シャロームを所有する

私は預言の賜物の回復を願っている。しかし私は預言の賜物を否定する方々を心から尊敬し感謝している。私が預言の賜物を熱心に求めて聖書に従うためなら…私は預言の賜物を否定する方々を不満に思い…全て感謝せよと語る聖書に逆らってよいだろうか?預言を認める牧師先生だけ尊敬し…預言の賜物を否定する牧師先生含む5役者や教団教派の方々を尊敬せず…互いに尊敬しなさいと語る聖書に逆らってよいだろうか?自分が建てたい御言葉を建て上げるために他の御言葉を壊してできた砂の上に自分が建てたい御言葉を建て上げ…家を建ててよいのだろうか?

「③神の御国の秩序の中で生きる③霊的リーダーに反対されても神に従うことによってミニストリーを建て上げることができるが、ミニストリーのための良い土台は霊的リーダーに従い奉仕することによって築き上げられる」

イスラエルの民が偶像礼拝をした時、イスラエルの民に敵対する強力な民が立ち上がっていたように、霊的リーダーたちを見下し否定する人たちは、霊的リーダーたちが蒔いた種であり、霊的リーダーたちの刈り取りだ。

霊的リーダーは自分を偶像礼拝させていると知らずに自分を偶像礼拝させている。どのようにしてか…「霊的リーダーに従うこと=神に従うこと」と教えることによってだ。

「私のような者になりなさい。私の好む者になりなさい。私にとって役に立つ者になりなさい。私に逆らってはいけない。私に逆らうことは神に逆らうことだから」

あるいはこのように語る知恵深い霊的リーダーもいる「私が語ることは間違っているかもしれない。しかし、私が語ることが間違っていても、私が語ることばに従えば神があなたを祝福される。そして、神が私を取り扱われ、神が私に教える」

つまり…霊的リーダーに従ってさえいれば間違いないと言っている。

このことばは真理であろうか?間違ってはいないが正しいとは限らない。霊的リーダーに従っていることのゆえに受けることができる豊かな祝福がある。しかし、霊的リーダーに従うだけの生き方をしていることのゆえに失っている祝福もある。

「霊的リーダーに従うこと<神に従うこと」これが神の御国の秩序だ。私(あなた)(その人)にたいする神の御心の円の内側に「霊的リーダーに従うこと」という円がある。図にすると◎このようになる。

しかし、多くの霊的リーダーたちは「霊的リーダーに従うこと=神に従うこと」であり◎ではなく○であると語る。霊的リーダーに従わないことは全て神の御心から外れていて危険だと語っている。図にすると⭕️このようになっているかのように羊飼いたちは語っている。

しかし…私の(あなたの)(その人の)霊的リーダーには隠されているが私(あなた)(その人)に啓示されている神の御心がある。図にすると🔘このようになる。黒い円が霊的リーダーに認められ、同意してもらえる神の御心。黒い円の外側の白い円は霊的リーダーには認められず、同意してもらえないが神が私(あなた)(その人)に啓示しておられる神の御心。

反対に白い円の内側の黒い円は🔘私(あなた)(その人)が霊的リーダーの教えや指示を受けることによって建て上げられる土台。

この土台がなければ🔘黒い円の外側にある白い円の働きは安定を欠いたものになる。

反対に霊的リーダーに従うだけしかしないなら🔘私(あなた)(その人)であるからこそ成し遂げることができる白い円の範囲に届かず黒い円の範囲にしか届くことができない。

神は試す。「神が選んだ霊的リーダーに従うことによって神に従う」かどうかを。しかし反対に「霊的リーダーに逆らうことになろうとも神に従う」かどうかも神は試す。

霊的リーダーに従うことで得られる土台があり、霊的リーダーに逆らってでも神に従うことによって建て上げ実現させることができるビジョン、働き、ミニストリーがある。

ミニストリーは土台がなければ立ち行かない。

反対に土台しかないなら、霊的リーダーや誰かのミニストリーを支えることしかできない。

霊的リーダーや誰かのミニストリーを支えるために神によって油注がれ、選ばれている人はそれでいい。神のデザイン、計画通りに生きることができている。

霊的リーダーや誰かのミニストリーを支えるために神によって油注がれ、選ばれている人にとってはそれが奉仕であるだけでなく、ミニストリーでもあるからだ。

しかし、霊的リーダーや誰かのミニストリーを支えることとは別のミニストリーのために選ばれ油注がれている人たちが存在する。

ミニストリーとは何であろうか?奉仕とは何であろうか?私は以下のようなものであると考えている。

ミニストリーとは=人ではなく神によってその働きのために選ばれ油注がれている人がその働きをすることだ。

奉仕とは=他の人の働き、ミニストリーを助け、支えることだ。

例えば教会を掃除することのために神に選ばれ油注がれている人が教会の掃除をすることは牧会者のミニストリーを支える奉仕であり、その人自身のミニストリーでもある。

奉仕は他の人でもできるが、ミニストリーはその人がそのミニストリーをするからこそ現される神の栄光があり、神の御国の栄光が現され、神の御国が神の栄光によって建て上げられる。

しかし、私はこの働きのために油注がれ選ばれているので他の人のミニストリーを支える奉仕はしないと言うなら、神の御国の秩序と調和、神の栄光を失うことになる。土台がなければミニストリーは立ち行かない。"また、あなたがたが他人のものに忠実でなかったら、だれがあなたがたに、あなたがたのものを持たせるでしょう。"(ルカの福音書 16章 12節)

羊飼いは自分を偶像礼拝させていると知らずに自分を偶像礼拝させている。どのようにしてだろうか?多くの羊飼いは言う「私に従わないこと=神に従わないことだ。私に従えば神があなたに計画しておられる最も良い祝福、最も良い人生を生きることができる」

このことばが当てはまる人もいるかもしれないが、全ての人には当てはまらない。🔘霊的リーダーには黒丸の外側は神によって隠されている。

霊的リーダーに従う人生は祝福された良い人生だが、最も良いものであるとは限らない。🔘霊的リーダーに従うだけでは黒丸の外側にある神の御心と神の計画、栄光、デザインが失われる。

例えば使徒として選ばれている者が自分の霊的リーダーである牧師の言いなりになるだけであるなら使徒となる可能性を失い、使徒ミニストリーを失う。預言者として選ばれている者は預言者となる可能性を失い、預言者ミニストリーを失う。

その人の霊的リーダーが牧師であるなら、牧師の言いなりになるだけでは使徒預言者となる良い土台は築かれることになるが、使徒預言者となることはできない。何故なら聖書に以下のように書いてあるからだ。"弟子はその師にまさらず、しもべはその主人にまさりません。"(マタイの福音書 10章 24節)

牧師が使徒預言者より下なのではない。

使徒預言者は牧師にはできない良い働きをすることができるが、牧師に選ばれている人が牧師になれば、使徒預言者にはできない良い働きをすることができる。

反対に牧師に選ばれている人の霊的リーダーが使徒預言者であって、使徒預言者にならせるなら自分にまさらない使徒預言者、弟子としてしまう。

牧師に選ばれている者が牧師となることで、使徒預言者にまさる牧師としてのミニストリーができる。良いとか、まさるまさらないは規模の大きさや人数の多い少ないではない。多くの場合、規模は使徒の方が大きいだろう。まさるまさらないは神の計画、デザイン、御心のとおりかそうでないかだ。

「私に従わないこと=神に従わないことである」と語る羊飼いたちに私は言おう。

「確かにあなた方は神に選ばれ油注がれた羊飼いです。しかし、神は時に羊飼いの目を御手で覆い隠し目の見えない手引きとならせます。神はそのようにして羊飼いを試し、羊飼いに依存してより頼んでいる羊を試します。

今この時代、神はますます羊飼いたちの目を御手で覆い隠しながら、こう言われているのではないでしょうか?"子どもたちをわたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。"(ルカの福音書 18章 16節)

今この時代、神は人が神のためにつくった教会の秩序、ルール、人間の秩序から神の御国の秩序へ入るように選ばれ召されている者たちを招いておられます。全員ではありません。皆が新しい場所に移動して、皆が増築の働きをするようになって、今までの場所に人がいなくなったら…その場所の建て上げ、修繕、メンテナンスは誰がするのですか?

だから増築のために呼ばれている人たちも、今の場所にとどまる人たちも互いに見下し合ってはいけません。神が願っている働きをしている尊い方々を互いに見下し合いさばくことになるからです。

"見よ。わたしは、主の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。
彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、のろいでこの地を打ち滅ぼさないためだ。」"
マラキ書 4章 5〜6節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会

"なぜなら、神は、すべての人をあわれもうとして、すべての人を不従順のうちに閉じ込められたからです。
ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう。"
ローマ人への手紙 11章 32〜33節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会