属している者たちに要求し、聖霊派聖霊派の教理を認めることを聖霊派に所属している者たちに要求する。

ルーテル派の教理である「信仰義認」はバプテスト派にとっても、ホーリネス派にとっても、聖霊派にとっても必要不可欠な土台となっている真理だ。

ルーテル派の教理である「信仰義認」とバプテスト派の教理である「水のバプテスマ」はホーリネス派にとっても、聖霊派にとっても必要不可欠な土台となっている真理だ。

ルーテル派の教理である「信仰義認」と、バプテスト派の教理である「水のバプテスマ」と、ホーリネス派の「聖い行い」は聖霊派にとっても必要不可欠な土台となっている真理だ。

私は質問しよう。小学校の教師と中学校の教師と高校の教師と大学の教師に優劣はあるのだろうか?

私は、小学校の教師と中学校の教師と高校の教師と大学の教師に優劣はないと信じている。だから、ルーテル派とバプテスト派とホーリネス派と聖霊派にも優劣はないと信じている。

しかし、大学教授の方がまさっている…と返答する人もいることだろう。

では、私はもう1つ質問しよう。小学校と中学校と高校と大学の中で不要なものはどれですか?

不要なものはない。もしかしたら、小学校と中学校と高校と大学であれば、あれこれ理由をつけて、これが不要だと言う人もいるかもしれないが、

カトリック、ルーテル派、バプテスト派、ホーリネス派、聖霊派は1つのキリスト体にとって全て必要不可欠なそれぞれ1つしかない臓器、それぞれ1つしかない器官であるから、不要な教団教派グループは1つも存在しない。

キリスト教の教団教派グループが……カトリック→ルーテル派→バプテスト派→ホーリネス派→聖霊派…といった順序で、それぞれの教団教派グループに枝分かれしていったキリスト教の教団教派グループの歴史は前の教団教派グループがタブーとしていたタブーが破られて新しい教団教派グループがスタートすることがくりかえされてきた歴史であったと言えるだろう。