シャロームを所有する

私は預言の賜物の回復を願っている。しかし私は預言の賜物を否定する方々を心から尊敬し感謝している。私が預言の賜物を熱心に求めて聖書に従うためなら…私は預言の賜物を否定する方々を不満に思い…全て感謝せよと語る聖書に逆らってよいだろうか?預言を認める牧師先生だけ尊敬し…預言の賜物を否定する牧師先生含む5役者や教団教派の方々を尊敬せず…互いに尊敬しなさいと語る聖書に逆らってよいだろうか?自分が建てたい御言葉を建て上げるために他の御言葉を壊してできた砂の上に自分が建てたい御言葉を建て上げ…家を建ててよいのだろうか?

1ー⑩「『神の目』『神のルール』で見るなら……誰かに怒っていることは……誰かに石を投げつけること、誰かに矢を射掛けること、誰かを剣で突き刺すことと同じようなことと判定される……"昔の人々に『殺すな。殺す者は裁判を受けねばならない』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。 しかし、わたしはあなたがたに言う。兄弟に対して怒る者は、だれでも裁判を受けねばならない"」


(前回のブログの内容)
新約聖書の時代に……イエスキリストが神の民に「"情欲をいだいて女を見る者"」は「心の中で姦淫を犯す者」であり……十戒の「"姦淫してはならない"」に違反していると告げただけでなく、「"兄弟に対して怒る者"」は 十戒の「"殺してはならない"」に違反していることと同じようなことであると告げておられることについて、前回の1ー⑨のブログで書かせていただいた。

……聖書に以下のように書いてある……

"昔の人々に『殺すな。殺す者は裁判を受けねばならない』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。 しかし、わたしはあなたがたに言う。兄弟に対して怒る者は、だれでも裁判を受けねばならない。"
マタイによる福音書 5:21‭-‬22 口語訳

エスキリストが「心の中で姦淫すること」は十戒の「"姦淫してはならない"」……に違反していることと同じであると語っておられるのはわかるが……何故、「誰かに怒る者」は十戒の「"殺してはならない"」に違反していることと同じことになるなどということがあろうか……とか……「人に向かって怒ること」が「人を殺すこと」と神の目には同じようなことであるだなんてどうしてそのようなことがあろうか……と思うだろうか……?

……姦淫していなくても情欲をいだいて女(男)を見て心の中で姦淫しているなら、「神の目」「神のルール」には「"姦淫してはならない"」ということばを守れていない判定が下されるのと同じであるように……「神の目」「神のルール」によって見るなら「誰かに対して怒ること」は「心の中で誰かを殺していること」と同じようなことであるからだ。

……神の目には「心の中で姦淫していること」は「肉体によって姦淫していること」と同じようなことであると判定されることに「納得できない方々」「同意できない方々」にとっては、神の目には心の中で誰かにたいして怒ることはその誰かを殺すことと同じようなことであると判定されるなどということは当然、「納得できず」「同意できず」理解もできず、不思議なことに思えることは自然なことだ。

……しかし……神の目には心の中で姦淫することは肉体によって姦淫していることと同じようなことであると判定されることに「納得できる」「同意できる」のであれば……神の目には心の中で怒ることは人を殺すことと同じようなことであると判定されることは何も不思議なことではない。

「どうしてそのようなことがあろうか。心の中で殺していることを想像したり、心の中で殺したいと思っているわけでもなく、心の中で誰かにたいして怒っているだけで、十戒の "殺してはならない" に違反しているかのように判定されるなどということがあるだろうか」……と思うだろうか……?

……「肉体の姦淫」と「心の姦淫」は神の目には同じようなことであると語られている御言葉に同意できている方々にとっては……理解することはさほど難しいことではない……

……イエスキリストは「心の中で姦淫していることを想像する者」「姦淫したいと思う者」は「心の中で姦淫を犯したのです」……とは言っておられない。

「情欲をいだいて女(男)を見る者」は「心の中で姦淫を犯したのです」……とイエスキリストは語っておられる。イエスキリストは「心の中で姦淫していることを想像していなければ」……「姦淫したいと思っていなければ」……「心の中で姦淫したことにはならない」……とは言っておられない。「姦淫」の第一歩目となる「心の中で情欲をいだいて女(男)を見る」に足を一歩でも踏み入れた時点で……「心の中で姦淫を犯したのです」……と判定される。……では部屋から出ないようにすればいいのではないか……と思いつく方々がわずかにおられるかもしれないが……「見る」……とは肉体の目で見ることだけでなく、「想像すること」「イメージして見ること」も含まれている。

「姦淫」の第一歩目が「心の中で情欲をいだいて女(男)を見ること」……であるなら、「殺人」の第一歩目は……?……「殺人」の第一歩目は……「心の中で誰かにたいして怒ること」だ。

……人の目に見えるようなことは何もしていなくても、「情欲をいだいて女(男)を見ていて、心の中で姦淫していること」について神は知っておられるように……

……人の目に見えるようなことは何もしていなくても、心の中で「いつ」「誰に」たいして『怒りという目に見えない石を投げた』のか…………………

…………………神は全て知っておられる。

……『誰かに対して怒ること』は……誰にも見えない心の中で誰の目にも見えない「怒り」……目に見えない「苦いことば」目に見えない「のろい」目に見えない「石」を投げつけ、目に見えない「弓」を射掛け、目に見えない「剣」で突き刺していることと同じようなことであるから、そのような『苦々しい種を蒔いたこと』の「刈り取り」を神は必ず『苦々しい種蒔き』をした本人の頭の上にことごとく帰す。

……「苦いことば」は「剣」のようであり「矢」のようであることについて聖書に以下のように書いてある……"彼らは、その舌を剣のように、とぎすまし、苦いことばの矢を放っています。全き人に向けて、隠れた所から射掛け、不意に射て恐れません。彼らは悪事に凝っています。語り合ってひそかにわなをかけ、「だれに、見破ることができよう」と言っています。"……この箇所に書いてある「隠れた所から苦いことばの矢を射掛ける」……とはどういうことだろうか……?

……ことばは相手と顔と顔を合わせて語らなければ相手の耳にはとどかず聞こえることはない。新約のイエスキリストの時代でさえ、マイクやスピーカーはなかったのだから、旧約聖書の時代にもマイクやスピーカーは当然存在していなかった。だから、よほどの大声を出さなければ離れている相手の耳にはとどかない。……だったら「隠れた所から苦いことばの矢を射掛ける」とは……どこか物かげに隠れながらよほどの大声を出して相手の悪口を言うことだろうか……?

……どこか物かげに隠れながらよほどの大声で相手の悪口を言っておいて「"だれに、見破ることができよう"」などと自信満々に言っている者がいるとすれば……周囲にいる人々は非常にほほえましく思うことだろう。どこか物かげに隠れながら大声で相手の悪口を言えば、その大声が自分の隠れている場所がどこであるのかを相手に知らせることになるからだ……

……では「隠れた所から苦いことばの矢を射掛ける」とはどういうことであろうか?……「隠れた所から苦いことばの矢を射掛ける」とは……自分以外の誰にも聞こえない心の中で誰かについて苦いことばを語ることだ。

"彼らは、その舌を剣のように、とぎすまし、苦いことばの矢を放っています。
全き人に向けて、隠れた所から射掛け、不意に射て恐れません。
彼らは悪事に凝っています。語り合ってひそかにわなをかけ、「だれに、見破ることができよう」と言っています。"
詩篇 64篇 3〜5節

自分以外の誰にも聞こえない心の中で誰かについて苦いことばを語っても、相手には決して聞こえはしないのだから、相手にばれてしまうといったことを「恐れず」「気にせず」「心配せず」「全くのノーリスク」で、自分が怒っている相手にも、その他の誰にもばれずに自分が怒りを感じている者たちに、『目に見えない怒りという石』を投げつけ放題、目に見えない矢を射掛け放題、目に見えない剣で突き刺し放題……であるかのように……「"だれに、見破ることができよう"」……と心の中で言っていても……神は全て見破り、神は全て知っておられ、誰かに心の中で投げた目に見えない「石」「矢」「剣」の「刈り取り」を……目に見えない「石」を投げ、目に見えない「矢」を射掛け目に見えない「剣」で突き刺した者の頭の上に1つ残らず帰す。……"ひそかにわなをかけ、「だれに、見破ることができよう」"……と言う者たちは自分自身に罠をしかけてしまっている者たちだ。

……"悪人はそむきの罪を犯して自分のわなをかける。"
箴言 29章 6節

……誰かに怒りを感じて怒っている者が幼子であろうと、使徒預言者、伝道者、牧師、教師であろうと、誰であろうと……怒る者に神が必ず与える「刈り取り」を下されることなく免除されるようなことはない。幼子であろうと、聖人であろうと「怒る者に下される刈り取り」を免除されることはない。

神は、誰かに対して怒る者が誰かに投げた目に見えない「石」「矢」「剣」を誰かに対して怒っている者の頭の上にことごとく帰す。心の中で「悪口」を全く言っていなくても…………心の中で誰かにたいしてほんの少し怒っているだけであっても……「神の目」「神のルール」で見るなら「目に見えない殺人」と同じようなことであると判定される……何故なら……イエスキリストは……「悪口を言う者は」……と言ったのではなく……「激しく怒る者は」……と言ったのでもなく……「"兄弟に対して怒る者は"」……と語っておられるからだ。……"昔の人々に『殺すな。殺す者は裁判を受けねばならない』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。 しかし、わたしはあなたがたに言う。兄弟に対して怒る者は、だれでも裁判を受けねばならない。"
マタイによる福音書 5:21‭-‬22 口語訳



誰かに対して怒る者に神から与えられる「罰」「刈り取り」とは何であろうか?……「怒りを感じること」「怒りの感情」「苦い感情」……それ自体が……誰かに対して怒る者に神からすでに与えられている「刈り取り」「こらしめ」「鞭」「矯正」「守り」だ。

……怒っている者は誰であろうと、神からの「刈り取り」「こらしめ」「鞭」「矯正」として「怒りの感情」「苦い感情」を強制的に与えられている。

……「怒りを感じること」「怒りの感情」「苦い感情」は人間の霊も肉も魂も破壊する目に見えない「毒」だ。

心の中で誰かに「怒りという目に見えない石」を投げる者に、神は「苦々しい怒りの感情という目に見えない毒」を強制的に刈り取らせる。

……「怒りの感情」「苦い感情」は人間の霊も肉も魂も破壊する目に見えない毒だが……「怒りの感情」「苦い感情」による破壊は大小様々だ。致命的な破壊もあれば、一瞬だけで済む「小さな痛み」=「小さな破壊」もある。

……誰かにたいしてあまりにも大きな怒りを感じることは霊肉魂に非常に大きな破壊をもたらす。それは鞭で非常に鋭く強く打ちたたかれて出血している深い傷口のように回復して痛みがなくなって傷口がふさがるまで時間が長くかかる「大きな破壊」「大きな刈り取り」「大きな警告」だ。「大きな怒り」は大きく深い「傷」を霊肉魂に「大きな刈り取り」として生じさせるが、ほんのささいな「小さな怒り」ですらも「小さな刈り取り」「小さな警告」として「小さな破壊」を強制的に生じさせる。

……誰かにたいして「小さな怒り」を感じることは霊肉魂に「小さな破壊」をもたらす。それは手のひらで打ちたたかれた時と同じで、痛みはあるが、痛みはその瞬間に生じるだけですぐに痛みはなくなる。手のひらで打ちたたかれた皮膚の部分がダメージを受けて赤くはれるが、すぐに回復してダメージはなくなる。

神は、誰かに対して怒る者に、「刈り取り」「こらしめ」「警告」として、霊肉魂に大小様々な破壊を生じさせることになる「怒りの感情」「苦々しい感情」を強制的に与える。

……何故なら……「神の目」「神のルール」で見るなら、誰かにたいして怒ることは、誰かにたいして目に見えない石を投げ、目に見えない矢を射掛け、目に見えない剣で突き刺していることと同じであり……誰かにたいして怒ることは、誰かにたいして目に見えない「のろい」を投げつけているのと同じことであるからだ……

……「怒りの感情」「苦々しい感情」は……誰かにたいして目に見えない「のろい」を投げつける者の頭の上に帰される目に見えない「のろい」だ。

"あなたをのろう者をわたしはのろう"
創世記 12章 3節

「怒りの感情」「苦い感情」は……誰かにたいして目に見えない「のろい」を投げつける者の頭の上に帰される「のろい」であると同時に……神から与えられる「こらしめ」「刈り取り」「矯正」「あわれみ」「警告」「守り」だ……

……神から「こらしめ」「刈り取り」「あわれみ」「警告」「守り」として「怒りの感情」「苦い感情」を与えられているのに「怒り続ける者」の霊肉魂は破壊され続け……怒りの苦々しい感情によってあまりにも霊肉魂が破壊され続けると……霊も肉も魂も永遠に滅びてしまうことになる。

"ところが、あなたは、かたくなさと悔い改めのない心のゆえに、御怒りの日、すなわち、神の正しいさばきの現れる日の御怒りを自分のために積み上げているのです。"
ローマ人への手紙 2章 5節

「"兄弟に対して怒る者は、だれでも裁判を受けねばならない"」……と書かれている御言葉に違反している者は「神の目」「神のルール」で見れば、十戒の「"殺してはならない"」に違反している。怒ることによって、十戒の「"殺してはならない"」に違反する者に与えられる「刈り取り」「こらしめ」「鞭」は霊も肉も魂も滅びに至らせる目に見えない「怒り等の苦々しい感情という火」目に見えない「心に突き刺さるいばら」だ。……「小さな怒りの感情が心に生じること」は、神から「お灸をすえられていること」「こらしめられていること」であり……「少しだけ怒る者」「水で薄めた怒りを少しだけなめた者」に与えられる「小さな刈り取り」「小さなこらしめ」「鞭」「かすかな火」「いばらのとげ」だ。……しかし……「鞭」「こらしめられること」は「恵み」であり、「あわれみ」であり、「愛」であり、「矯正」であり、「警告」であり、「守り」だ。……しかし……神の「あわれみ」「愛」「警告」「こらしめ」を無視し続けて怒りを飲み続ける者は……十戒の「"殺してはならない"」に違反し続けた刈り取りとして……怒りを飲み続けることをやめることができない中毒者となり、自ら「火」を飲み続ける者のように、霊も肉も魂も焼き尽くされて滅びる。誰も殺していないとしても、怒ることは神の目には誰かを殺すことと同じであるから、怒りに自分自身を捧げ続ける者は自分自身で自分自身に刑を執行し、自分自身で自分自身を滅ぼす者となってしまう。

……聖書に以下のように書いてある……

……"それで彼は、夜昼となく、墓場や山で叫び続け、石で自分のからだを傷つけていた。"
マルコの福音書 5章 5節

"神は正しい審判者"
詩篇 7篇 11節
"悔い改めない者には剣をとぎ、弓を張って、ねらいを定め、
その者に向かって、死の武器を構え、矢を燃える矢とされる。
見よ。彼は悪意を宿し、害毒をはらみ、偽りを生む。
彼は穴を掘って、それを深くし、おのれの作った穴に落ち込む。
その害毒は、おのれのかしらに戻り、その暴虐は、おのれの脳天に下る。"
詩篇 7篇 12〜16節

"逃げる雀のように、飛び去るつばめのように、いわれのないのろいはやって来ない。
馬には、むち。ろばには、くつわ。愚かな者の背には、むち。"
箴言 26章 2〜3節

"昔の人々に『殺すな。殺す者は裁判を受けねばならない』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。 しかし、わたしはあなたがたに言う。兄弟に対して怒る者は、だれでも裁判を受けねばならない。"
マタイによる福音書 5:21‭-‬22 口語訳