神は三位一体の神だ。二位一体の神ではない。神は三位一体の神であって、二位一体の神ではないから、どちらか一方に片寄った存在ではない。
そのような三位一体の神のかたちとして、三位一体の神に似せて創造された人間が(創世記 1章 26節)もし、どちらか一方に偏って生きるなら、三位一体の神のかたち、神の似姿、神の栄光を失う。
聖書に書いてあることばの一部分を強調し、聖書に書いてあることばの一部分を否定して空文にしてしまうなら、神の心を失う。強調することは問題ではない。問題は他を否定することだ。神の心は聖書のことばの一部分にあるのではなく、聖書のことばの調和の中にある。
"主の書物を調べて読め。これらのもののうちどれも失われていない。それぞれ自分の連れ合いを欠くものはいない。それは、主の口がこれを命じ、主の御霊が、これらを集めたからである。"(イザヤ書 34章 16節)
それと同じで、ある人を尊び、ある人を見下すなら、神の御国の調和を失う。尊ぶことは問題ではない。問題は他を見下すことだ。
聖書にこう書いてある"一方にくみし、他方に反対して高慢にならないためです。"(コリント人への手紙第一 4章 6節)
目が手に向かって「あなたはいらない」と言うことはできないし、頭が足に向かって「あなたがたはいらない」と言うこともできません。[新改訳2017](コリント人への手紙 第一 12:21)
"あなたがたが、りっぱな服装をした人に目を留めて、「あなたは、こちらの良い席におすわりなさい」と言い、貧しい人には、「あなたは、そこで立っていなさい。でなければ、私の足もとにすわりなさい」と言うとすれば、
あなたがたは、自分たちの間で差別を設け、悪い考え方で人をさばく者になったのではありませんか。"(ヤコブの手紙 2章 3〜4節)
前回と同じ質問になるが…私たちは霊的リーダーに従うべきだろうか?…私は前回、片方を強調しながら解答したが、今回はもう一方をフォーカスして強調しながら以下のように解答しよう。
人を愛さない者が神を愛すことはできないと聖書にあるように、人に従うことを知らない者が神に従うことはできない。
だから、十戒の1つ目は "あなたの父と母を敬え。" となっている。これが神の御国の秩序の土台であるからだ。
しかし、それとは反対に、人の言いなりになるだけの者も神に従うことはできない。
私たちは神が定めておられる神の御国の優先順位、神の御国の秩序の中に生きなければ、神の栄光を輝かせて生きることができない。
「霊的リーダーに従うこと<神に従うこと」…これが神の御国の優先順位であり神の御国の秩序だ。
神の御国においては「神に従うこと」と「霊的リーダーに従うこと」のどちらか片方だけがあるのではない。
神の御国では片方と、もう一方とが神の御国の優先順位、神の御国の秩序によって調和して1つになっている。
霊的リーダーを見下し「霊的リーダーに従う必要はない、神にだけ従えばいい」と公言し、「霊的リーダーに従わなければならない」と書いてある聖書のことばを削り取り空文にするなら、神の御国の調和を失い、神の栄光を失う。
聖書には"あなたがたの指導者たちの言うことを聞き、また服従しなさい。"(ヘブル人への手紙 13章 17節)と書いてあるし、以下のようにも書いてある。
"人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。
したがって、権威に逆らっている人は、神の定めにそむいているのです。そむいた人は自分の身にさばきを招きます。"(ローマ人への手紙 13章 1〜2節)
このように霊的リーダーに従うべきだと聖書にはっきりと書いてある。霊的リーダーを見下し、霊的リーダーに従うべきではないと考え言い広めている人々はこれらの聖書のことばを空文にしている。
"こうしてあなたがたは、自分たちが受け継いだ言い伝えによって、神のことばを空文にしています。そして、これと同じようなことを、たくさんしているのです。"(マルコの福音書 7章 13節)
霊的リーダーを否定する人たちは「私たちは神様と直接つながりたい」と言っている。
そのような神の御心にかなう願い、志し、ビジョン、飢え渇きが神から分け与えられている尊い人たちだ。
だから私はその願いについて「アーメン」と言う。その願いは神の心から来ている願いであるからだ。しかし、私は霊的リーダーを見下さず、否定しない。霊的リーダーを見下し否定することは神が備えて下さっているみことば、岩、土台、柱の一部を砂と取り替えることであり、大きな破れ口となる。
神が備えておられる霊的リーダーたちを見下しながら、神から受けているそのビジョンを実現させることができるだろうか?
途中まではできるだろう。だが途中までしか建て上げることができない。完成させることはできない。土台が不安定だからだ。
"あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が命じられたとおりに。それは、あなたの齢が長くなるため、また、あなたの神、主が与えようとしておられる地で、しあわせになるためである。"(申命記 5章 16節)
しかし、霊的リーダーたちを見下し否定する人々は神のビジョン、計画を途中までではあるが建て上げてくれている。
霊的リーダーたちを見下し否定する人々は「神により頼む以上に霊的リーダーにより頼み依存してはならない」という神の心、メッセージを神から預かって表し続けており、建て上げ続けてくれている。
そのようにして神の御心のために働いている尊い人たちであり、そのように神が願っておられる働きをしている尊い人たちを迫害している羊飼いたちは「そんな神に喜ばれない働きはやめて私が教えている神の御心に従え」と言っている。
神が願っておられることをしている人たちであり、神がデザインしておられるとおりの教会へと今以上に回復させ、神の宮を再建しようとしている人たちに「そんな神に喜ばれない働きはやめて私に従い、神に立ち返れ」と語ることが神の御心だと信じている羊飼いたちがいる。
そのように羊飼いたちにどんなに非難され、迫害されようとも、神がデザインしておられるとおりの教会を回復させ、神の宮を再建しようすることをやめない…が同時に自分たちを迫害している羊飼いたちを見下すこともやめずに同時進行で続けているので蒔いている刈り取りがある。
羊飼いたちに理解されず非難され、迫害されようとも神がデザインしておられるとおりの教会を回復させ、神の宮の再建のために働いていることのゆえに神に豊かに祝福されているが、羊飼いたちを見下している刈り取りが免除されるわけではない。
それと同じように、神の宮と羊を守るために神に従い神に仕え続けていることのゆえに豊かに祝福されている羊飼いたちも…神の御手で目を覆い隠されているために、神の宮を再建しようとしている者たちを見下し迫害してしまっている刈り取りが免除されるわけではない。
互いに神に喜ばれる働きをしていることのゆえに豊かに神から祝福されていて…互いに見下し合っていることのゆえに互いが互いの刈り取りとなっている…。
"悪者をえこひいきすることはよくない。正しい者をさばきのときに否むこともよくない。"
(箴言 18章 5節)
"見よ。わたしは、主の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。
彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、のろいでこの地を打ち滅ぼさないためだ。」"
マラキ書 4章 5〜6節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会
"なぜなら、神は、すべての人をあわれもうとして、すべての人を不従順のうちに閉じ込められたからです。
ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう。"
ローマ人への手紙 11章 32〜33節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会