シャロームを所有する

私は預言の賜物の回復を願っている。しかし私は預言の賜物を否定する方々を心から尊敬し感謝している。私が預言の賜物を熱心に求めて聖書に従うためなら…私は預言の賜物を否定する方々を不満に思い…全て感謝せよと語る聖書に逆らってよいだろうか?預言を認める牧師先生だけ尊敬し…預言の賜物を否定する牧師先生含む5役者や教団教派の方々を尊敬せず…互いに尊敬しなさいと語る聖書に逆らってよいだろうか?自分が建てたい御言葉を建て上げるために他の御言葉を壊してできた砂の上に自分が建てたい御言葉を建て上げ…家を建ててよいのだろうか?

1ー⑪「イエスキリストのことばは、『律法に違反することを恐れさせるために律法の違反者に石が投げられていた時代』を過ぎ去らせただけでなく、『聖書の御言葉に違反する者に怒りや叱責という目に見えない石を投げることが聖書公認であるかのように信じられていて、聖書の御言葉に違反する者に怒りや叱責という目に見えない石を投げている時代』も過ぎ去らせる」



(前回のブログの内容)
『神の目』『神のルール』で見るなら……誰かに怒っていることは、誰かに目に見えない石を投げつけることであり……誰かに怒りを発することによって『目に見えない石』を投げつける者に、刈り取りとして与えられるものは『怒りの感情』という霊肉魂を破壊する『目に見えない毒』であることについて前回のブログの1ー⑩で書かせていただいた

"昔の人々に『殺すな。殺す者は裁判を受けねばならない』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。 しかし、わたしはあなたがたに言う。兄弟に対して怒る者は、だれでも裁判を受けねばならない。"
マタイによる福音書 5:21‭-‬22 口語訳

旧約聖書の時代においては……神が選んだ指導者や父母は律法に違反した者に律法によって石を投げていたことについて聖書に以下のように書いてある。

"かたくなで、逆らう子がおり、父の言うことも、母の言うことも聞かず、父母に懲らしめられても、父母に従わないときは、
その父と母は、彼を捕らえ、町の門にいる町の長老たちのところへその子を連れて行き、
町の長老たちに、「私たちのこの息子は、かたくなで、逆らいます。私たちの言うことを聞きません。放蕩して、大酒飲みです」と言いなさい。
町の人はみな、彼を石で打ちなさい。彼は死ななければならない。あなたがたのうちから悪を除き去りなさい。イスラエルがみな、聞いて恐れるために。"
申命記 21章 18〜21節

↑このように旧約聖書の時代においては……神が選んだ指導者や父母や神の民は、律法に違反した者に律法によって石を投げていた……だが、イエスキリストが人となって地上に来られて「石を投げる時代」を過ぎ去らせた。

……旧約聖書の時代には神が選んだ指導者や父母が『律法』に違反した者に、『目に見える石』を投げていたが……

……現代においては、神が選んだ指導者や父母が【聖書の御言葉】に違反した者に怒りや叱責という【目に見えない石】を投げている……

↑このことを1つ1つ見るなら……

①……旧約聖書の時代には『目に見える石』が投げられていて、→ 現代は心の中で怒りや叱責という【目には見えない石】が投げられている。

②……旧約聖書の時代に、目に見える石を投げられていたのは『律法に違反した者』であり、→現代は【聖書の御言葉に違反した者】に、怒りや叱責という目には見えない石が投げられている。

③……旧約聖書の時代に、律法に違反した者に目に見える石を投げていたのは『神に選ばれた指導者や父母』であり、→現代は【神に選ばれた指導者(5役者=使徒預言者、伝道者、牧師、教師)や父母】が怒りや叱責という目に見えない石を、聖書の御言葉に違反している者に投げている。

……↑このように「現代の異邦人のエクレシア」には……「旧約聖書の律法時代の神の民」との数々の共通点がある。

……しかし、コロナによって教会の建物で共に集まることができなくなった頃から……「異邦人のエクレシア」において「旧約聖書のような律法型」の「ルール」「文化」「伝統」「マニュアル」が徐々に崩れはじめている。

旧約聖書の時代においては……神が選んだ指導者や父母や神の民は、律法に違反した者に律法によって石を投げていた……だが、イエスキリストが人となって地上に来られて「石を投げる時代」を過ぎ去らせた。……イエスキリストは「石を投げる時代」から次の時代に移したのであって、イエスキリストは「石を投げる時代」を不要で無用だったものとして否定していない……

……イエスキリストは石を投げようとしていた神の民に、「石を投げるな」とか「石を投げてはいけない」とか「殺してはならない」とか「さばいてはならない」とか言ったのではなくて……「"あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい"」……と言われた。

……しかも、イエスキリストは「罪のない者だけが石を投げなさい」ではなく、「罪のない者が最初に石を投げなさい」……と言われた。「罪のない者が最初に石を投げなさい」……ということは……「罪のない者が1人だけいれば、罪のある者も全員が次々に石を投げることができる」……ということだ。……だからそこにいた「罪のある」若者が自分より年長の人を期待を込めたまなざしで見……若者から期待のこもったまなざしで見られている者も、若者からの期待のこもったまなざしから目をそらしつつ、自分よりも年長者の人を期待を込めたまなざしで見……若者から、より年長者の者へと期待のまなざしが火事場のバケツリレーの水の入ったバケツのように運ばれ、期待の入ったまなざしが最も年長の者まで到着した時……最も年長の者は最初に石を投げたのではなくて、最初にその場を去った……


"けれども、彼らが問い続けてやめなかったので、イエスは身を起こして言われた。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」"
ヨハネ福音書 8章 7節
"彼らはそれを聞くと、年長者たちから始めて、ひとりひとり出て行き、イエスがひとり残された。"
ヨハネ福音書 8章 9節

エスキリストは「石を投げる時代」を過ぎ去らせて、「石を投げる時代」から次の時代に移した。しかし、「石を投げる時代」も、どうしても必要な期間だった。

「石を投げる時代」の目的は神の民に律法を違反してしまうことを非常に恐れさせることによって、律法を非常に尊ぶ神の民とならせることだ。

出エジプトした神の民が「石を投げる時代」=「旧約聖書の律法時代」という長い年月によって、律法を違反してしまうことを非常に恐れるようになり、律法を非常に尊ぶ神の民となった時に……「律法という養育係の下に閉じ込められている神の民をイエスキリストの救いの恵みに移す」という神の次の目的のために、イエスキリストは天から来てくださった。

"しかし聖書は、逆に、すべての人を罪の下に閉じ込めました。それは約束が、イエス・キリストに対する信仰によって、信じる人々に与えられるためです。
信仰が現れる以前には、私たちは律法の監督の下に置かれ、閉じ込められていましたが、それは、やがて示される信仰が得られるためでした。
こうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。私たちが信仰によって義と認められるためなのです。
しかし、信仰が現れた以上、私たちはもはや養育係の下にはいません。"
ガラテヤ人への手紙 3章 22〜25節

"町の人はみな、彼を石で打ちなさい。彼は死ななければならない。あなたがたのうちから悪を除き去りなさい。イスラエルがみな、聞いて恐れるために。"
申命記 21章 21節

出エジプトして神の民となったが、まだ生まれて間もない幼子のように律法に違反して偶像礼拝をくりかえす神の民にとって、『律法に違反したら石を投げられる』という「服」「家」「養育係」「監督」「保護者」によって厳しく教育され続けることによって整えられて、決して偶像礼拝をすることなく、律法を非常に尊ぶ神の民となるためには……『出エジプトしてから新約聖書の時代が来るまでという非常に長い年月と歴史』がどうしても必要であったように……

……異邦人のエクレシアも……神の御言葉を非常に尊ぶ神の民として整えられるためには『新約聖書の時代から現代までという非常に長い年月と歴史』がどうしても必要であった。

……『石を投げられる旧約聖書のような律法型』の「服」「家」「養育係」「監督」「保護者」は「異邦人のエクレシア」が生まれた新約聖書の時代から現代まで「まだ生まれて間もない幼子」のようだった「異邦人のエクレシア」にとって必要不可欠な期間であった。

……しかし、出エジプトした神の民が非常に長い期間によって、『律法に違反したら石を投げられる』という「服」「家」「養育係」「監督」「保護者」によって厳しく教育されて、律法を非常に尊ぶ民として整えられた時、イエスキリストが天から来られる新約時代の時が来て『閉じ込められていた律法の下』から『イエスキリストの恵み』へと移されたように……

……新約聖書の時代に生まれて間もなかった異邦人のエクレシアも、非常に長い期間、『石を投げられる旧約聖書のような律法型』の「服」「家」「養育係」「監督」「保護者」によって厳しく教育され続けることによって、聖書の御言葉を尊ぶ民として整えられ成長し続けているので、『石を投げられる旧約聖書のような律法型』の「服」は「現代の異邦人のエクレシア」には古く小さく狭く窮屈になってきている。

……出エジプトした神の民の血筋である12弟子等は『律法』から、イエスキリストの『救いの恵み』に移された……では……すでにイエスキリストの「救いの恵み」を所有している異邦人のエクレシアはどこからどこへ移動するのだろうか?

……すでに救い主イエスキリストの「救いの恵み」を所有していて、いのちの書に名が書かれていて、救いの所有者となっている異邦人のエクレシアがまだ所有できていない次の約束の地はどこだろうか?

すでに救い主イエスキリストの「救いの恵み」を所有している異邦人のエクレシアのために聖書によって約束され、用意されている約束の地はイエスキリストの『シャローム(平和)の恵み』が満ちている時代だ。

現代のキリストの体は
エスキリストの「救いの恵み」は所有しているが、イエスキリストの「シャローム(平和)の恵み」は所有できていないために、分裂したままになっている。イエスキリストが与えてくださったイエスキリストの「救いの恵み」の中にイエスキリストの「シャローム(平和)の恵み」も一緒に入っていて、すでに与えられているのだが、イエスキリストの「シャローム(平和)の恵み」をすでに与えられていることの理解が薄く悟り知ることがまだできていないので、信じることもできておらず、信じることができていないので、イエスキリストの「シャローム(平和)の恵み」の約束の実現の中を歩み生きるシャロームの所有者となることもできていない……

……しかし、キリストの体がまだ、イエスキリストの「シャローム(平和)の恵み」の所有者となれていないのは、イエスキリストの「シャローム(平和)の恵み」をキリストの体が所有できないように神が隠しておられたからだ。

……神は旧約聖書の中にもイエスキリストを啓示しておられたが……イエスキリストがまだ天から来ておられなかった旧約聖書の時代には、まだ誰も解き明かせない暗号や謎のままになっていた。

……神が旧約聖書の時代においては「イエスキリストの救いの恵み」を新約聖書の時代のようには、はっきりとは啓示せずに謎のまま隠しておられたように……「イエスキリストのシャローム(平和)の恵み」は、キリストの体に、はっきりとは啓示せずに隠されていた。……隠されている期間がどうしても必要であったからだ。

【旧約時代】……『律法を徹底的に教え込み服従させるため』には、律法に違反して「石」を投げられることを非常に恐れさせる必要があった。律法に違反したら「石」を投げられることを非常に恐れて律法に違反しないようにしていた神の民が、「石」を投げられるからではなくて、律法を非常に尊んでいるので律法に違反しない神の民となっていた時代にイエスキリストは天から来てくださった。

……イエスキリストが天から来られて以降は誰も「石」を投げることはできなくなる。

……律法に違反する者に「石」が投げられないなら、神の民は律法に違反して「石」を投げられることを恐れないので、律法を守ろうとはしない。だから、旧約聖書の時代の目的と新約聖書の時代の目的を同時に完了させることはできない。

旧約聖書の時代の目的は律法に違反することを非常に恐れさせ、律法を尊ぶ民とならせることであり、律法の違反者に「石」が投げられる等の「恐れ」を生じさせるために「石」が必要だった。

新約聖書の時代の目的はイエスキリストの救いの恵みが必要であることを認めさせることだ。イエスキリストの救いの恵みが必要であることを悟って知った者に石を投げさせることはできない。石を投げると自分も誰かから石を投げられる罪人であることを悟り知っているからだ。

【現代】……聖書に書かれている御言葉を徹底的に教え込み服従させるためには、聖書の御言葉に違反してしまって「怒りや叱責という目に見えない石」を5役者や父母から投げられることを非常に恐れさせる必要があった。聖書の御言葉に違反して「怒りや叱責という目に見えない石」を5役者や父母から投げられることを非常に恐れさせるためには……
5役者や父母が「怒りや叱責という目に見えない石」を聖書の御言葉に違反している者に投げることは「聖書の御言葉に違反していない」……と錯覚させ、「神の御心を行っている」と確信させておく必要があった。

……神は旧約聖書モーセの時代にイエスキリストを送って、モーセや神の民に「全く罪のない者だけが石を投げなさい」……とイエスキリストに言わせなかった。神は旧約聖書ヨシュアダビデの時代にイエスキリストを送って、ヨシュアダビデに「剣を取る者は剣で滅びる」……とイエスキリストに言わせなかった。

……旧約聖書の時代に「石」と「剣」の使用を禁止してしまうと……神の民が律法に違反することを恐れなくなってしまうからだ。

……だから……神の民が律法に違反することを非常に恐れる民としてまだ整えられていなかった「生まれて間もない幼子」のようだった出エジプトから新約聖書の時代までの非常に長い期間、神は神の民に「石」と「剣」の使用を許可しておられた。

十戒に違反した神の民に神は律法を与えた。十戒は律法に違反した者に石を投げて殺すことを許可していない。律法に違反した者に石を投げて殺すことを許可しているのは、十戒ではなくて、十戒に違反した神の民に神が与えた律法だ。

神の民が律法に違反することを非常に恐れる民としてまだ整えられていなかった「生まれて間もない幼子」のようだった出エジプトから新約聖書の時代までの非常に長い期間、神は神の民の指導者や父母に「石」の使用を許可しておられたように……現代の異邦人のエクレシアも……聖書の御言葉に違反することを非常に恐れ、聖書の御言葉を非常に尊ぶ神の民としてまだ整えられていなかった「生まれて間もない幼子」のようだった新約聖書の時代から現代までの非常に長い期間、神は神の民の指導者や父母に「怒りや叱責という目に見えない石」の使用をまるで聖書が公認しているかのように錯覚させておられた。

……神の民の指導者や父母が「心の中で誰かに怒りを発するという目に見えない石」を投げることすら聖書は許可していないことを深く悟ってしまえば、神の民の指導者や父母は「叱責という目に見えない鞭」と「怒りという目に見えない石」を
「神の御心」と確信しながら使用することができなくなってしまう。

……社会がそうであるように、キリストの体においても、父母の叱責や鞭や制限を無視する自由が与えられた息子、娘の自己責任は非常に大きく増大する。

キリストの体において、父母の枠の外に出る自由を得た傲慢な息子、娘は父母の守りを自ら捨てて失い、傲慢の実を刈り取り続け、霊肉魂の滅びすらも刈り取ることになるが……

……父母の枠の外に出る自由を得たへりくだった息子、娘は主によって高く上げられて、父母の枠の内でも父母の枠の外でも祝福され繁栄する。

父母の枠、制限、鞭、叱責は傲慢な息子、娘にとって「守り」「あわれみ」「悔い改めの機会」であり、

父母の枠、制限、鞭、叱責はへりくだった息子、娘にとって「祝福」「成長の機会」となる。

父母の枠、制限、鞭、叱責から自由にされることは傲慢な息子、娘にとって「守り」「あわれみ」「悔い改めの機会」の大幅な減少であり、

父母の枠、制限、鞭、叱責から自由にされることはへりくだった息子、娘にとって「成長と繁栄の機会の増加」となる。

聖書の御言葉についての新しい解き明かしのレイマがキリストの体の上に太陽のように上げられ、キリストの体を照らすようになる時、父母の枠、制限、鞭、叱責から自由にされる選択権が傲慢な息子、娘にも、へりくだった息子、娘にも与えられるようになる。

……父母にも指導者にも使徒預言者、伝道者、牧師、教師にも、誰にも怒りという目に見えない石を投げることを聖書が許可していないことについて聖書に明確にはっきりと書かれていることが解き明かされる時……今まで以上に自由に選択する選択権が増し加えられ、「へりくだった者」は今まで以上に高く上げられ、「高ぶった者」は今まで以上に低くされる。

……新しい時代の扉はもうすでに開かれている……

……現代の異邦人のエクレシア」の中で現在も頻繁に見られる場面について旧約聖書に以下のようなことばがある。旧約聖書の律法時代と現代との違いは「目に見える石」か「目に見えない怒りや叱責という石」であるかの違いがあるだけだ……

"かたくなで、逆らう子がおり、父の言うことも、母の言うことも聞かず、父母に懲らしめられても、父母に従わないときは、
その父と母は、彼を捕らえ、町の門にいる町の長老たちのところへその子を連れて行き、
町の長老たちに、「私たちのこの息子は、かたくなで、逆らいます。私たちの言うことを聞きません。放蕩して、大酒飲みです」と言いなさい。
町の人はみな、彼を石で打ちなさい。彼は死ななければならない。あなたがたのうちから悪を除き去りなさい。イスラエルがみな、聞いて恐れるために。"
申命記 21章 18〜21節

……「目に見える石」を投げることを聖書が禁じているだけでなく……「怒りや叱責という目に見えない石」を投げることも聖書が禁じていることを深く悟り知る時代……「イエスキリストのシャローム(平和)の恵み」がキリストの体に流れ満ちるようになる時代の扉はすでに開かれている……

"しかし聖書は、逆に、すべての人を罪の下に閉じ込めました。それは約束が、イエス・キリストに対する信仰によって、信じる人々に与えられるためです。
信仰が現れる以前には、私たちは律法の監督の下に置かれ、閉じ込められていましたが、それは、やがて示される信仰が得られるためでした。
こうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。私たちが信仰によって義と認められるためなのです。
しかし、信仰が現れた以上、私たちはもはや養育係の下にはいません。
あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです。
バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです。"
ガラテヤ人への手紙 3章 22〜27節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会