シャロームを所有する

私は預言の賜物の回復を願っている。しかし私は預言の賜物を否定する方々を心から尊敬し感謝している。私が預言の賜物を熱心に求めて聖書に従うためなら…私は預言の賜物を否定する方々を不満に思い…全て感謝せよと語る聖書に逆らってよいだろうか?預言を認める牧師先生だけ尊敬し…預言の賜物を否定する牧師先生含む5役者や教団教派の方々を尊敬せず…互いに尊敬しなさいと語る聖書に逆らってよいだろうか?自分が建てたい御言葉を建て上げるために他の御言葉を壊してできた砂の上に自分が建てたい御言葉を建て上げ…家を建ててよいのだろうか?

「①成熟した幼子は神の全きシャロームの中で生きる①神はキリストの体において『神の国の平和』よりもまず『聖書的な教えをキリストの体全体に満たすこと』を優先させる必要があった…何故なら、そのような≪教えの時代≫がなければキリストの体は『神の国の平和』が実現する≪平和の時代≫に進むことができないからだ」

1️⃣
《分別を持たない無知な幼子》には【神の全き愛を恐れを締め出してしまうほどにまで深く知ることは許されていない】

《分別を持とうとしない放縦な幼子》には【神の全き愛を恐れを締め出してしまうほどにまで深く知ることは許されていない】

《分別を持っている成熟した大人》にさえも【神の全き愛を恐れを締め出してしまうほどにまで深く知ることは許されていない】

神の全き愛を恐れを締め出してしまうほどにまで深く深く知ることが許されているのは…分別を持ってはいるが…神の御前でへりくだり、まるで分別を持っていない無知な者であるかのように…自分の持っている分別によって誰もさばかない者、「この人のしているこのことは神の御心ではない」と心の中で決めつけてさばくことをしない者、分別の剣を棄てた《成熟した幼子》だけだ。

"そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現してくださいました。"(マタイの福音書 11章 25節)

《分別を持たない無知な幼子》とは…何が神に喜ばれ、何が神に喜ばれないことであるのかについての知識を持っていなくて無知であるために無分別な状態にあることだ…そして…そのような分別を持たない無知な幼子には恐れを締め出してしまうほどに神の全き愛を深く知ることが許されていないのは…そのような無分別な幼子が無分別に歩んでしまう危険から守られるためだ。

《分別を持とうとしない放縦な幼子》とは…何が神に喜ばれ、何が神に喜ばれないことであるのかについての知識は持っていて、無知ではないが、神に喜ばれない道から立ち返るために少しも努力しようとしない(ヨナ書 3章 10節)状態にあることだ…そして…そのような放縦な幼子には恐れを締め出してしまうほどに神の全き愛を深く知ることが許されていないのは…そのような放縦な幼子が放縦に歩んでしまう危険から守られるためだ。

《分別を持っている成熟した大人》とは…何が神に喜ばれ、何が神に喜ばれないことであるのかについての知識を持っていて、無知ではなく、神に喜ばれる選択をしようと全力を尽くし続けているクリスチャンのことだ…しかし…そのような分別のある成熟した大人のクリスチャンにさえも恐れを締め出してしまうほどに深く神の全き愛を知ることは許されていない…何故なら神の線引きはあまりにも明確であまりに聖いからだ。あのダビデですらも例外ではなかった。

神はあのダビデにさえも以下のように明確に告げられた。

"『あなたは多くの血を流し、大きな戦いをしてきた。あなたはわたしの名のために家を建ててはならない。あなたは、わたしの前に多くの血を地に流してきたからである。"(歴代誌第一 22章 8節)

…これは神の明確な線引きだ。神の線引きはあまりにも明確で…あまりにも聖い…このような神の線引きに静かに心を傾け思い巡らす時、私の心は震え…神にたいする感謝と喜びと賛美に満ちた恐れ…畏怖という名の礼拝で私の霊肉魂は静まり満たされる。

神が「あなたは多くの血を流し、大きな戦いをしてきた。あなたはわたしの名のために家を建ててはならない。あなたは、わたしの前に多くの血を地に流してきたからである。」とダビデに言われるのであれば…ダビデは剣を手に取ることを放棄していれば主の名のために家を建てることができたのだろうか?

そうではない…ダビデが地上で生きていた時代に…もしも…ダビデが剣を手に取っていなかったなら、ダビデが主の名のために家を建てることができなかっただけでなく、ダビデの子であるソロモンすらも主の名のために家を建てることはできなくなってしまっていたことだろう。

ダビデの時代にダビデが神の御名のために剣を手に取ったからこそ…ダビデ自身は主の名のために家を建てることは許されなかったが…神はダビデのゆえに、ダビデの子ソロモンに主の名のために家を建てさせてくださった。

主御自身が聖書の中で以下のように語り、ダビデについて証ししておられる。"それはダビデが主の目にかなうことを行い、ヘテ人ウリヤのことのほかは、一生の間、主が命じられたすべてのことにそむかなかったからである。"(列王記第一 15章 5節)

だから、ダビデがサタンの誘惑に負けたのはヘテ人ウリヤのこと…このことだけだと神は聖書の中で明確に告げ、証ししておられる。そして、イエスキリスト以降の新約聖書ではダビデがサタンの誘惑に負けて罪を犯したことについては一言も書かれてはいない。神はダビデの罪をすっかり忘れてくださっておられるからだ。

このように…ダビデはヘテ人ウリヤのことの他は神の御心から外れることなくまっすぐに進んだことを神御自身が聖書の中で証ししておられる。

しかし…神の導きから外れることなく、剣を手に取り神の御名のために敵と戦って神の油注ぎによって勝利し続け、神の導きの中をまっすぐに前進し続けたダビデの人生において以下のようなことがあった…

"ある時、私に次のような主のことばがあった。『あなたは多くの血を流し、大きな戦いをしてきた。あなたはわたしの名のために家を建ててはならない。あなたは、わたしの前に多くの血を地に流してきたからである"…なんという明確な線引きであろうか…神の御名は聖い…アーメン…御名が聖なるものとされますように…。あのモーセすらも神の線引きによりカナンの地には入ることができなかった。

このような聖い線引きをなさる神の御前にひれ伏し、「御名が聖なるものとされますように」と言って神を礼拝するためには偉大なへりくだりが必要だ。

ダビデは神のあまりにも明確であまりにも聖い線引きを目の当たりにしながら偉大なへりくだりと礼拝を神に捧げた。

多分、ダビデという人物はどんな人物ですか?と質問されて…「人殺し」と答えるクリスチャンはほとんどいないことだろう。

主もダビデを「人殺し」とは記憶してはおられない。…だが「人を殺した」刈り取りがダビデになかったわけではない。ダビデに刈り取りがあったように…ダビデのようにどんなに神の御心にかなった者であろうと刈り取りがあり、神からの線引きがある。

ダビデがそうであったように、多くの使徒預言者、伝道者、牧師、教師、霊的リーダーたちも、「聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げた者たち」と神に記憶されている。

しかし…「さばいてはならない」と聖書に書いてあることばに違反した事実の刈り取りは消えてなくなりはしない。それは神の線引き、神の聖さ、神の御名の聖さであるからだ。「さばいてはならない」と聖書に書いてあることばに違反した刈り取りとしてあることはどのようなことであろうか?「さばいてはならない」と聖書に書いてあることばに違反した刈り取りとして課せられるくびきとなる刑罰は…「恐れ」だ。

この「恐れ」から怒り、悲しみ、憎しみ、落胆、嘆き、不満といったような…荊やあざみが刺さるような痛みと苦味のある感情が心の畑に生じる。

どんなに神の御心にかなった者であろうとも「さばいてはならない」と聖書に書いてあることばに違反しているなら、肉体の命の続く限り「恐れ」から生じる怒りや悲しみや嘆きや落胆や不満といったような痛みと苦みを自分自身の心の畑から刈り取り続けることになる。

どんなに神の御心にかなった者であろうとも「さばいてはならない」と聖書に書いてあることばに違反しているなら…【エデンの園には入れない】=【いのちの木の実に触れることはできない】=【恐れを締め出してしまうほどに深く神の全き愛を知ることは許されていない】

2️⃣
しかし、これら全てはこれまでの時代において神が「良し」としておられたことであり、神の戦略、神の計画、神の知恵だ…。キリストの体全体が神の目から見て十分に成長するまでキリストの体全体が「恐れ」の奴隷、「恐れ」のくびきの下に捕らわれ縛られた捕囚である必要があった。

幼子が危険から守られるためには親からの「危険を避けるための知識についての教え」だけでなくて幼子に「恐れ」を植え付ける必要がある。幼子が危険から守られるためには幼子に「親からの教えに逆らうことは恐いことだ」という感覚を植え付ける必要がある。

それと同じようにキリストの体においても、牧師や霊的リーダーからの「教え」だけであれば、放縦な幼子は誰も聞く耳を持たない。「教え」だけでなく「恐れ」を植え付けることによって放縦な幼子を…「教え」を聞く耳のある幼子とならせ、「教え」を聞く耳のある幼子は、従順な幼子となり、「教え」と「恐れ」が従順な幼子をさらに成長させ成熟した分別のある大人とならせる。

「教え」だけではなくて「恐れ」を植え付けるためには教える側も「恐れ」を深く植え付けられた「恐れ」の捕らわれ人である必要がある。何故なら人のくちは心に満ちていることを話すからだ。「恐れ」を深く植え付けられ、恐れに縛られている者でなければ他者に「恐れ」を深く植え付けることはできない。

教える者の中に神にたいする愛があるだけではなくて、教える者たちの中に「恐れ」があるからこそ、教える者たちは「教えなければならない」と非常に力強く思うことができる…教える者たちが「教えなければならない…私が神から受けたこの聖書的な教えを知らない人がいるべきではない」と強く≪恐れている≫からこそキリストの体全体に「教え」は大いに広がっていく。

教える者の中に神にたいする愛があるだけで「私が神から受けたこの聖書的な教えを知らない人がいるべきではない」と強く≪恐れている≫のでなければ、キリストの体全体に「聖書的な教え」は今日見られるほどには広められてはいなかったことだろう。

このように教える者たちに「恐れ、不安、心配」があるからこそ教える者たちの「教え」はあらゆる障害を乗りこえ、時には逆らう相手をさばき、時には逆らう相手を徹底的に論破して相手の言い分をねじ伏せ黙らせながら非常に力強く広がっていく。

神の目から見て、キリストの体全体に「聖書的な教え」が十分に満ちていない時代…教えが優先されるべき≪教えの時代≫には…幼子が危険から守られるために親を絶対的な存在と思い込んでいる必要があるのと同じように…牧師、霊的リーダーは絶対的な存在であるとキリストの体全体に思い込ませておく必要があった。

しかし、その思い込みのおおいは幼子が成人した時に取り去られる。成人した子が等身大の親を見る時に、親を絶対的な存在と思い込ませていたおおいは取り去られる。

それと同じで、神の目から見て、キリストの体全体に聖書的な教えが満ちた時、牧師、霊的リーダーを絶対的な存在と思い込ませていたおおいは取り去られ、等身大の牧師、霊的リーダーをキリストの体が見るようになる。

等身大の…とは肉の目で牧師、霊的リーダーを見て、牧師、霊的リーダーも人にすぎない、肉にすぎないと見て軽んじることではない。肉の目では牧師、霊的リーダーが神にあって何者であるのかを見ることはできない。等身大の…とは「聖書に書かれてあるとおりの」とか「聖書が語っているとおりの」という意味だ。聖書に等身大の牧師、霊的リーダーの姿が書かれている。聖書に牧師、霊的リーダーが何者であるか、どれほど尊い存在であるか、いかに油注がれた存在であるかについて書かれている。

しかし、≪教えの時代≫には牧師、霊的リーダーは聖書が語っているよりもはるかに高く偉大で絶対的な存在と思い込ませるおおいが必要であった…しかし…神の目から見て、キリストの体全体に聖書的な教えが満ちた時、牧師、霊的リーダーのことを聖書が語っているよりもはるかに高く偉大で絶対的な存在と思い込ませていたおおいは取り去られ、聖書が語っているとおりの存在として…聖書が語っているとおりの高く偉大で尊い存在ではあるが信徒にとって絶対的な存在ではない…そのように聖書が語っているとおりの等身大の牧師、霊的リーダーを見ることができるようになる。

もう1度言っておこう…牧師、霊的リーダーを軽んじることではない。聖書が語っているとおりの高さよりもはるかに高く絶対的とされていた牧師、霊的リーダーを…聖書が語っているとおりの高く尊い存在として見ることができるようになるということが等身大の牧師、霊的リーダーを見ることができるようになるということだ。私たちは聖書のことばにつけ加えてはならないし、聖書のことばを減らしてはならない。たしかに牧師、霊的リーダーは偉大で尊い存在だが、聖書が語っている以上に偉大で絶対的な存在とすることは聖書のことばにつけ加えることと同じだ。聖書のことばにつけ加える者はその刈り取りをその身に受けることになる。反対に牧師、霊的リーダーを聖書が尊い存在として語っているのに低い存在として軽んじることは聖書のことばを減らすことと同じだ。聖書のことばを減らす者はその刈り取りをその身に受けることになる。

"私は、この書の預言のことばを聞くすべての者にあかしする。もし、これにつけ加える者があれば、神はこの書に書いてある災害をその人に加えられる。
また、この預言の書のことばを少しでも取り除く者があれば、神は、この書に書いてあるいのちの木と聖なる都から、その人の受ける分を取り除かれる。"(ヨハネの黙示録 22章 18〜19節)

神の目から見て、キリストの体全体に「聖書的な教え」が満ちた時、キリストの体は聖書に書かれているとおりの等身大の牧師、霊的リーダーを見るようになる…それによって≪教えの時代≫の次の時代≪平和の時代≫が開かれていることをキリストの体は知るようになる。

3️⃣
聖書がキリストの体に要求している「愛」と「平和」の基準はあまりに高く、あまりに遠く、まるで実現不可能な机上の空論のように思えたことが何度あったことだろうか…しかし…それは、聖書的な教えが優先されるべき≪教えの時代≫にはふさぎようのない破れ口だったからだ。もちろん、≪教えの時代≫でも神に拠り頼み努力しながら「愛」と「平和」をどうにか維持しようとすることはできる…しかし…簡単に維持できなくなって倒れてしまうことはそうめずらしいことではない…聖書的な教えが優先されるべき≪教えの時代≫にはふさぎようのなかった破れ口は≪教えの時代≫の次の時代である≪平和の時代≫に修復される。

神は「良し」としておられた。≪教えの時代≫には「さばき」の刈り取りとして生じてしまう「恐れ」の荊とあざみにキリストの体が縛られ、本来キリストの体に備わっている身体能力が失われてしまっているために、聖書がキリストの体に要求している「愛」と「平和」の基準には遠く及ばない状態になってしまっていることすらも神は「良し」としておられた。何故なら≪教えの時代≫にキリストの体に聖書的な教えを広げ強化した後で≪平和の時代≫を開くことができるからだ。

≪教えの時代≫の前に≪平和の時代の啓示≫を開くことはできない。≪教えの時代≫の前に≪平和の時代の啓示≫の1つである「等身大の牧師を見ること」が開かれてしまっていたら旧約聖書士師記の終わりに書かれているような≪放縦の時代≫が開かれてしまうからだ。だから、≪教えの時代≫の目的(=キリストの体全体に聖書的な教えが広がり強化されること)が満ちるまで≪平和の時代の啓示≫は奥義として隠されていなければならなかった。

だから≪教えの時代≫には「神の国の平和」よりも「聖書的な教え」を優先させ、「聖書的な教え」を強化させるためには…「聖書が語っているよりもはるかに高く牧師、霊的リーダーを絶対的な存在として過大に見させるおおいが信徒にも牧師にもかけられていること」と「さばき」と「恐れ」の荊とあざみはキリストの体全体にとって必要なものであった…。

そのようなわけで…神の目から見て、キリストの体全体に「聖書的な教え」が十分に満ちていない時代…平和よりも教えを優先させるべき時代であった≪教えの時代≫には神はキリストの体全体が「恐れ」に捕らわれた捕囚となっていることを「良し」としておられた。

…しかし、神の目から見て、キリストの体全体に「聖書的な教え」が十分に満ちた時…≪教えの時代≫の次の時代…≪平和の時代≫が開かれる。

≪教えの時代≫にキリストの体を縛りキリストの体に本来備わっていた身体能力を失わせていた「さばきの剣を取る者」の刈り取りとして課せられる「恐れの荊とあざみ」は≪平和の時代≫に断ち切られ、キリストの体に本来備わっていた身体能力が回復し…キリストの体は聖書がキリストの体に要求している「愛」と「平和」の基準を満たすことができるようになる。何故なら神はキリストの体にできないことを要求なさるようなお方ではないからだ。

キリストの体が≪教えの時代≫にはまだ相続できていなかったこと、実現させることができていなかった神の約束を≪平和の時代≫に相続し、実現させることができる。≪教えの時代≫の成熟した大人たちが≪教えの時代≫の目的を果たしてくれたからこそ…相続することができる。ダビデダビデの時代における神の目的を果たしたのでソロモンがダビデが果たすことができなかった神の目的をダビデのゆえに果たすことができたのと同じだ。ダビデが神の御心を成し遂げゴールしたからこそ、ソロモンはその先に進むことができた。≪教えの時代≫にも聖書に書かれている多くの約束が実現した…しかし…まだ実現していない約束、まだキリストの体が相続していない約束が残されている…成熟した大人たちが≪教えの時代≫の目的を果たしてくれたからこそ、キリストの体は≪平和の時代≫に入り、≪教えの時代≫にはまだ未相続のまま残されていた聖書の約束を相続することができる。≪教えの時代≫にあった以前の栄光にまさる、さらにすぐれた栄光…さらにすぐれた大いなる神の約束と祝福と神の御国と神の臨在と神の御国の富みと豊かさを…相続し…この地に来たらせることができる…神の恵みのゆえに…ダビデのように神の御心と神の目的に仕え続けてくれた成熟した大人たちとその子らのゆえに…。ハレルヤ

"王(ダビデ)が自分の家に住み、主が周囲のすべての敵から守って、彼(ダビデ)に安息を与えられたとき、
王(ダビデ)は預言者ナタンに言った。「ご覧ください。この私が杉材の家に住んでいるのに、神の箱は天幕の中にとどまっています。」
サムエル記第二 7章 1〜2節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会

"ある時、私に次のような主のことばがあった。『あなたは多くの血を流し、大きな戦いをしてきた。あなたはわたしの名のために家を建ててはならない。あなたは、わたしの前に多くの血を地に流してきたからである。
見よ。あなたにひとりの子が生まれる。彼は穏やかな人になり、わたしは、彼に安息を与えて、回りのすべての敵に煩わされないようにする。彼の名がソロモンと呼ばれるのはそのためである。彼の世に、わたしはイスラエルに平和と平穏を与えよう。"
歴代誌第一 22章 8〜9節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会

"愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。"
ヨハネの手紙第一 4章 18節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会

"そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現してくださいました。"
マタイの福音書 11章 25節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会